第158話「日焼け止めクリーム」


 塗ってあげます、と言われたものの、翔は産まれて始めて人に日焼け止めを塗ってもらうので勝手が分からない。


 小さい頃の母親に塗られたことは記憶にないので例外だ。


 そのため翔は桜花に手を取られたまま動くことなく桜花の次の言葉を待っていた。


「隣に座ってください」

「は、はいっ……!」

「ふふっ、翔くん緊張し過ぎです」


 翔がガチガチの声色で返事をすると桜花の緊張は幾分か和らいだようで、微笑みながら隣に座らせる。手に沢山のクリームを落とし、何も言うことなく桜花は翔の背中に触れた。


 クリームの冷たさと桜花の手の感覚に意図しない声が出そうになったが、どうにか口元を抑えて止める。

 桜花は浸透させるように何度も何度も塗り込んでくるので、翔は鼓動を手から感じられているのではないか、と不安で仕方がなかった。


「しっかりケアしなければ明日以降に支障をきたしますからね」

「ありがとう……」


 そんなありがたい思いだったが、翔の心境としては、


(早く終わってくれ……!死ぬ)


 幸せな悩みだった。

 それこそカルマが見ていたら悔しくて歯噛みしているだろう。


 そんなことを考えていると、桜花の手は、翔が届かない背中の部分から腕へと移動していた。


「桜花?そこはもう……自分で出来るよ」

「翔くんは雑そうなのでダメです」

「否定はしないけど……」


 翔は日焼け止めを塗ったところで海に入ってしまえば全て無駄になるだろう、と思っている人間なので、桜花にしてもらう方がケアとしてはいい。しかし、それは幸せな地獄がもう暫く続くということでもあり、翔はなすがままにされながらも気持ち的にはもう終わりにして欲しかった。


「翔くん、前を向いてください」

「前?前はもういいよ」

「いいですから」


 桜花に押されて翔は仕方なく桜花と向かい合った。流石にお腹や胸は自分で見れるところなので桜花が監視している時に雑にすることは無い。

 それを桜花も分かっていたのか、お腹辺りに触れることはなかった。


「目を瞑ってください」

「ん」


 大人しく目を瞑ると顔に桜花の手が触れられる。顔に塗ってくれているのだろう。顔は確かに海に行っても水に触れない時の方が多く、日に当たるので、ありがたかった。


 甲斐甲斐しく世話をされており、心地よいような反発したいような複雑な心境に襲われる。


「脚とかはご自分で」

「うん、そこまでしてもらおうとは思ってないから」


 そこまで面倒を見てもらう訳にはいかない。翔は半ば食い気味にそう返した。


 暫く桜花は翔の顔にクリームを塗っていると、ぽつりと呟いた。


「翔くんが眠っているみたいですね」

「ずっと目を瞑っているからな」

「悪戯したくなってきました」

「やめて?!ちゃんと普通にしてください……」

「冗談です。……可愛らしいですね」

「ぼそっと言ってもちゃんと聞こえてるよ?」

「聞こえてもいいです」


 はっきり言い切られてしまうと言葉に詰まってしまうのは翔の方だった。

 いつもなら翔が主導権を握っているはずなのに、今日はどうしてか握ろうとしてもふらふらとすり抜けてしまってずっと桜花の方にいる気がする。


 しかも、目を瞑っていると視覚以外の五感が研ぎ澄まされ、次いでに妄想も捗ってしまう。

 海の音、風の音で自然を感じ、頬に触れる桜花の手と動くことで服が擦れる音で動作を想像し、息遣いで刺激される。


「桜花……いつまで?」

「もう少しだけ……」

「そこはもう最初からしてないか?」

「ここは特に入念にしなければならないのです」


 翔は少し違和感を抱いた。

 桜花は入念にするタイプとはいえここまで長々と時間をかけるようなことはしない。

 きっと何かあるのだろう。


 そして、翔は気づいた。


「桜花、僕のが終わった時のことを考えていないか?」

「そ、そんなことは……」


 図星らしい。

 桜花はこれが終わったら自分が今度、翔に塗ってもらうと思っているらしい。桜花が望むのであればその未来は実現するが、拒めばそれはただの想像の世界へと消えていく。


「嫌ならしないぞ?」

「い、嫌ではないです。……ただ恥ずかしいだけで」

「なら、するぞ?」


 翔は目を開き、桜花から日焼け止めクリームを半ば強引に受け取り、目一杯クリームを手につける。


「ま、待ってください。まだ心の準備が……!」

「背中だけだから準備も何も無いだろ」


 心の準備、と言う割にはしっかりとうつ伏せで待機している桜花に翔はそっと苦笑した。


 翔は背中と腕と顔をされたのでそっくりそのまま返してやろうとも思ったが、逆に翔の方が身が持たなそうな気がしたので、とりあえず背中だけに留めておこうと思う。


 何気に桜花が寝そべっている姿を翔が座って眺めるというのは初めてのシチュエーションなので、心にぐっと来るものがある。


 ……やはり、水着は健全などではなかった。


 翔はしみじみとそう思いながら、桜花に告げる。


「行くぞ」

「……ん!」


 桜花が意気込み、翔が触れた瞬間に変な声を漏らした。


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