第168話カクヨム蒼星300突破記念ss「とても入念な準備体操」


 帰りの船の中で翔は物思いに耽っていた。船長は元々無口であり、翔と直接、接点がある訳では無いため、話し掛けるのも気遅れする。


 修斗がどうやってこの船長と親睦を深めたのかは気になるところではあるが、今はそれどころではなかった。


「……準備体操」


 脳裏に蘇るのは勿論、桜花と二人きりの先程までいた、無人島での数々の出来事。

 しかし、特に記憶にこびり付いて離れないのは海に入る前の入念な準備体操だろう。


 翔は自分で横に寝かせた桜花がまだしっかりと寝ていることを桜花の顔の前で手をひらひらさせて確認した。


 どうしても顔が意志とは関係なく動いてしまいそうだったからだ。この顔を桜花に見せる訳には行かない。


「大丈夫そうだな……」


 口に出しては見るものの、若干の不安は残っていた。


 しかし、これ以上の尽くせる手がないので、あとは桜花が起きないことを祈るしかない。


 桜花との準備体操は翔があまりにもおざなりにしてしまったがために起こった一種のアクシデントである。


 今でも鮮明に思い出せる。


 翔が長座体前屈を不格好ながら挑戦していると、桜花が翔のあまりの身体の固さにため息を一つ吐くと、後ろからゆっくりと押してきたのだ。


 いくら身体が固いとはいっても、後ろからゆっくりと押されるので、翔も前に倒れていく。


 しかし、翔の身体の抵抗が強かったのか、桜花は更にそれ以上に翔の身体を全身を使って押したのだ。


 それはつまり、後ろから抱きつかれたと言っても過言ではないわけで。


 生物学上で男性には絶対にない柔らかなものがむぎゅーっと背中に伝わる。


 ふわっ?!と声を漏らして力が抜けた翔は、身体が抵抗しているのもお構い無しで限界を超えて曲がる。


 すると、桜花もバランスを崩し、翔の背中に乗っているような状態になってしまった。


 これはいけない……。


 翔は身体の痛みと理性が全身を駆け巡り、限界まで引き絞られた弓矢のように反動で起き上がる。


 どきどき、と鼓動がうるさい。


 自分の心臓を押さえつけていると、桜花が不思議そうな顔をしていたので慌てて誤魔化した。

 その時に、一人でする、と言えば良かったのだが、すっかり失念していたため、今度の開脚で長座体前屈をする時にも桜花が後ろでスタンバイしており、再び押されることになった。


 翔は背中が先程の柔らかな感触で満たされることを覚えていたので、理性としてはそんなことはない方がいいとわかっているのだが、本能では期待せずにはいられなかった。


 それが男の子というものだ。


 翔が右脚に手を伸ばすと、桜花は翔の左側からゆっくりと押してくる。

 先程の失敗から学んだのか、桜花はそこまで強くは押してこない。だからだろうか、翔は少し余裕が出来、ふと、左方向を向いた。


 それは桜花のいる方向で、つまりは限りなく近い距離で二人は見つめ合うことになった。


 どきどきと徐々に早くなっていく。


『あの……反対向きますか?』

『あぁ……。うん』


 どこかぎこちない会話をして、翔は左脚に手を伸ばす。


 妙に桜花を意識してしまったからか、右耳から聞こえる桜花の水着が摺れる音や、呼吸音、その全てが、音響機器で強調されたかのように翔の耳から脳に飛び込み、思考を支配される。


 桜花が時折出す「ん」や「ふっ」と言った吐息混じりの声が愛おしくて堪らない。


『次は前ですね』

『……う、うん』

『どうしました?』

『どうもないよ』


 どうしました、と訊かれてもどうもしていないと答えるしかない。


 翔は体勢を戻し、今度は開脚で前に倒れる。

 その時、翔の腰辺りにするっと腕が伸びてきて、がっちりとホールドされた。


 後ろからぎゅっと抱き締められた。そう認識した途端に待ち望んでいたというと変態に聞こえるが、兎も角、二つの柔らかいものが翔の背中にむぎゅーっと押し付けられる。


 どうして開脚して倒れるつもりなのに抱き締めらるのか、という当たり前の疑問はどうでもよかった。


『桜花……』

『翔くん……。重いとは言わないでくださいね』

『……はい?……ふぎゃあぁああ?!』


 翔の惚気気分は突如現れた超重力によって無惨にも消え去った。


 桜花が翔の上に思い切り乗ったのだろう。

 翔が桜花を「重い」などということは天変地異が起こったとしても、明日地球が滅ぶ、と言われてもありえない話なので、桜花の心配は無用の長物だった。


 しかし、覚悟が出来なかったため、身体にかかる負担は想像を絶した。


 自分ではありえないほどに自分の身体が曲がっているのだ。骨が折れてしまったのではないか、と錯覚するほどである。

 翔は身体が柔らかくなっていると信じて、桜花の思いを蔑ろにしないために頑張って耐え忍んだ。


 頭上から何なら桜花が言っているような気がするが、何一つ分からない。

 ぎゅっと桜花が翔の耳元に顔を近付ける。

 ぎゅっと重力が増す。


 しかし、それはそれで、言ってしまえば桜花の胸が最大限、翔の背中に押し付けられたわけで……。


 そう前向きに捉えた翔は思考を船に乗っている自分へと戻し、恥じらいながらも感触を思い出し、表情を崩すのであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る