第160話「海水浴」
とても入念な準備体操を終え、遂に海へと入る。
桜花が不必要ではないかと思えるほどに密着してきたので、未だに激しくなった動悸が正常に戻ってくれないのだが、きっと海に入れば治ってくれるだろう。
翔はそんな期待も込めつつ、そっと入水する。
思っていたよりも海水温度が高いらしく、ちょうど良い温度だ。浅瀬でゆっくりと肩まで浸かり、身体を慣らせて泳ぎ始める。
本当なら飛び込みでもして、はしゃぎたいのだが、桜花の視線がプールの監視員の見せるそれと全く同じで、しようにもできなかった。
翔がもし足をつらせて溺れてしまったら、という話を聞いてしまった手前、強くは言えなかったのだが、そこまで過保護にならなくてもいいのに、と思わずにはいられない。
心配されていることに少しだけ嬉しく思いながらもあそこまで神経を張り詰めていたら楽しむものも楽しめないだろう、と思う。
「桜花もおいでよ」
翔が呼ぶと、何やら返答があったが、元々の声が小さいのか、波の音が大きいのか、兎も角声が聞き取れなかった。
翔がもう一度問うと、今度は翔も耳を澄ませていたからか、か細い声が聞こえてきた。
「……泳げません」
「……はい?」
翔は耳を疑わずにはいられなかった。
何でもそつなくこなす桜花が泳げない、と言っているのは信じられない。
そんな思いが表情に漏れ出ていたらしく、桜花がむすっと頬を膨らませながらも翔の方へと向かう。
翔も浅瀬に戻り、桜花を待つ。
「泳げないのか……?」
「いえ、泳げますよ。でも、海は少し怖いので……」
「僕が居るから……って言ってもダメか?」
桜花がカナヅチではなかったことに安心感の強い納得をした後、翔は桜花を海へと誘う。折角、ここには誰もおらず、二人きりなのだ。
邪魔をする人がいる訳では無いし、何か失敗したからと言って笑ったり蔑んだりしてくる人もいない。
海が怖いのは翔も分かるのでこれ以上強く誘う気はなかったのだが、一緒に泳ぎたい、というのが本音だった。
「その言い方は……ずるです」
桜花はそう言って、翔に水をかけた。
全くの不意打ちで反応できなかった翔はそれを何の抵抗もせずに顔面に受け取ってしまい、一瞬の呼吸困難に陥る。
しかし、それは一瞬のことで、目に入った海水に悶え終わる頃には普通に戻っていた。
「海に浮かぶだけでも楽しいぞ」
翔はお返しに手でぴゅーっと水を水鉄砲の要領で桜花に食らわせながら言った。
翔が水を放射しきり、桜花に手を伸ばすと、桜花はその手に自分の手を重ねた。
それは合意のサインだろう。
翔は怪我をしない程度に、しかしバランスを崩すほどには力強く、桜花を引っ張った。
大きな水飛沫をあげる。
「何をするのですか!」
「海と言えばこれだろ」
「そのようなものは知りません」
「まぁまぁ」
少々ご立腹の桜花に、またぴゅーっと水を掛けてやると、桜花は水面に垂直に手を立てて、ずっと思い切り押し出した。
翔に波として降り掛かり、翔は頭からびしょ濡れになった。
くすくすと嬉しそうに笑うので翔も何がこんなにも自分を嬉しくさせるのかは分からなかったが、笑いが溢れる。
「楽しいな」
「頭から水をかけられた後に言うことですか?」
抑えきれない笑いを必死に堪えながら訊ねてくる桜花。何だか無性に愛おしい。
「桜花とこうして遊ぶのは初めてだから」
「そうですか?……海に来たのは初めてですけど」
桜花が首を捻る。翔が言いたいのはそういうことではなかったのだが、小首を傾げている桜花を見ているとほっこりとした気持ちになったので、それでもいいか、と訂正はしなかった。
桜花とのデートにはいつも多少の緊張が付きまとう。まだ付き合ってもおらず、桜花が初めて翔の家に訪れた時のショッピングモールは緊張し過ぎてもう記憶に残っていないほどだ。
家では多少慣れて普通に接することが出来るのだが、これが外になるとそうはいかないのだ。
カルマ達とのダブルデートや遊園地デート。
それらの時は無意識の内に桜花に集まる視線を気にしてしまったり、桜花との会話をゲス顔で盗み聞きしてくるカルマに気を取られたりして、ある意味で緊張していたのだ。
だから、家ではない外の空間で、二人きりではあるが、こうして普通に接していることに、翔は嬉しくなったのだ。
「潜りたいな」
「潜るのですか?」
「ゴーグルあったっけ?」
「確か……あったと思いますよ。シュノーケル用のではありませんが」
「充分だよ。そこまで深くは潜らないから」
これだけ綺麗な海なのだ。きっと海中は別世界が広がっているに違いない。
翔はまだ見ぬ世界に心を躍らせていた。
「私も一緒に潜ります」
「怖いんじゃなかったのか?」
「翔くんが居てくれるなら平気です」
「そうか」
真正面からはっきりと言われると、照れてしまう。
翔の照れが桜花には伝わらなかったらしく、きょとんとした顔をしていたのだが、急にふるふると首を振った。
「どした?」
「何でもありません。ゴーグルを取りましょう」
もしかしたら、気付いて衝動に駆られたがそれを抑えて正気を保つために首を振ったのか、と妄想を通り越してのありえない想像をした翔だったが、すぐにあるわけないか、とその考えを捨てた。
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