六畳一間からはじめる異世界生活

芦屋めがね

第1話

 ──どうして、こうなった。


 俺こと、秋田一郎はへ来てから何度も何度もそう思っている。というか、気がつけば言葉にしているので口癖ですらある。


 手には剣、体には革鎧。剣に鎧とくればコスプレだと誤解されてもおかしくはないが、あいにく仮装するにしては貧相な代物だし、そもそも誤解する他人などおらず、そんな状況でもない。


「どうして、こうなった」


 思わず吐いた口癖は目の前にいる──ゴブリンの耳に届き、言葉は通じていないにもかかわらず、嘲笑うように口の端を上げた。



  ※



 遡ること二ヶ月くらい前、俺はバイト先から帰宅中、気がつけば地球から別の世界に飛ばされていた。


 夜間勤務終わりかつ洪水警報規模の雨の中を強行したのがまずかったらしい。通い慣れたはずの道中が別物に見えた時点で諦めときゃあよかったと後悔していたら本当に街の道路からどこぞの山道に様変わりしていた。聞くものが聞けばバカにされそうな話だが、実体験真っ最中の俺にとっては、そのバカにした奴に代わってほしいほど切実かつリアルな話だ。


 着の身着のままで放り出された俺は途方にくれたが、それでもまた人里に行けばどうにかなると思っていた。一応、人の手が入っているらしい道を小一時間ほど歩いてようやく辿り着いてみると、明らかに日本とは違う街並み、服装、そして人種。その手のテーマパークかと往生際悪く解釈してみたが、異世界にやってきた事実を認めるのにさほど時間はかからなかった。


「──アナタ、ベツノセカイカラキタ」


 そして、まるで外国人タレントみたいなカタコトでトドメを刺してくれたのが、ギルド──後で詳しく聞くと日本でいう市役所みたいな公共の施設らしい──の窓口担当であるセリカさんだ。


 なんでも他の世界から人がやってくるのはそう珍しくことではないらしく、ギルドの窓口をしていれば年に一、二回はあるらしい。必然、彼ら彼女ら異世界人の対応も職務の範囲内ということで俺への扱いも手慣れたものだった。当面の間はギルドから衣食住の保障を受けられ、カタコトながら知りたいことも丁寧に答えてくれる。聞けば聞くほど知りたくもない現実が。


 まず第一に言語が通用しない。日本語はおろか、セリカさんのカタコト以下の英語も同様に。文字もミミズをのたくったような感じで雰囲気だけなら元いた世界にもありそうだが、俺の知識では同一のそれか知りようがない。ならばなぜ意思疎通ができるのか? それは彼女が魔法で伝えたい内容を翻訳してくれるからだ。


 そう、この世界には魔法が存在する。正確にはこの世界には様々な神や精霊がいて手助けしてくれるらしい。普段から祈りや感謝を忘れない、真摯な言葉で頼み込む等、要は信仰や呪文によってできることや威力が増していく。ただし使えるのはこの世界で生まれたものだけ。セリカさんの翻訳魔法(便宜上、そう表現する)で対話できるように魔法の効果は得られるが当然ながら俺は使えない。知りたくもない現実その二だ。


 なら、異世界人は役立たずか? となるとそうではないらしい。魔法によって発展したこの世界とは異なる文化や技術体系はとても重宝され、それによって巨万の富を得た異世界人もいるとのこと。魔法は便利だが、神や精霊にそっぽを向かれでもしたら個人だけではなく、この世界のインフラも崩壊するので魔法に頼らない技術はありがたがられるというのは理解できる。あいにく俺はそっち方面で出し抜いたり成り上がれるような知識や技術、才覚の持ち合わせがないので断念するしかないが。


 そうなると一つの可能性、祝福ギフトにかけるしかない。祝福というのは、簡単に言えば異世界人だけが得られる魔法や超能力のようなもので詳しくは不明だが、別の世界から渡る過程でその身に宿るらしい。


 俺にもそんな力があるのかと最初は喜んだが、そこから二ヶ月、いろいろ試したみたがまったく発現する気配がない。他の異世界人がいればコツみたいなものが得られるかもしれないが、あいにく俺の前に保護された異世界人は全員この街から旅立ったらしい。条件を満たすことで自然に発現することもあるらしいが、ヒントもないのにどう達成させればいいのか見当もつかない。とりあえず先人の条件を倣ってみたが、案の定というのか空振りに終わった。


 そうして祝福が発現することなく二ヶ月が経った。ギルドが異世界人を保護するのは慈善事業ではなく、異世界の技術や祝福をあてにしているからなのでそのどちらも持たない俺は、日を追うごとに職員の目が冷たくなっているのをひしひしと感じていた。まるで実家に寄生するニートのような居た堪れなさだ。


 言い訳させてもらえるなら祝福の発現についてはともかく、二ヶ月間なんの進展もなくただ遊んでいたわけではない。この世界の言葉を覚えたり、社会常識に差異がないか確かめたり、独り立ちする準備をしていた。


 ただ、前の二つはともかく、独り立ちするために手に職をつけようにもコミュニケーション能力の怪しい異世界人をわざわざ雇うほど需要の足りない職業など定職に付けないのだ。そうしてギルドが異世界人を保護する期限ギリギリの昨日のこと。


「──申し訳ありませんが、アキタさんには狩人になっていただきます」


 この二ヶ月のうちに翻訳魔法抜きで会話できるようになったセリカさんから通告を受けてしまった。



  ※



 狩人。文字通り魔獣や魔物といった存在を狩ることを生業にする人々のことを指す。食肉や毛皮など生活必需品の確保に街の安全保障としての駆除を目的とするあたりは元の世界の認識とそう大差はない。


 しかし、神や精霊のいる──少なくともその奇跡が身近な──世界において、その脅威度と得られる利益の大きさは比べてものにならない。怪獣映画よろしく街が蹂躙されることなど異世界人と出会すくらいには珍しくなく、そんな規模の魔獣・魔物を討ち取った日には滅んだ街を再興してもなお余るほど潤うらしい。参考にと触らせてもらった加工前の骨や皮は、下手な金属や繊維より頑丈でかつそれらにはない様々な特性を持ち合わせていた。


 なるほど、異世界人の手も借りたいはずである。手っ取り早く糊口をしのぐにしても一攫千金を狙うにしても魅力的な職業だ。採用と離職の割合がトントンでなければ、離職の理由が本人都合ではないこの世からの退場でなければ。


 周囲の白眼視と引き換えに断れるならそうしたいが、暗に口減らしの目的もあるのだろう、セリカさんから伝わる無能者への憐みと諦念の空気がそれを許してくれない。


 せめてものたむけとばかりに支給されたのが数打ちの剣と皮でできた鎧、火打ち石や方位磁石といったいくつかのサバイバル用品、そして初心者でもかろうじてついてつける難易度の仕事の斡旋だった。


「──いくぞ、新入り」


 なかば強引に狩人にさせられた俺の記念すべき初仕事は付近の地理を把握を主目的とした薬草採取と探索だった。無愛想に出立を告げるのは仕事の同行者であるカウラという男。年は四十から五十あたり、銃を持たせたら猟師でも通じそうな風貌だ。まぁ、狩人なんだからあながち間違いではないが。


 俺のような初心者と組まされる狩人はとうに上がりを迎えたベテランの指導役小遣い稼ぎかうだつの上がらない下っ端らしいが、カウラがそのどちらかは判断しにくい。……いや、俺より物資を揃えてはいるが、質そのものはトントンといったところを見るに後者の可能性が高いか。それでも足手まといは俺の方だろうが。


「今日はちょっと暑いですね」


「……」


「カウラさんはこの仕事長いんですか?」


「……」


 山道を歩きながらカウラに話しかけてみるが反応はない。最初の顔合わせで名乗った時と出発の最低限しか会話をする気がないようだ。その態度はバイト初日の休憩時間で相席した年嵩の先輩を思い出す。正直言って、気まずいことこの上ない。


 それでもというべきか、仕事自体は順調に進む。目的地である薬草の群生地は舗装された山道を道なりに行けば迷わずに済み、薬草の見分け方も支給された採取マニュアルを見ながらならそう難しくはなかった。


「間違えて採取してもギルドが受け取り時に鑑定するから安心するといい。──あまり間違え過ぎると次回以降の査定に響くがな」


 と、意外にもカウラからの豆知識めいたフォロー。無愛想なのは変わらずも、先ほどまでの無言を考えると違いは明らかだ。


「(もしかしたら気まずさに耐えかねての中身のない雑談や詮索が嫌いなだけかもしれない)」


 そう思い直して質問を仕事内容だけに絞ると言葉数は少ないものの、受け答えに応じてくれるようになった。


「──魔獣や魔物退治と比べて薬草採取の報酬は安いがその分安全だ。数をこなせば食うに困ることもない」


「──手先に自信があるなら採取した薬草を加工してギルドに持ち込んだ方が高く買い取ってくれる。専門家の回復魔法による仕上げ短縮の手間賃だからそう多くないが、採取の行き帰り分くらいは回収できるぞ」


「──腕に自信がないならギルドを教えを乞うといい。有料だが食事は出るし、安物ばかりだが授業で使う道具も譲ってくれる。内容も獣の解体方法など豊富だ」


 など、作業の折々に様々なことを教わった。無愛想と評したのが申し訳なくなるほど熱心に。最後に関しては予定より早く採取が済んだからと偶然見かけた獣──やや小ぶりなサイズで豚や猪に似ている──をわざわざ仕止め、実演を交えて教授してくれた。


「なぜこんなに親切にしてくれるんですか?」


「……」


 仕事に関する以外、答える気がないのは変わらずだったが。



  ※



「──遅くなったな。日が落ちきる前に街へ戻るぞ」

 

 一通りの処理を済ませたカウラがそう告げる。遅くなったといっても解体に不慣れな俺のせいであって、それを差し引けば当初の予定とさほど差はない。むしろ今俺が背負っている獣肉や皮を追加の戦利品と思えば大成功だろう。思ったより解体に抵抗はなかったし、その意味でも成果は上々だ。


「夜は奴らの行動が活発になる。人里に近いとはいえ、油断するとこちらが狩られかねない。気を引き締めていけ」


 そんな俺を釘刺すようにカウラがたしなめる。その淡々とした物言いはむしろこちらの緊張感を煽られるようで、元より反論する気もないが、カウラの言葉に従い気持ち足早に歩を進めることにした。


 帰りの道中、赤に暮れた空がだんだんと闇に染まってゆく。こちらの太陽は一つで東から西へ移りゆくのも同じだが、月は二つ存在する。初めて見た時は驚いたものだが、魔法が実在するのと比べるとさほどでもないか、とよくわからない納得をしてしまった。


 神や精霊、魔法の存在や月の数だけではない。この二ヶ月、いろいろなファンタジーが実在すると教えられてきた。エルフやドワーフといった別の種族、幽霊やゾンビといった魔物、ドラゴンやユニコーンのような魔獣・聖獣、吸血鬼に代表される魔族等々。実際に目にしたのはエルフやドワーフくらいだが、もはや疑いようもなく異世界にやってきたのだと、何度目か分からない実感と共に口にしたものだ。──どうして、こうなった、と。


 似て非なる世界、というにはあまりに似通った部分が多いし、架空とされた存在の主張が激しいところはやはり元いた世界とは別物のように思える。どちらでも解釈できるが、どちらの世界にも空気があり、水があり、太陽は遠すぎず近すぎない。ならば知的生命体が生まれて似たような発想、発展に至る可能性だって決して低くないはず。他方、こちらの世界でも神隠しに似た概念があるので案外二つの世界は繋がっているのかもしれない、とも思う。もし仮にその想像通りだとすれば──


「──帰れるかもしれない」


 振り返ってみれば、俺は興奮していたのだ。初めての仕事が順調で、ここで暮らす目処も立った、希望的観測だが帰還の可能性すら見えた気がする。


 一言、愚かだった。先ほど注意されたばかりだというのに浮かれて油断していた。この世界に迷い込んだ日に人里を求めて通った道だと気づいたのもその一因。ここは治安のいい日本ではないとわかっていながら見過ごした。


「新入──!」


 カウラさんの鋭い一声。それに少し遅れて腹部から裂かれるような痛み。狙撃されたのだと理解したのは山道から傍に外れて坂を転がり落ちながらだった。



  ※



 ──どうして、こうなった。


 もはや責任転嫁じみてきた自問自答。だが、そんな現実逃避は目の前の存在が許してくれない。


 人型の魔物──ゴブリン。背の丈は170半ばある俺と比べて2、30は低い。横も貧相で中学に上がりたての子供くらいの体格をしている。肌は緑で手には棍棒、申し訳程度に雑な衣類(元いた世界では貫頭衣といったか)を着込み、漫画やアニメ、ゲームに触れていれば連想するのは難しくないビジュアルだ。


 対する俺はといえば脇腹が焼けるように痛い。刺さるというよりかすめるように撃たれたので転んだ際に鏃がめり込まずに済んだが、同じく裂けた革鎧が出血でにじんて広がっていく。それより何より痛い。


 いつの間にか手にした剣が小刻みに揺れる。怪我がどうこう以前にこんな物を振り回したところで満足に扱える気がしない。いや、俺の腕前もそうだが素人目にも安物とわかる手元の武器が持ち主相応になんとも頼りない。


「どうして、こうなった」


 痛みを誤魔化すか、自分でもわからぬまま口癖が吐いて出る。それをゴブリンが嘲笑う。日本語にしろ、どうにか覚えたこちらの現地語にしろ、ゴブリン相手には通じていないはずだが、お互いの性根が透けて見える。向こうはこちらの弱気を、こちらは俺をさらに弱らせてから安全に殺す気だと。


「(どうする? 体格で勝ってるんだし、押し切った方が──ダメだ! 怪我で鈍ってんのにどうにかできるわけがない。かといってこのままじゃあ──逃げる? できるからとっくにやってる! 怪我してんのに逃げ切れるわけが──痛ぇよクソが!)」


 思考がまとまらない。どう行動しようにも否定ばかりで踏み出せない。あぁ、時間が無駄に過ぎていく。このままでは失血で死ぬというのに。もしかして思ったより傷が深いのか? これ帰る前に死ぬんじゃ──


「──帰りてぇな」


 家に。一人暮らし中のワンルームでも、両親のいる実家でもいいから。日本に帰りたい。


「ははっ、ホームシックかよ。ダセェなぁ」


 俺の様子を窺うゴブリンも愉快だとさらに嘲笑う。その声は潰れているわりに甲高く、まるで蛙のそれだ。


 ひとしきり笑い終えたゴブリンが手にした棍棒を振りかぶり気味に構える。達人がいれば隙だらけと言いそうだが、あいにく怪我人の上に素人。それに向こうにしたらあれは攻撃ではなく締め──解体の前作業だろう。一歩、二歩とタイミングと距離をはかりながら近づいてくる。さしずめ俺の頭を代用したスイカ割りといったところか。


 ──あ、本当にダメだわ。これ。


 ぐちゃぐちゃだった脳がクリアになっていく。その数瞬後にはまたぐちゃぐちゃになるだろうな、と冗談を飛ばせるくらいに余裕ができた。


 その余裕が視野を広げ、五感が鋭くなる。だから気がついた。土をかき分けながら滑る第三者の足音、その方向は俺が滑落した山道からだ。


「──伏せろ、新入り!」


「カウラさん!」


 なだれ込むように突如乱入したカウラさん。その必死の形相と声音に条件反射の域で応じる。傷の痛みがぶり返すが構うものか──その躊躇のない行動が仕止めにかかったゴブリンとの距離を空ける。


 もはや憂なしとばかりにカウラさんが手のひらをゴブリンに向けて掲げる。疑問がよぎる間もなく、カウラさんの手から水の塊が吐き出されゴブリンを打ち抜く。


「魔法か!」


 誤解が生まれる余地なく何者かの意思が介在する現象の変異。この世界にやってきてからセリカさんの翻訳魔法に次ぐ二度目の奇跡だ。


 例えるならテレビのニュースだかバラエティで見た暴徒鎮圧用の放水銃。ただし延々と水を垂れ流すのではなく、圧縮した水の塊というところはどちらかと言えば、ゴム弾による制圧が近いか。


 くぐもった唸り声が乱入者たるカウラさんを威嚇する。戦況は逆転したが、所詮水の塊をぶつけられただけでは決定打にはならないらしい。


 だが、カウラさんに動揺はない。自分の手札がいかほどかを理解しているからだ。ゴブリンの体勢が崩れた隙を逃さず追撃する。


 ゴブリンの威嚇を塗り潰すカウラさんの咆哮。それに追従するかのように剣が走る。決して大振りにならず、柄頭(剣の持ち手における先端側)に添えられた右手が右へ左へと舵を切るように剣の切っ先を操作する。全身を鎧で覆うならいざ知らず──いや、例え覆っていたとしても金属のは痛烈な一撃となり得るだろう。


 それに抗えず、次第にゴブリンの動きが鈍る。それを見逃さず、カウラさんの止めに入る。


「──!」


 小手狙いではない振りかぶった一撃。ゴブリンのスイカ割りもどきとは比べるまでもなく洗練された剣道の面打ちだ。


「カウラさん、あなたはもしかして……」


 それには答えず、カウラさんは周囲に散らばった荷物を手早く回収する。


「(──学習しないな、俺)」


 詮索は無粋と戒め、油断から襲われたばかりだというのにまだ懲りていない自分に腹立ちを通り越して呆れてしまう。その反省を感じ取ったのか、まとめ終えた荷物を一手に引き受けたカウラさんが俺に手を差し伸べる。


「戻るぞ、新入り」


「はい! カウラさ──」



 ──ぴしゃり



 撥ねた水が顔に降りかかる。暮れなずむ空より赤く、迫りくる闇より黒い水が。


「カウラさん!」


 一拍置いてと崩れ落ちたカウラさんの体が俺の横をすり抜ける。押し潰さないよう避けてくれたのだ。自分がそれどころではないはずなのに。


「新……入、雑嚢……」


 血泡混じり、吐息混じりにカウラさんが自分の荷物を指定する。俺と同じく狙撃によるかすめるようにできた裂傷。違うのは腹部ではなく首、それも頸動脈を傷つけたのか、血がだくだく止まらない。


 それでも迷いのない指示に気を持ち直し、雑嚢を漁る。何を探したらいいのか? それは実際に触れてしまえば意図を察するのは容易かった。硬質なのにどこか柔らかく透明な容器、そのガラスともペットボトルともつかぬ中身は回復薬。それもこの世界の回復魔法によって仕上げられた完成品だ。


 この世界における薬は大きく分けて二つあり、煎じたり調剤するなどして完成するどちらの世界でも一般的な薬。もう一つは前者の作業過程に魔法を付加する特別性だ。


 魔法によって効能が上がり、回復魔法が使えなくても、いつでもどこでも使える分、当然高価だ。一番安価でもかけ出しや低級の狩人がおいそれと手が出せるものではない。


「いざと──備え──」


「そんな話は後で聞きますよ。早く!」


 この手の薬がどう作用するか俺にはわからない。飲むにしろ塗るにしろ、すぐさま手伝えるように蓋を開けながら耳をカウラさんの口元に寄せる。その声はかすれもはや聞き取りにくくなっている。万に一つも漏らさないようにする当然の用意だ。しかし、カウラさんの顔がほんの少しだけ横に揺れる。それはわずかながらも明確な拒否の表れだった。


「い……い、お前──飲ん──」


「ど、どうしてですか!」


「もう助からん。いや、例え助かったとしても


 突如カウラさんが、その目を見開き、最後の意思を伝えんとばかりに一音一音絞り出す。


「意味が? いったい何の話──」


「──


 それは二ヶ月ぶりの懐かしさを伴う響き。日本に生まれ育ってきた者同士こそが通じるイントネーションと表現──紛れもない日本語だ。


「カウラさ──川原さん!」


「──


 おそらく最初の挨拶で俺が同じ日本人だと気づいたのだろう。いつからこの世界で生きてきたのか、なぜ自分の正体を明らかにしなかったのか、それはわからない。川原さんには川原さんの事情があったのだろう。



 それでも川原さんは、俺の命を守り──そして笑顔で逝った。





  ※



 しばらくして一匹(?)のゴブリンが俺や川原さんが通った坂から降りてきた。おそらく獲物の回収にきたのだろう。どことなく上機嫌そうに足取りが軽く、漏れ出す声は歌っているようでもある。どちらも不愉快なことこの上ない。


 その手には意外にもしっかりとした造りの弓、矢筒も留め具からして頑丈そうにできている。おそらくは下手を打った狩人同業者から奪った戦利品だろう。なるほど、粗末な革鎧では防ぎきれるはずもない。


「──だからなんだって話だよな」


 獲物が突然立ち上がったので動揺するゴブリン。そう、この程度なのだ。思えば俺が狙撃された時、背後かつ高所を取られて襲われた。俺の進行方向には人里──しかも距離的に街の勢力範囲内、撃たれる直後まで気づかなかったことからも前方ではない。ならば消去法で脇腹を裂けるポイントは後方にしかない。川原さんが仕止めた獣を背負っていたのに。


 獣肉で鏃が止められたらどうするつもりだったのか? それを避けて脇を狙える技量があったなら頭を撃ち抜いた方が手っ取り早いというのに。できるわけがないからだ。


 浮かれて油断した初心者すら仕止めきれない無能。川原さんはおまえが殺したんじゃない。俺の無能が殺したんだ。でなければ川原さんが不覚を取ることなんて絶対にありえない。


「不思議そうだな、俺がまだ生きてるなんて」


 言いながら革鎧をずらして撃たれた部分を晒す。そこにあったはずの傷はあとかたもなく消え、ただ素肌が覗くだけだ。


 ようやく騙されたことに気づいたゴブリンが慌てて弓を構え、矢筒から一本取り出す。当然ながらそんな手際では撃つ以前の問題だ。引き抜いた矢を滑らし思わず掴んだ鏃で手を傷つける。


「──遅ぇよ」


 短く呟き、手のひらを前に突き出す。ふいに川原さんの姿が頭をよぎる。特に疑問も起きなかった。五感が開かれたような手ごたえは死に際に立たされた先ほどよりはっきりと掴んでいる。


「捻りはないがいくぞ、“水弾”」


 まるで手足を動かすが如く、体に染みついた技を振るうが如く、祝福を発動させる。それは当然とばかりに手のひらから射出し、ゴブリンの頭部に直撃する。


 弾かれたように(実際に弾かれたわけだが)吹き飛び、手にした弓やら矢筒の中身やらが散乱する。それを集める余裕は昏倒したゴブリンにはない。奇襲でわけのわからない内に倒すより、騙されたことをもっと理解させてからにしたかったのに、これでは目論見が台無しだ。


「さすがにわざわざ起こすのはやり過ぎだな。川原さんに怒られる」


 思わず吐いた台詞に口癖だけではなくひとりごとまで増えてしまった、と自嘲する。手には川原さんが使っていた剣。


「──これは仇討ちじゃない。川原さんは間違いなく俺が死なせた──殺した。だからこれは単に出来がいい方、使いやすい方を選んだだけだ」


 止めは解体を覚悟するより簡単に行えた。



  ※



 あれから数日、いろいろ慌ただしく過ぎだ。


 ゴブリンを仕止めた後、散らばった物資を再びまとめた俺は川原さんの遺体を運びながら山道に復帰、偶然出くわした別の狩人の一団から手助けされて街に戻ることができた。


 その足でギルドに仕事の報告、川原カワラさんの死亡とゴブリンに襲われた経緯等ありのままを話した。その際、祝福が発動し、水の塊が撃てるようになったことも添えて。


 ちなみにギルドへの報告には虚偽を見分ける魔法を用いることもあるそうだが、薬草採取などという木端仕事にゴブリン程度に遅れを取るロートルの殉職など調査する価値もないのだろう。仮に俺が同僚を嵌めたとしても動かないはず。


 祝福に関しても同様だ。表向きは喜ばしいと言いながら、たかだか水を出す程度の祝福なんて取り立てる価値などないという内心が丸わかりだ。


 それでも下手に周囲を騒がせるよりマシだ。薬草に獣肉と毛皮、ゴブリンから手に入れた弓矢を買取ってもらい、当座の活動費にしてはまぁまぁの金銭を得た俺は、ギルドの紹介で世話になっていた借宿から転居することにした。



  ※



「──ここがそうか」


 そこは街の外れに位置する低所得者向けの集合住宅。外観は明らかに安普請というか、中を見るまでもなく二ヶ月間住んでいた借宿とは雲泥の差だ。


 横に縦にと空間を有効に使ってしまおうという発想はどこにでもあるようで周りの建物とは頭一つ二つ高い全五階建て、その最上階の角部屋が目的地。すでに受け取った鍵を使い中に入る。


 室内はイスにテーブル、ベッドにクローゼットの一通りの家具が揃い、ところどころに小物が几帳面に並んでいた。もはや主の戻らぬワンルーム──それが俺の新しい棲家だ。


 ギルドによる異世界人の保護事業(囲い込みともいう)によって用意された借宿は保護期間が過ぎても急に追い出されるわけではないが、俺にとっては決して安くない賃料を支払うことになるので早々に出る以外の選択肢がなかった。仮に資金が潤沢でも出るつもりだったが。


 そんな俺が希望したのは川原さんが使っていた住居。十年ほど前に別の街からやってきた川原さんは異世界人であることを隠し、狩人の仕事で生計を立てていた。こちらの世界にも戸籍や住民登録の概念はあるが、低層に位置する住民に対してはわりと緩いというか罪人でもない限り、その管理は大雑把なもので川原さんも例に漏れず、素性を怪しまれず(というより興味がないが正しいか)に済んだようだ。そう聞くと呆れてる部分もあるが、こちらの世界には魔法があり、人種どころか異種族とも共存しているので、社会システムの優劣を単純に比べられるものではないだろう。


 それはさておき、他に身寄りのない低層の中年男の身辺整理なんてどこも淡々としたものだ。集団墓地に埋葬され、遺品も呆気なく処分される。俺はギルドに頼み込んで川原さんの埋葬を個別にしてもらい、住居を含めた遺品の全てを譲り受けた。いくら管理が緩いとはいえ、いくつかの手続きが横紙破りな処理になったようだが、そこは曲がりなりにも異世界人の頼みということで通してもらった。


 そうして引き継いだ部屋に持ち込んだ荷物を下ろす。借宿からの転居といっても雑嚢一つに収まる私物と川原さんの装備とを元々部屋にあった小物に混ぜるくらいで引っ越しは完了だ。数日空けた分の掃除は少し休んでからでもいいだろう。それも大して時間はかからないと思うが。


「……とっ」


 くつろぐ前に換気のために窓を開ける。まるで部屋が新鮮な空気を欲していたかのように風が踊り、循環していく。


 風のいたずらか、部屋の隅から物音。見れば飲料用の器に生けられた花が揺れている。質素一辺倒の中で唯一といっていい彩りは一度認識してしまうと視線を外しがたくなる。


 だからこそなのか、生花が飾られたテーブルの下に四角に加工された革製の小物──パスケースだ。荷物を片す時には気づかなかったが、生花の器で目立たない位置にあったらしい。ひょっとするとあえて隠すように置いたのかもしれない。その置き方が不安定で花に当たっただけで落ちてしまったようだ。見つけてしまった以上、放っておくのも気が咎め、拾い上げる。


「──あぁ、だからか」


 ためつすがめつしながらケースを開くと中身は定番の家族写真が二枚。一枚は奥さんと思しき柔和に笑う中年女性、もう一枚には十数年分若くした川原さんと並んで俺と同世代の──といっても今は三〜四十位だろう──青年が写っていた。


 剣道の大会での一幕を切り取ったものらしく、川原さんと青年がそれぞれ勝ち得た賞状を誇らしげに胸の前に構えている。賞状の文字も収まる計算されてか、写真越しからでも中身がわかる──青年の名前が川原一郎だということも。


 そして、飾られた花は淡い色合いの菊に似た植物。こちらではどういう用途かわからないが、川原さんにとっては個人を偲び捧げたものだろう。


「生き抜け、か」


 川原さんにとって、ここにはいない、過去にしかいない誰かに伝えたかったであろう言葉。俺がそれを受け取るのは少々荷が重い気がしなくもないが……。


「託されなくても生きるつもりだったくせに何を今さら」


 自嘲しながら、数日放置されたせいか元気のない花の水を取り替えようとする。だが、日本や今まで住んでいた借宿ならいざしらず、宿無しを点在させるよりまとめた方がマシという魂胆が見える集合住宅は風呂トイレ、キッチンなしの完全なワンルームだ。


 当然水道など通っておらず、それぞれの用事はわざわざ地上まで降りて供用の施設を利用しなければならない。風呂やトイレはともかく花の水替え程度の小用は面倒に思うだろう。他の住民なら。


 おもむろに器の中身を床に垂らす。本来なら床の染みができて終わるはずの中身はしかし、重力に逆らって俺の目線まで持ち上がっていく。数日間、花を生かし続けたせいかわずかにくすんでいたそれを窓から外へ出して最後に散らす。こうすれば下の住民に何事か言われることもない。


 そして、空になった器に手をかざす。水量を調整し、なみなみとそそぐと間をおかずに新鮮な水が器を満たす。


「ギルドにとってはたわいなくても俺にとっては便利な祝福だよ──川原さん」


 川原さんの祝福は、水の塊を放つだけではなく、ある程度操作する能力も備えていた。飲料用の水に事欠かず、炊事洗濯にも重宝するに違いない。これがありがたくなくてなんだというのだ。


 おそらく川原さんは飛ばされた先のギルドでろくな扱いを受けなかったようだ。それは俺の祝福が“水弾が出る”程度だと誤解し、落胆したことからもわかる。


 ──だから知られるわけにはいかない。俺の祝福が他の異世界人から祝福を奪う能力だということを。その発動条件に対象者の死が必須であることを。


 発動条件を勘違いする余地はないだろう。出会っただけで発動するなら出立前に済んでいるし、川原さんが水弾を使用した時も同じだ。だが、川原さんが死んだ後、まるで歯車が噛み合うように手ごたえと確信を得た。祝福とは言い得て妙だ、自分の意思とは関係なく押し付けられるところが特に。


 皮肉ってばかりもいられない。ギルドに知られた時、どうなるのか? 他の異世界人から祝福を奪うよう強要されるのか、危険だとして排除されるのか。他の異世界人に知られても同じだ。祝福を奪うために命を狙われる危険性を承知で隣人になりたいと誰が思う。


 ──どうして、こうなったと嘆かずにはいられない。対応一つ間違えば、即四面楚歌の状況に鼻歌交じりでいられるはずがない。


「それでも……だよなぁ」


 生き抜けと言った川原さんを思う。半日にも満たない同郷の士が遺したものは、逡巡してばかりいる俺の背中を押してくれる。だが、それを寄りかかったままではいられない。


 気がつけば、窓から差し込む光がさっきよりも強い。思いの外、自問している時間が長かったらしく、その分だけ傾いた日によって入り口まで届き、室内を満遍なく照らしている。借宿ではこうはならない、狭いからこそだ。


 しかし、だからこそいいのだ。間取りは違えど一人暮らしした二カ月前までの生活を思い出す。狭くて不便で不満も不安もあった。それでも親元から離れての一人暮らしに憧れ、踏み出した一歩に高揚したのではなかったか。ならば、間違いじゃない。物語にしろ、現実にしろ、はじまりは六畳一間くらいがちょうどいい。


 こうして、二カ月遅れの六畳一間の一室から俺の異世界生活がはじまった。

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六畳一間からはじめる異世界生活 芦屋めがね @ashiya-megane

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