第159話「違うのです」


 翔は心がぎゅっと握り締められる感覚に襲われる。


「はっ……ふっ……んっ」


 翔が桜花の背中に塗り込んでいく度に桜花の口から無自覚に声が漏れている。

 流石の翔もただの善意だけ、という訳ではなかったが、あまりにも露骨過ぎるような桜花の嬌声に心做しか頭がぼーっとして何も考えられなくなりそうだった。


 ただ日焼け止めクリームを背中に塗っているだけなのに。たまたま布面積が小さくなり、素肌に触れているだけなのに。


 翔は心の中でそんな建前を並べてみるが触覚と聴覚がそれを現実と入れ替えることを許さない。


「ちゃんと……塗れてるかな?」

「こしょばい……ですけど……んっ」


 だからダメだって、と翔は口には出さないがそう思わずにはいられない。たまたま、無人島に来て、誰もいないからよかったものの、もし誰かいたらどうするつもりだったのか。


 いや、きっと桜花は無自覚なのだからどうするつもりだったのかは翔自身だったような気がしないことも無い。


「しっかり塗り込むぞ?」

「お手柔らかに……お願いしますね」


 翔とて、桜花の肌が自分の意思に反して焼けてしまうのは放っておけない。そして、その防護薬品である、日焼け止めクリームを任されている。


 桜花に入念に塗ってもらったことも鑑みるても、より緻密なところにさえも手を伸ばして届かせるべきだろう。


 翔は追加で自分の手にクリームを落とし、うつ伏せに寝転んでいる桜花の首からもう一度しっかりと塗り込む。


 首から肩、肩から腕、背中。

 水着との間も塗っておくべきだろう、と思った翔は何も言うことなしに、紐を持ち上げて浮かせ、そこにさっと手を滑り込ませる。


 桜花の普段は聞かないような幼い子供のような声が聞こえたが、今の翔はとても真剣なので、その反応に返す余力はない。


「脚も塗っとく」

「い、いいです」

「ん?分かった」

「そういうことでは……」


 翔は桜花の返事を真逆に勘違いしてしまったらしいが、今更手遅れである。


 やれやれ、日本語とはとても難しいな。


 真剣状態の翔も桜花のおしりには流石に遠慮するものがあったらしく、限りなく近いが脚の付け根程からぐっと塗る。


「マッサージされているような気分がします」

「マッサージってこんなに触れるものなの?」

「分かりませんけど、気持ちがいいのは確かです」

「ふぅん」


 翔は桜花にこれからマッサージ店には行って欲しくない、と思ったが格好悪いと思い直して口に出すのは躊躇った。


「だいたい終わったかな」

「あ、ありがとうございます……。気持ちよかったです」

「それは……。いや、いいえ。どういたしまして」


 日焼け止めを塗ることからマッサージに切り替わってしまったようになってしまったが、マッサージをするのが翔であれば、翔に文句はない。


「じゃあ、僕は海に行ってくるよ」

「待ってください。準備運動をしないとダメです」

「えぇ……」

「翔くんがもし溺れた場合、私は助けられませんから」


 桜花の言い分に成程と思わされ、深く頷いてしまっていた。

 確かに、桜花がもしも足をつらせて溺れてしまった場合は翔が自分の命を犠牲にしてでも助け出すつもりなのだが、それは桜花よりも、明らかに自分の力が強いからである。よって、この今の無人島で翔以外に翔程度の力を持つ者は存在しない。


 つまりは誰も助けてくれないため、もしも海の中で足を吊らせでもすれば、その瞬間に翔の人生はゴールを迎えるということだ。


 そう考えてしまうと、海に向いていた足がピタリ、と止まり、砂浜で準備体操を始めたくもなる。


 海に入るのを諦めるという選択肢は翔の中にはない。この素晴らしい自然を見て、入らないという選択をする人がいればそれ人はきっと、家以外は嫌いだという人だろう。


 雲一つない晴天で海も澄み切って美しい。肉眼で辺りに珊瑚礁が確認でき、波の音が翔の感情を掻き立ててくる。


 無人島の無法地帯のビーチだと言うよりも、どこかの高級ホテルの浜辺と表現した方がいいだろう。


 これは絶景の穴場なのだろう。船長が無口だったのは、ここを教えたくなかったからなのかもしれない。


「柔軟体操を重点的にした方が良いですよ」

「そうなのか」


 翔が浜辺に座り、足を開ける。

 日頃から運動も風呂上がりの柔軟もしていない翔はすっかり固まっていて思った程開けられていない。


 強引に開こうとすれば、内側の足の付け根辺りが思い切り張ってしまっていて、痛みが走る。


「日頃からが大切なのですよ」

「桜花……すごっ」


 翔に対抗するように桜花も足を開くが翔よりも開いているにも関わらず、平然な顔をしている。


 柔らかい、というのはこういうことなのだろう。

 先程までの桜花の様子に思考が引っ張られて別のことが頭に浮かんだが、それは置いておく。

 それは置いておく。大事なことは二回言うものだ。


「これが普通です」

「桜花の普通はちょっと違うからなぁ」

「兎も角、翔くんはもう少し柔らかくなった方がいいです」


 そうだな、と深く心に刻み付けていると、後ろからぐっと突然、押された。


 背中と肩の中間部分辺りに特に柔らかい感触が二箇所。肩口から桜花が顔を覗き込ませて、翔の耳元で囁いた。


「押してあげますから、力を抜いてください」


 言われる前から抜けているような気がした。


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