第105話「嬉し泣き」
「翔くん、どうしました?」
翔は桜花を抱き締めたまま動かなかった。桜花からの問いも答えることなく、いや、言葉で返さず、更に強く抱き締めて返した。
翔は息を殺していた。今、鼻を啜ったり、声を発してしまうと、泣いている、と桜花に知られてしまう。
完全に嬉し泣きなのだが、見る人からすれば、何かしでかしてしまったのではないか、と思ってしまうだろうし、翔はその時に上手く言葉を紡ぐことが出来そうになかった。
だから、強引に視界から外すことでやり過ごそうとしたのだ。
今までの一人で寂しかったことや辛かったことが、今日の数時間だけで、簡単に塗り替えられて、嬉しく、楽しい思い出へと切り替わっていく。
驚きからの嬉しさでまさか涙が出るとは思いもしなかったが、気付いた時には止められなくなっていた。
桜花は急に抱き締められて戸惑ったはずなのだが、翔を優しく抱き締め返して落ち着かせるように背中をとんとん、と叩いた。
噛み殺している中で、もしかして気づかれているのでは?と思ったが、上擦った声になっているはずなので聞けなかった。
「大丈夫ですか」
落ち着かせるように囁いてくる。
翔はその言葉だけで溢れていた感情がすっと落ち着いていくのを感じた。
言葉だけではなかなか人の気持ちというのは収まらない。
それを説明するものとしては日々の小さないざこざがわかりやすいだろうか。
もしくは、戦争という大きなテーマにしてもいい。
兎も角は、会話ではどうにもならず、平行線でどうしようもないから、言葉では埒が明かないから、武力へと発展するのだ。
翔の場合、カルマや梓や修斗が今の桜花と一言一句違うことなく言ったとしても翔の心には響かなかっただろう。
不思議なものだ。
好きな人に声をかけられるだけでこうも感情が激しく変わってしまうのか。
「ごめんな、急に」
「驚きましたけど、翔くんなら嫌ではないので」
「そうか」
翔はそっと桜花を離した。
そして、目を合わせて時に桜花の目が少しだけではあるが丸くなったのを見て、やはり、目元が腫れてしまったか、と察した。
視界がゴーグルをつけずに水の中に入ったようなぼやけになってしまっていたので、泣いているのは分かっていた。
「目を開けていたら虫が入ってきただけだ」
「嘘はダメです。前に約束しました」
下手すぎる嘘は間髪入れることなく看破されてしまった。
嘘はダメだ、というのはもちろんだが、約束していたことはすっかり抜けてしまっていた。
とても悔やまれる。
「僕の誕生日って、いつもはこんなんじゃなかったんだよ。もっと質素というか何も無い、普通の日だったのに……。初めてのことで嬉しくて……」
自分で言いながら、乙女っぽいな、と思ってしまったが、事実なので仕方が無い。
翔が尻すぼみながら言うと、桜花はぽかん、と呆けた顔をした後、くすくすと笑い始めた。
「まるで乙女みたいですね」
「……ふん」
自分で思ってしまったがために、何も言い返すことが出来なかった。翔がわざとらしくそっぽを向くと、両手で翔の顔を挟んだかと思うと、ぐい、と引っ張られる。
「な、何だよ」
「翔くんの誕生日は翔くんだけの特別なものですよ」
桜花はきっぱりと言い切った。
誕生日が特別な日だとは思えなくなっていた翔にとって、桜花の言葉は思わずはっとさせられた。
「世間では子供の誕生日は母親が祝われるところもあるようです」
「え?急に何だ?」
「ですが、私は赤ちゃんが生まれたいと思ったからその日に生まれてきたのだと思っています」
「……その心は?」
ですから、と繋いでいたにも関わらず、翔にはどう繋がっているのかわからなかった。
母親が祝われるところがある、というのは翔もニュースやバラエティを見て知っていたが、それがどう関係がある、というのだろうか。
「誕生日は赤ちゃん、つまりその人が初めて自我を持って行動した日なのです。そしてそれを祝福するために誕生日はあるのです」
「分かったような分からないような……」
とても複雑な論理思考だったと思うが、桜花の考えていることは何となく伝わってきた。
そして、翔を励まそうとしているのも伝わってきた。
「祝われるべくして祝われるのです。翔くんは今までの分も含めて、私がいっぱいお祝いしてあげます」
もう泣かせに来るのは辞めてくれ。翔はこれ以上、水が落ちていかないようにぎゅっと目頭を抑えて決壊するのを防いた。
そして更にいえば、そろそろ限界だった。
最早、愛しいとさえ思っている桜花に触れたい。感じていたい。名前を呼びたい。呼ばれたい。好きだと言いたい。言われたい。
普段の欲求とはまた違ったベクトルの心の奥底から溢れ出る感情が翔を取り巻いていた。
本来ならば、我慢してしまうようなことでも、今は我慢できそうになかった。
ついに、翔は世界の神秘に触れるかのような声色で桜花の名前を呼んだ。
「桜花」
翔は桜花の両肩に手をのせた。
そして、引き付ける。
桜花も先程とは違った雰囲気を感じとったのか、伝わってくる感情が些か、緊張の色が強かった。
「大丈夫」
翔は桜花を落ち着かせながら、肩においていた手の片方を桜花の腰へと回す。
「翔くん」
しっかりと結ばれていた唇が、力を抜いたようで少し開き、潤んだ瞳で下から見上げていた桜花が意を決したように瞼を閉じた。
翔も覚悟を決めて、ゆっくりと近づいていく。
「好きだ」
翔は初めて、この世で一番好きな彼女にキスをした。
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