第137話「心構え」
「大丈夫か?」
「えぇ。大丈夫ですよ」
そう強い言葉が返ってくるものの、明らかに強がりだということは分かる。
いつもの柔らかい温和は雰囲気が、ぴりっと緊張感で溢れた雰囲気へと変貌していた。無理もない、とは思うが少々意気込み過ぎのような気もした翔は声をかけたのだ。
夏休みの宿題がこんなに早く終わったのは、何かをしていないと緊張してしまって仕方がなく、何か手を動かしたかったからなのかもしれない。
翔が心配そうに桜花の頭を撫でると、桜花は力なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。翔くんに心配をかけてしまってますね」
「彼氏なんだから心配ぐらいさせてくれ」
そう言ってやるが、桜花の心には一歩届いていないように思えた。
どうして桜花がここまで緊張してしまっているのか。それは翔の両親が桜花の両親を引き連れて一緒に帰ってくるからだ。
桜花は両親と何か確執を抱えているので、それが原因だろうということは容易に想像できるのだが、こうまであからさまに不安な様子の桜花を見ると、何かしてやりたいと思う。
過去の翔は恐れてしまって何があったのかを聞けなかった。今もきっと心の内では簡単に聞けそうな気もするが、いざ、口に出してみると全く言葉として成り立たないような気がする。
「僕が何か出来ることはない?」
「いえ、大丈夫ですよ」
意固地な桜花は自分を強く保とうとする。
帰宅する、という連絡があったのはもう一時間ほども前のことであり、それから桜花はずっとそわそわして不安を感じ、緊張してしまって身が持ちそうになさそうだった。
翔は桜花の隣に肌を寄せ合うようにして座った。
「僕も緊張してるよ」
「翔くん」
「分かってる。僕が緊張している理由と桜花が緊張している理由が全く違うことは。でも、一人じゃないってことに気付けば少し楽になるだろ?」
「修斗さんと梓さんだけ帰ってきてくれればいいのに……」
「そう言うなよ。僕が挨拶できなくなるだろ」
「挨拶……は少し気が早いですよ」
「そうか?」
翔と桜花はお互いに顔を見合わせて苦笑した。
しかし、翔としては桜花と付き合っているということをしっかりと報告しておきたい。どうせ梓があることないこと吹き込んでいそうだが、それでも自分の口から言うのとではまた違うだろう。
「……怖いか?」
「置いていかれた日の最後の両親の憐れみのような瞳でまた見られるかもしれないと思うと……怖いです」
翔はその光景が容易に想像できた。
まだ小さな桜花がいつものように両親を玄関で見送る。だが、その時に返された瞳が慈愛のものではなかった。
桜花はその瞳がトラウマになってしまっているのだろう。
だが、もしも。
桜花の勘違いだったら?実は後ろ髪を引かれて振り向いた両親の複雑な感情を含んだ瞳がそう見えてしまったのではないか。
親から嫌われるなんて、ありえないことだろう。平凡平均の翔ですら、修斗と梓に愛されてここまで育ったのだ。容姿に恵まれ、頭脳に恵まれ、性格も微笑ましい桜花が愛されない道理などないだろう。
「まだ来るまで結構あるぞ」
「お掃除やお洗濯をしないといけませんね。あとは豪華な食事も」
「食事以外は僕がやるよ。……そういうことが言いたいんじゃなくて」
「はい?」
「ちょっと落ち着け。肩の力を抜いて〜、深呼吸をするんだ〜」
桜花はがしっと肩を掴まれて、翔に言われるままに一つ、大きな深呼吸をした。
そして完全に空気を抜いた瞬間を見計らった翔が肩を掴んでいた手を脇腹に落として、こしょばした。
「まだまだ抜け切ってないぞ」
「急に……?!」
必死に笑いをこらえている桜花に、翔は攻め手を緩めない。
翔の手を離そうと桜花がもがくのだが、男女の力の差でどうしても除けられない。
桜花が初めて噴き出して大笑いをするところが見れるか、と思ったその瞬間に、翔はふと桜花の顔に目がいった。その涙目で真っ赤な顔を凝視してしまう。
(えっろ……)
扇情的な程に翔の理性を揺らしてくる。それによって、くすぐるのもいつの間にかやめてしまっていて、桜花はその隙にぱっと翔の手を除けてぷくぅと頬を膨らませた。
「何ですかっ!もうっ!」
「ご、ごめん」
口ではそういうものの、頭の中は先程の桜花の顔が全く離れていきそうになかった。
心臓は完全に射抜かれてしまっていたし、理性は破壊寸前まで来ているし、何なら生理現象も起こっている。
「でも……ありがとうございます」
「……食事、頼むな」
「お任せ下さい」
桜花は翔がすっかり見失っていた当初の目的に勘づいたらしく、お礼を言った。
翔は平静を装ったものの、本当はクッションに顔を填めて叫びたかった。
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