第87話「釣り合う男になるために」


 翔は「よし」と覚悟を決め、洗面所の引き戸を引いた。その中にはワックスが入っている。


 何をするか、は言うまでもないだろう。そのワックスを自分の髪につけて、どのようになるのかを試すのだ。


 見た目にあまり興味がなくて、手入れも最低限しかしない翔には初めての試みである。だがその翔を突き動かすまでの事がこれまでにあったのだ。


 直近のことで言えば桜花が抱き締めてくれた事だろう。カルマは要望が成功したら相手にも気があるだろう、と太鼓判を押してくれた。全てを信用した訳では無いが、少なからず翔への思いはあるのだろうと感じた。


 そうなれば翔もそれなりに身を改めなければならないだろう。不釣り合いと言うだけはもうやめだ。


 そんな思いでワックスを手に取ったのだった。


「一応、叩き込まれててよかったな」


 翔が身なりをあまりにも気にしないせいか、梓も修斗も色々と気遣い、一通りのやり方は教え込まれている。


 翔も乗る気ではなかったものの、出かける度に梓にやられていたので、いつしか覚えてしまっていた。やられるのが嫌だったから覚えたのかもしれなかったが。


 鏡を見ながらワックスをつけて調整していく。目が見えないほどに伸びていた前髪は浮かせて髪のボリュームを主張しつつ、顔を見せて明るい印象を持たせる。


 あまり使い過ぎるとびっちりしてしまうので、そこそこに留めておく。


「ここはこうだっけ?」


 梓がしてくれた中で特に気に入っていた形を思い返しながら髪を弄って行く。


「よし、できた」


 思ったよりも覚えていたようで、上手くいった。桜花に見せればどのような反応をするのだろうか、と少しワクワクした。


 翔が洗面所の扉を開けようと手を伸ばすと、一人で開いた。


「翔くん、ご飯で……」


 桜花は最後まで言うことなく、すっと扉を閉めた。翔は失敗した、とショックを受けた。

 とりあえずリビングへと戻って悲しくテレビでも見よう、と扉に手をかけるが、扉は枝が挟まってしまったかのように動かない。


 翔が更に力を込めると、向こう側から切羽詰まったような、慌てたような声が聞こえてきた。


「だめですっ」

「開けて」

「もう少し……準備がありますので」

「ご飯できたんじゃなかったのか。なら僕も手伝うよ」

「わ、私一人でも大丈夫ですから!」

「そうか。とりあえず開けてくれるか?」

「……無理です」


 桜花がどうして開けてくれないのかが分からなかった。とても頑ななので、困ってしまう。


 思い切り引いてしまってもいいが、桜花がどういう風に止めているのかが分からないのでもしかしたら衝撃で傷付けてしまうかもしれない。


 その可能性がある限り、翔は思い切りすることは躊躇われた。


「髪、見たのか?」

「……はい」

「変だったか」


 なので、残るは言葉を投げかけるだけしかない。翔は思い当たる節を桜花に問う。

 ここまで行動的になるのだとすれば、翔のワックスをつけた髪が余程、変だったのか、似合っていたか、のどちらかだろう。


「変では無いですよ!」

「でも開けてくれないじゃないか」

「う……」

「洗い落とすから、終わったら開けてくれ」

「あっ……」


 翔が扉に込める力を抜き、洗面所の鏡と向かい合う。翔の変わろうとした思いは結局は無駄になってしまった。


 翔は大きいため息を吐き、髪を溶かそうとした時。大きな音を立てて扉が開き、桜花が後ろから翔の身体に抱きついた。


「似合っているのに勿体ないです」

「桜花?」

「ごめんなさい。よく似合っていてかっこいいですよ」


 桜花は顔を填めながらそういった。

 ここで翔は、この髪が変で見ていられない、という訳では無いのかもしれないと思い直した。


「何で開けてくれなかったんだ?」


 背後に引っ付いている桜花に訊ねる。


「それは……翔くんがかっこよくって見ていられなかったからです……」

「そ、そうか」

「そうですよ。いつもと全く雰囲気が違うじゃないですか」

「一応、いつもがどんな感じに見られているのか聞いても?」

「暗くて面倒くさがりな人です」

「それが前髪をあげると?」

「大人な雰囲気が増して、落ち着いた青年のような感じを受けますね」

「そこまで見てくれてたのか」

「……私の言葉は忘れてください」


 ぐりぐりと頭を押し付けて、褒めてくれる桜花に翔は照れて言い淀んだ。


 桜花はあの一瞬で翔の髪を見たのだろう。


「お風呂入る時は落とすけど」

「……」


 む、と言っているような気がした。何となく雰囲気が駄々っ子のそれのように嫌だ、と感じる。


「写真撮らせてください」

「桜花も入るか」


 譲歩して、とでも言うように、桜花は許可をとってきた。別段これといって断る理由もないので、了承する。


「はい」

「僕のでも撮っていい?」

「どうぞ」


 二人で目を合わせて笑った。




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