第106話「どうしよう」
翔の誕生日から数日経ったが、翔はまだ羞恥心に耐えかねていた。
それもそのはず、嬉しくて泣いてしまった挙句に、感情を抑え切れないままに、桜花と口付けを交わしたのだから。
友人は勿論、誰にも相談できない事なので、一人で悶々と耐え切るしかないのだが、日に日に羞恥心は増していき、今では桜花の顔を見ると思い出してしまう始末だった。
そのせいか、最近、家に帰るとすぐに部屋に篭もることが増えた。帰りの電車は一緒に乗り込み、他愛のない話や、勉強に関する話、クイズはしている。しかし、家という最も落ち着いた場所で言葉を交わすことは皆無になっていた。
翔の誕生日からまだ日が経っておらず、もしかすると桜花が何か勘違いしているかもしれない。
もしかすると、桜花も翔と同じようになっているかもしれないが、薄壁一枚に阻まれ、見ることは出来ない。
どうすることもできないやるせなさと、自分の心の弱さにため息を吐く。
(嫌われてなければいいけど)
あの時はいい感じだったと思うのに、今ではもしや、と不安に駆られる。
そんな不安がちょうど高まっている時に、こんこん、と翔の部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼しますね」
訪ねてくる人は桜花以外にはありえない。
翔は短く返すと、椅子から立ち上がり、簡易テーブルを置いた。
それは桜花が飲み物と何かお菓子のようなものを持ってきてくれたからだ。
「お勉強の調子はどうですか?誕生日からスイッチが入ったようですけど」
「あはは……。まぁ、ぼちぼちかな」
桜花には勉強に打ち込む、と最もらしい理由をつけて逃げていた。
桜花が持ってきてくれたのはホットミルクとクッキーだった。
「休憩を挟みながらの方が効率がいいですからね」
「ちょっと休憩しようかな」
一応として、机の上に勉強道具を開けていたので、わざとらしく伸びをしたあと、桜花の持ってきてくれたホットミルクをいただく。
今日はいつにも増して夜が冷えるので、心の奥から温まるホットミルクは翔の心を安心させた。
「怒ってるか?」
翔は主語を用いることなく、訊ねた。
その意は受け取る側によって左右される。
付き合っているにも関わらず、放ったらかしにしていること。
勝手に一人で舞い上がってキスをしたこと。
考えられる事は他にもいろいろあったが、桜花はそれらを一切考えた様子もなく「いいえ」と答えた。
「学生が学業が本分ですからね。本末転倒になってしまっては困ります」
「母親みたいな……」
「一緒に暮らしている以上は仕方がありません」
「一緒に暮らしていなかったら?」
「迷惑でなければ毎日電話してしまいそうですね」
ダメですか、と訊ねるように笑う桜花にまたあの時のように感情が爆発しそうになるが、何とか抑える。
「毎日電話って何話すんだよ」
「……その時に考えます」
どうやら内容までは考えていなかったらしい。
翔は話して数分でもう、羞恥心による気まずさは空の彼方へと飛んでいっていた。元々、ほとんど翔の中で消化できていたのかもしれなかった。
すっきりした頭で考えた時、ふと、桜花が差し入れをしてくれるなんて珍しいな、と思う。
「……もしかして、不安だったのか?」
「……どうしてこういう時だけ翔くんは察しがいいのですか」
「いや、勉強の差し入れなんて珍しいな、と」
「いつもは翔くんが勉強している時に私もしていますし……。翔くんの最近の熱の入れようが気になりましたから」
「その言い訳は……。鈍いと言われる僕でも流石に嘘だと分かるぞ」
真実を言い当てられて恥ずかしそうにもぞもぞと身体を揺らす桜花に堪らず苦笑が漏れる。
翔があまりにも唐突に、そして露骨に桜花を避けているように見えたらしい。それは事実であって本当だと言いにくいものだったので、翔は何と言おうか、と考える。
そして、嘘の言葉を並べたところで無駄だと思い直した。
「誕生日の時に、その……しただろ?」
「……はい」
「勝手にしたから、怒ってるんじゃないか、とか……兎も角、恥ずかしいやら、不安やらで」
「怒ってはいません」
翔がしどろもどろになりながらも言葉を紡ぐと、桜花ははっきりとした口調でそう言った。
ただ、限定の「は」が使われていることに多少の不安が募る。
「私の方こそ、あれから翔くんが挙動不審だったので何かしてしまったのではないかと気が気ではなかったのですから」
「そうなのか」
「そうですっ」
桜花が翔の二の腕に頭突きをしてきた。翔は甘んじてそれを受け入れ、謝罪と宥めの両方で、桜花の頭を撫でた。
「ごめんな」
「もうしないでくださいね」
捨てられた子猫のような声色で言う桜花に翔は軽く微笑を浮かべると今度は髪の毛を梳かしてやる。
気持ちよさそうに目を細める桜花に思わず猫の様子が見えた気もしないでもなかった。
そうして二人は何日分かのすれ違いを埋め合わせをするように、甘い時間を過ごした。
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