第161話「海の世界」


 そこはとても現実とは思えなかった。

 現実離れした経験をしている、という意味では桜花と出会った時もそうなのだが。


 ゴーグルを付けているので裸眼で見るよりもよりはっきりと鮮明に映る。水中なので、桜花と言葉を交わすことは出来ないが、入った途端に飛び込んできた光景を目撃した時に顔を見合せたので感じたことはきっと同じだろう。


 海洋生物が自由気ままに生活している。ウニやカニは勿論、小さな魚達も翔達を歓迎するかのように、その姿を見せてくれる。


 触れることはしなかったものの、小さな生物が自分達を歓迎してくれているので、つい頬が上がってしまう。


 その上がった瞬間に桜花が翔の頬を指でつついた。


 何をするんだ、と目線で伝えると、桜花は何も無いです、というような素振りを見せた。


 もしかして構って欲しいのか、と一瞬だけ思ったが、どうも違うらしい。桜花はその後、翔を気にした様子もなく海洋生物に見入っていたからだ。


 何となく、もやっとした感情が翔の心を渦巻く。嫉妬と言うにはあまりにも小さいそれは翔の身体を支配して、翔が気付いた時には桜花の手をぎゅっと握っていた。


 水中で手を繋ぐ、という行為は初めてだったのだが、いつもとは少し違う感触がした。周りの水が翔達の手を水圧で押しているのか、いつにも増して強く握っている。


 しかし、その時間はいつまでも続くことは無い。

 翔が目配せをすると、桜花も了承して、二人は呼吸のために浮上する。


「久しぶりで息が続かないな……」

「あともう少しだけ」

「うん、ちょっとだけ待って」


 翔のぽつりと零した言葉をもう終わりにするのか、と勘違いした桜花はもう少しだけ、と懇願した。

 翔自身ももう一度潜って、あの光景をしっかりと目に焼き付けたかったので、異論はなかった。ただ、息が上がっているため、今すぐに潜ったとしても直ぐに浮上しなければならなくなる。


 万全の体制とはまでの回復は難しいだろうが、先程に準ずる程の潜水はできるようにしておきたい。


 先程からずっと離すことの無い二人の手。

 息が上がっている中の理由の一つに未だに桜花との触れ合いが慣れていないというのが隠れているのを翔はようやく認識した。


「よし、潜るぞ」

「はい!」

「一、二の三!」


 翔の呼び掛けと共に一気に空気を吸い込み、海の世界へとダイブする。

 気泡が視界を阻む。

 しばらくして気泡が消えると、そこには先ほど見た光景が広がっていた。


 やはり、美しい。


 そう翔がしみじみと思っていると、桜花が翔に思い切り抱き着いてきた。しがみついてきた、と表現してもおかしくはないほどに抱き締めてくる桜花に何が何だか訳が分からず、翔は混乱するしかない。


 水着というのは身体のラインがくっきり出る。それは水着という布が身体に深く密着していて、尚且つ、物凄い薄いことを示している。


 今更、哲学めいた言葉を並べているのは一重に抱き締められたことで感知出来る桜花の身体の感触を意識しないようにするためである。


 しかし、翔の意識は次の桜花の行動で現実に固定されてしまう。


「……?!」


 何と、桜花が自分の唇を重ねてきたのだ。

 今までも何回かはしたこともあるし、桜花からされるというのも初めてではない。

 だと言うのに、この破壊力は水の中だからだとしか考えられない。


 驚き、呼吸が乱れ、酸素が抜け出ていく。兎も角も桜花を離さなければ、と思うものの、水の中では力の差というのは虚無に等しくなるらしく、桜花の抵抗で難なく不発に終わる。


(ちょっ……息が)


 翔は先程の潜航の弊害もあり、息が持たず、限界に近かった。残りの空気も無駄に吐き出してしまい、翔は酸素を渇望する。


「……ッ?!」


 すると、翔の中に入ってきたのは待ち望んでいた酸素と、今まで感じたことの無い、変な感触。

 舌が交わり、脳に電流が走る。


 それが、桜花の舌であることを理解するのに相当の時間を要した。

 拙くも送られてくる酸素を受け取り、飛びかけていた意識が留まる。

 本当なら今すぐに離して貰って浮上した方が早いのだが、脳が電流で官能的になってしまったのか、まったくその考えが浮かばない。


 その代わりに、全く別のことが思い浮かばれた。


(人魚姫みたいだな……)


 朧気な意識で感じたのは合間から辛うじて見える桜花の容姿と海の世界。

 美しいと表現するしかなく、それ以外の言葉は全て不遜にあたるような、そんな光景。


 翔がここに一部として存在していることすら烏滸がましいような童話の世界、夢の世界。


 桜花がキスをやめてもう一度ぎゅっと抱き締めてくる。


 人魚姫に抱き締められているような感じだ。元より人間離れした美貌の持ち主であるが、世界が現世から海へと変わってもそれは健在だった。


 どきどき、と鼓動が一秒を何十回と刻み、翔の意識は遂に限界を迎えた。


 優しく桜花の頭を撫でて、翔はゆっくりと目を閉じた。海の流れるままに、桜花の思うままに、翔は身を任せた。


 翔の様子にすぐに気づいた桜花ははっと表情を落としたあと、急いで浮上を始めた。


 夢の世界は起きると全く思い出せないらしい。しかし、この夢の世界に勝るとも劣らない海の世界は翔の脳裏に鮮明に焼き付いた。

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