第86話「抱擁してもいいですか」


「無理だな」


 勇気があれば、と考えていた時期もありました。


 翔がそのような大胆な発言ができていれば今頃、これ如きでくよくよしない。カルマは簡単に言うので、蛍にはしている事なのだろう。だが、蛍はカルマの彼女である。


 対して翔は……。


 元は幼馴染ではある。だが、その記憶は翔にはほとんどない。一緒に住んでいるという所はアドバンテージなのかもしれないが、そこから発展しているということは無いので、カルマと蛍には遠く及ばない。


 あの二人は最近付き合った割には進み過ぎだと思う。


 自分達とカルマ達を比較して考えるだけで頭が痛くなり、指で押さえていると、桜花が飲み物を持ってきてくれた。


「大丈夫ですか?」

「ん?まぁ」


 勉強道具を広げていたため、分からない箇所があり、つまずきかけているのか、と勘違いしているようだ。


 ここでふと、脳内でシュミレーションしてみる。


 真顔で「抱き締めてもいいか?」と問いかけ、桜花は「はい……?」となるだろう。脈絡がないのは翔のいつもの事ではあるのだが、これはあまりにも無さすぎだ。


 いつもの脈絡がないのは無意識である。しかし、その翔が「ない」と断定できるのだから、それだけ酷いということだ。


「数学でペンが止まるのは珍しいですね」

「あ、頭の中で暗算をな」

「暗算ですか」

「そこまで難しいのは出来ないけど」


 咄嗟に口から出任せをいい、疑問を持たれないようにする。

 桜花はどこの問題なのか気になったらしく、前のめりになって問題を覗き込んできた。親密になる距離にどきり、とさせられるが、桜花は問題にしか意識をしていない、と思い込ませ、耐えた。


「書き出さないと私は分かりません……」

「書き出した方が確実だしいいと思うけど」

「暗算の方が速いですけどね」

「暗算っていうけど、結局は頭の使い方ってだけで記憶なんだよ」

「九九とかですか?」

「そ。それがもっと桁数増えるだけ」


 桜花も翔に比べて全然全く歯が立たないほど、数学ができない、ということはなく、学年のトップには位置する程の実力はある。


 学年トップなので当たり前といえば当たり前なのだが、翔の解いている途中式を見て、感嘆している時もたまにある程度には翔の方がまだ数学では軍配が上がるようだ。


「でも、翔くんが不確定な解き方をするなんて珍しいですね」

「気分的に……?」


 暗算は速く解ける分、間違えるリスクも高くなる。

 苦しい言い訳に流石の桜花も翔が何かを隠していることを察した。


「何かあったのですか?」

「いや、何も無かったよ」

「何か言われたのですか?」

「……」

「蒼羽くんですね」


 沈黙から誰から言われたかさえも当てていく桜花に翔はエスパーなのか?と感じられずにはいられなかった。


「言えるかよ……。抱き締めてもいいか、なんて……」

「言ってますよ」

「今の言葉をなしには……」

「できませんね」


 妙に頬を綻ばせ、微笑む桜花に翔は羞恥で顔を背けた。

 シュミレーションが全く機能してないことに翔は大きく慌てていた。


「翔くんはしたいのですか?」


 桜花は答えにくい質問を投げかけてきた。

 正直に答えれば、自分の心には素直になれるが、返ってくる反応が怖い。


 ここで、否定の意志を返せば、それはそれで罪悪感が残る。


「も、黙秘権を行使します」

「むっ」


 最良の策は黙秘権だろう。翔は宣言し、質問には答えなかった。


「なら、抱き締められたいのですか?」


 何を持って「なら」なのかは分からなかったが、随分と心を揺さぶられる提案だった。何しろ、桜花と抱擁を交わしたのは初めてでは無いが、桜花から抱き締められる、というのはまだ一度もない。


 黙秘権の重複するのも忘れる程に、桜花の提案は魅力的だった。


「さ、さぁな」


 声が上擦る。桜花がくすっと笑ったあと、そういえば、と続けた。


「世界の会議などでは沈黙は肯定、という掟があるようですよ」

「逃げ道がないんだけど?」

「正直者になることが一番の逃げ道です」


 桜花に言いくるめられて、次の言葉が出てこない。翔は大きなため息をひとつ着いたあと、不安になって尋ねた。


「桜花は嫌じゃないのか?」

「翔くんは信頼してますから大丈夫です」

「そ、そうか」

「はい」


 幾度となく聞いてきた「信頼している」という言葉に未だ慣れない翔は照れたように頬を掻いた。


「恥ずかしいので後ろ向いてください」

「はっ、はい」


 桜花に背を向けると、しばらくした後で背中に衝撃が加わった。心臓が高鳴り、本当にしてくれた、という驚きと安堵が混じったような気持ちになる。


「ど、どうですか」


 後ろから耳元に囁いてくる桜花に、翔はどうにかなってしまいそうな衝動に駆られるが、ぐっと堪える。

 触れる感覚も去ることながら、一番は翔の胸の前でしっかり繋がっている桜花の両手だろう。


 満たされていくのを感じながら翔はぼそりと呟いた。


「ありがとうございます。大満足です……」

「そ、それは良かったです……」


 かぁあっと頬を染めたのであろうことが顔の近くから発せられる熱が大きくなったことで察した翔は堪らず、苦笑した。


 それに気づいた桜花はすぐに抱擁を解き、翔にいつもの倍以上の勉強時間をするように、と強要したのだった。


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