第180話「おはよう朝だよ」


 翔はふと目を覚ました。いつもより硬い感触にぎょっとするが、昨日、いや今日の早朝にどこで寝たのかを思い出した。


「……どうやら落ちたらしい」


 ソファで寝たと記憶しているのだが、今は床の上に寝転がっていた。どうやら寝返りをうった時に落ちてしまったらしい。


 どうして翔が自室で寝ていないのか。


 寝惚けた頭では瞬時に思い出せなかったものの、痛みと軽い推理をしたせいか、はっきりしていく。


 桜花を仕方なく翔の部屋のベッドに寝かせたのだ。あの時は仕方がないなぁ、程度にしか考えていなかったものの、いざ、今のように冷静になってみると、なかなか凄いことをやっているような気がする。


 女の子を自分のベッドに寝かす。


 その一文だけで翔はとても後ろめたいことをしでかしてしまったような気持ちになる。しかし、翔は全くそう言う意図を持って寝かせた訳では無い。断じてない。


 桜花が水を飲みに降りてきて、力尽きたように寝てしまい、冷たい床で寝かせるのもアレなので、お姫様抱っこして翔のベッドに寝かせたのだ。


 桜花の部屋に入れる、と少し期待したが、それは本人が寝ている時にすることではないだろうと自重したのだ。桜花はいつか入らせてくれると言っていたのだから、焦る必要も無い。


「……僕にしては偉く早起きだなぁ」


 翔が時計を見ると時刻は午前6時30分辺りを指していた。

 翔が休日にこんなに早く起きていることは珍しい。というより、初めてだ。

 桜花も休みの日ぐらいは、と8時30分程までは起こすのを待ってくれている。


 翔は痛む腰を擦りながらのっそりと立ち上がった。

 そして、一歩一歩を確かめるようにのっそりと踏み、階段を上がっていく。


 まだ寝惚けているのだろう。

 瞳はまだ完全には空いていないし。ふらふらと足元が覚束無い。これで顔が赤くなっていれば、完全に酔っ払いの出で立ちだった。


 翔は何も考えることなく、自室の扉を開いた。

 そして、完全に目覚めた。


 それは当たり前といえば当たり前で、翔はもう一度寝るために自室へと入ったのだが、そこにはもぞもぞと動いている先客がいたのだ。


 翔が入ってきたことを認識した様子はなく、動いていたのはただの寝返りのようだ。

 翔は何となく安堵のため息を吐いた。


(……これは一体どうすればいいんだろうか。このまま退散すべきか、桜花の顔を拝むか)


 翔の中では究極の二択とも呼べるそれが思い浮かんでいた。


 しかし、その究極の二択は何一つ翔の意識の妨げにはならなかった。


(早起きは三文の徳ってやつだろう。いや、三文以上の価値だけど)


 翔の意思は一直線に単純だった。


 翔は桜花の頭の近くの床にべたっと座り込んだ。持久戦の構え、という訳では無いが、一緒に寝る訳にも行かない。

 ぎりぎりまで近くで見ることの出来る距離がそこだった。


 翔の視界には今のところ、桜花の後頭部しか見えていない。先程の寝返りがなければ早速寝顔を見られたのかと思うと少し悔しい。


「……綺麗な髪」


 しかし、それはそれとして、桜花の枝毛ひとつなく、一本が輝くほどに美しい髪は寝ているときでさえ綺麗だった。


 鼓動が加速し、自然と手が伸びていく。


 翔が桜花の髪に触れようとしたその瞬間に、桜花はもう一度、寝返りをうった。


 それは逆に言えばずっと待ち望んでいた桜花の表情を見られた、ということでもあった。


「……ッ」


 翔は見蕩れてしまった。どうしようもなく心を全て溶かされてしまった。

 いつもの凛とした礼儀正しい桜花の姿は薄れ、年相応のあどけなさが残る寝顔だった。


 心臓が泊を打ちすぎて痛む。

 翔は慌てて胸に手を当てて、深呼吸も混じりながら気持ちを沈める。


(破壊力抜群だ……。僕に対しての特攻でも付いてるんじゃないのか?)


 そんな軽口を叩かなければすぐにでも身体の制御を手放してしまいそうだった。


「桜花」


 小さな声で桜花の名前を呼ぶ。自分でも起こしたいのか、起こしたくないのかは分からない。

 しかし、どうしても桜花の名前を呼びたかった。


 桜花は反応することなく、未だにぐっすりと眠っている。

 次、もう一度呼ぶと起きてしまうのか、それともまだ大丈夫なのか。

 そんな思いが浮かぶ。


「桜花」


 今度はもう少し大きな声で呼ぶ。

 すると、桜花の眉が少しだけぴくりと動いた。


 これ以上は危ない。そう思いつつも、何かしたいという衝動に駆られる。

 翔はその桜花の柔らかそうな頬に自分の手を重ねた。もっちりとした想像通りの柔らかい感触に翔は気持ちよくなってふにふにと触る。


(何だこれ、柔らかい)


 翔は試しにもう片方の手で自分の頬を抓ってみたが、全然感触は桜花の足元にも及ばないし、ただ単に痛いだけだった。


 これが女の子なのか、と翔は感慨深くなった。

 頬だけで断ずるのは如何なものか、とも思われたが残念ながら、ツッコミ不在である。


「可愛いなぁ」


 翔は言うつもりはなかったのだが、意図せず口から漏れ出してしまった。


「……んっ。んー」


 それに反応した訳では無いだろうが、桜花がうっすらと目を開けた。


 潤んだ瞳に見つめられた翔は石のように固まってしまった。

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