第167話「する方になる」
翔がいくら呼び掛けても桜花は全く反応を示さなくなってしまった。それどころか、桜花は翔の肩にぴったりと寄り添い、身体を預け、眠ってしまっていた。
帰りの船の心配をしておきながら、人の肩で眠るとは……。胆力があると言えばいいのか、マイペースだな、と苦笑すればいいのか。
翔はどうしようも出来ないと言うことに今更ながらに気づき、桜花を呼び掛けることをやめた。
一旦寝てしまうと起こされたくないのが、翔と桜花の共通のスタイルだ。学校がある日などは仕方がないが、自由に過ごせる日ぐらいは心の赴くままに自然に起きるまでは寝ていたい。
今回は桜花の気持ちが手に取るようにわかっていた。
「……この姿を船長に見られたらどうするんだろ」
船長も気まずいだろうが、翔も気まずい。
翔は来て欲しいようなもう少し遅れてからにして欲しいようなどちらとも取れない感情に支配された。
すると、桜花の頭がずるずると落ちていき、翔の胡座をかいていた、膝に不時着する。
びくっと背筋を撫でられたような感触に襲われて背中を反らしてしまう。
幸いにも桜花が目覚める様子はなく、すぅすぅと穏やかな寝息をたてていた。
(される方は前にあったけど……する方は初めてだな)
冷静な分析はかえって荒ぶっている証拠でもあった。
水着で布、という感じが私服よりも断然に薄く、桜花の温もりが膝に伝わる。パーカーを着ているとはいえ、前のチャックを閉めてはいなかったので、見えそうで見えないという健全な男子高校生を誑かしてくる。
「……精神に対する破壊力が凄まじいな」
眠っている桜花に向けて、そう零す。
ダイレクトに伝わる桜花の体温や柔らかな人肌は翔の理性をどろどろと溶かしてきて、本能を焚き付けてくる。
この本能に従えばどうなるのだろう。
翔は次第にそんなことを思い始める。
男には永遠に分からない女性だけの未知の世界を体験してしまうのだろうか。
それとも、寝ているのをいいことに、その艶やかな唇を奪ってしまうのか。
翔はどちらかと言えば後者の方に傾いていた。
キスはこれまでに何度もしたことがあり、それ自体に抵抗感はあまりなかったからだ。
しかし、強いて言うとすれば、桜花が眠っていて、自分一人が昂ってしてしまう事。
それが、翔を実行に移させない最後の砦だった。
前者は妄想でならば、何千、何万回とでてきたシチュエーションではあるが、実際にするとなると気遅れするのが事実。そういうことはちゃんと本人の同意を得てから、という謎の翔の生真面目な部分がここぞとばかりに主張をして、翔の行動を阻む。
「んっ……ん」
(寝言?!)
桜花が何かを呟いたように聞こえ、慌てて思考を打ち消し、耳を澄ませる。
好きな人の全てが知りたい、という欲は当然のことで、勿論寝言も含まれる。
いや、含まれる、というよりも最早寝言が一番知りたい、と豪語するまである。
寝言は理性というフィルターを通すことなく、声帯から喉を振るわせて、言葉を紡ぐという、無防備な状態である。つまり、桜花が考えている本音と近しいものが聞こえるということでもある。
翔は桜花の口元に耳を近づけ、何も言っているのかを聞き取ろうとした。
「……好き。翔……くん」
翔の心臓が飛び跳ねるほど飛び上がったのは言うまでもない。
全ては聞こえず、断片的なことしか聞き取れなかったが、それでも充分に満足できるほどの寝言だった。
後でこのことを桜花が知ったらどのような反応を示すだろうか。
きっと顔を真っ赤に染めて頬を膨らませて怒るに違いない。
「……僕がもし桜花の立場だったら同じようなことしそう」
翔はそう思って微笑みを漏らす。
相変わらず、翔の膝で気持ちよさそうに眠っている桜花。
人の気持ちも知らずに何とも無防備だな、と思う翔。
翔がふと、顔を上げると、夕陽の丁度隣に金属の塊らしきものが、こちらへ向かってきているような気がした。
恐らく船長が迎えに来てくれたのだろう。
これで本当に終わりか、と寂しく思う一方で、充分に楽しめたという満足感も残る。
「桜花はどうだ?」
返って来る答えはないと分かっていてもついつい訊ねてしまった。
翔がじっと桜花を見つめる。
海から「ぶぉ〜」と重低音強化された動物の鳴き声のような音が聞こえてくる。
翔が見つめていたからか音に反応してか、桜花はぱちりとその純粋で美しい瞳を瞬かせた。
「翔……くん?」
「おはよう」
「おはようでは無いと思いま……」
翔は言うが早いか、桜花の唇に自分のそれを重ねた。
驚き目を開かせる桜花。あまりにも突拍子だったせいか、「ん〜っ!」と塞がれた口で声を上げようとするが、翔には通じない。
それどころか翔は海の中で行ったように順調にでは無く、恐る恐るとしたものであったが、舌をちろりと桜花の唇に這わせるようにして舐めた。
「待っ……んッ」
桜花は手で翔を叩き、一旦の休憩を求めるが、それもまた無視。いや、翔もきっといっぱいいっぱいで桜花のサインが見えていないのだろう。
脳が痺れて翔の主張を受け入れる。
舐められおかしくなってしまいそうだった。
翔がそっと離した時には、桜花は気持ち良さそうに目を細くさせて、くたっとしていた。
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