補遺『楓待つ山吹』5

 先行して降りると、市谷少年を先に入れていたのを思い出す。

 完全に忘れていた。

 早く追い出さないと。


「ち、ちょっと待っていてください先輩!」

「はい?」

 脱衣場に飛び込むとまだ中でじゃばじゃばやっていた。

「少年! 今から楓先輩がお入りになるからとっとと出てください」

「さっき入ったばっかだぞ!」

「遅い、長い、早く出る!」

「わぁったよ!」

 中からくぐもった反響混じりの声が返ってくる。

「市谷さんがいらっしゃるのですか?」

「わ、だめですよ先輩。少年が出てくるんですから、のぞいちゃだめです」

 先輩が少しよろめいたような感じで先に出て、私も後に続く。


 ほどなくして少し濡れたままの市谷少年が出てきた。

「楓姉ちゃんはもう大丈夫なの?」

「ええ、ご心配をおかけしました。ちょっと眠気が強かったものですから」

「体の方は?」

 女の人にそんなことまで聞く?

「ぇえ、足も、おそらく大丈夫です」

「足……?」

「ここまで歩くときに姉ちゃんがどういう歩き方してたのか見てなかったのかよ」

「そういえばさっき、少しよろめいたような感じで……」

「楓姉ちゃんは左足首をくじいてるの! ったく、何が後輩だよ。後輩なんて胸張るんならそれくらい気付けって!」


 ああ、もしかしてわたし、やっちゃったかも……。


「無理して歩いたりしてない?」

 市谷少年が屈みこんで足首を見ている。

 先輩の左足首には赤みが差していた。

 くじいてからもずいぶんと歩かざるを得ない状況にあったのだろう。

 なにも観察できていなかった。

 己の浮かれ具合と浅はかさを痛感する。

「大丈夫ですから、怪我も少しひりひりすると思いますけれど、そう大きな痛みはないと思います。見たところ軽く手当をしてもらっているようですし、これは山吹さんが?」

「いえ、私は……」


 なにもしてない。

 できてない。

 先輩が無事だったと舞い上がっていただけだ。

 馬鹿みたいだ。

 いや、みたいじゃなくて、馬鹿そのもの……。


「それはタカナシさんが、あ、女の助手がやったからさ、俺も坂下の兄貴も楓姉ちゃんをいっさい剥いたりしてないからね」

 私に気を使ってだろう、少年はちらちらこちらを見ながら答えていた。

「脱衣場の外に控えておりますので、なにかあったら声をかけてください」

 私は笑顔を繕って退出する。

 少し落ち着かないといけない。


 脱衣場を出て、膝を抱えて座りこむ。

 すぐに市谷少年が出てきて横に立った。


 ややあってから衣擦れの音がきこえる。

 楓先輩が脱ぐさま、脱いだ後のお姿を想像するのはたやすいが、今はそんな気力も精力もなかった。なにより禁忌だという感が強かった。

 自分がそんな姿を思い浮かべるのはおこがましいとさえ思う。


 浴場の中から水音が聞こえてきても、市谷少年は横に立ったままだった。

「なんですか、あたし一人に先輩を任せられないとでも言いたいんですか」

「まぁ、そう落ちこむなよ」

「こういう時だけ裏を読むんですね……。落ち込むなって、そりゃ落ちこみもしますよ」

「刺々しく言ったのは悪かったよ」

「そこは責めてない。市谷少年のは正論だよ。私の注意が散漫だったから……」

 楓先輩が無事だったという喜びばかりで、配慮やそれに付随する諸々の手当てへの考えが抜け落ちていた。情けないと言葉には簡単にできるけれど、簡単に言い表せられないほどの悔しさで胸が満ちていた。

「先輩が無事だったっていう気持ちばっかりで、何も考えられなかった。喜んで先輩のことを疎かにしてしまうんなら、何も感じないほうがずっとましだ……」

 自分の内奥から沸き起こる気持ちに自分で満足しきっていた。

 こんな馬鹿のどの口が、楓先輩を敬い、慕い、慮っているなんて言えるだろう。

「その喜びは否定しなくもいいんじゃないか。兄貴も言ってたじゃねえか、大切な人が無事だとわかって嬉しくなるのは誰でも同じだって。俺だって、大切な人が無事なら山吹お姉さんみたいに手放しで喜んで、相手のことを疎かにしちまうかもしれねえ」

 市谷少年の大事な相手と言うのは、坂下探偵が言ってたタカナシさんって人のことだろうか。そういえばさっきも言ってた、楓先輩の怪我の手当てをしたっていうのもその子なのだろう。

「俺もそそっかしいところがあるからさ、偉そうには言えねぇよ。でも、山吹お姉さんに配慮がなかったかっつうと、そうでもないんじゃないの?」

「私にそんな思いやりなんかないですよ、どうせ」

ねんなよ。風呂や薬缶は楓姉ちゃんが目覚めた時のことを考えてだろ? そもそも足のこと伝えてなかった俺にも落ち度があんだ。風呂入ってる間に楓姉ちゃんが目覚めた時のことなんて考えてもみなかった。だからおあいこ、な?」


 見上げると少年は肩をすくめていた。


「おあいこで、俺が落ちこんでないのに山吹お姉さんだけが落ちこんでるんじゃ、俺が恥知らずになっちまう。俺は『楓姉ちゃん』なんて呼んでっけどさ、弟どころか弟分ですらないわけで……、けど山吹お姉さんは本当に楓姉ちゃんの後輩なんだろ? 正当に先輩って呼べるわけで、だったらもっと胸張ってくれよ」

「……そういうもんですかね」

「そういうもんさ。気付けるところからやっていけばいいだけじゃないか。その時に気付かなかったことは後から改善していってさ。最初から完璧なやつなんていねぇよ」

 少年に励まされるとは。


 ……そうだ、私は正真正銘、楓先輩の後輩だ。

 うん、あまり落ちこんでいるのも私らしくない。

 次からは気を付けるようにやっていこう。

 失敗してもくじけないで。

 そういうのが私でいいはずだ、きっと。


「うん、ありがとね市谷少年」

「あと、俺と楓姉ちゃんとの間には本当になんもねぇからな。それだけは重ねて言っとくぜ。事件に巻きこまれた姉ちゃんにかかわった、あくまで探偵の助手でしかねえ。楓姉ちゃんの本来の居場所はここなんだろ? だから頼むよ、山吹お姉さん」

 年下の市谷少年に年上の楓先輩を託されるのはなんとも不思議な気がする。

 だけどそうだ、ここが、この帝都支部が楓先輩の帝都での家になるのだ。

 その家から不用意に出してしまったばかりに楓先輩が災難に遭ってしまった。

 次からは何があっても部長と私で楓先輩をお守りせねばならない。

 特に特高には注意を払わねば!


「楓姉ちゃんは落ちこみやすくって考えこみやすい性質たちだからさ、近くにいる人まで落ちこんじまうと余計に悪循環になっちまいそうでな……」

「うん? いま聞き捨てならないことを……。先輩のそんな部分まで知ってるなんて、やっぱり楓先輩と濃密な何かがあったんですよね?」

「ねぇよ! ねぇけど、楓姉ちゃんをちょっと見てたらわかるよ。考えこみやすいし、落ちこみやすいんだなってのが。お姉さんにもすぐわかると思う」

「そ、そんなに先輩のことを観察してたんですか、不埒ですよ」

「ちょっと見てたらわかるつっただろ! もういい、俺は薬缶を見てくるよ、ずっと沸かしっぱなしなんじゃないの?」

「あ!」

 しまった。

 そう思っている隙に、市谷少年はするりと階上に向かった。


 そうして私一人になると、やっぱり中から聞こえる水音が気になりだす。


 脱衣所に体を差し入れる。

 楓先輩はあの硝子ガラスの向こうに……。

 気持ちを切り替えて、向こうで湯浴みする先輩を想像してみる。

 想像だから言葉にはできない。

 もう少しだけ、寄ってもいいかな。


「薬缶すごい音してたぞ……、って、なにやってんだよ!」

「戻ってくるのが早いよ! 火を見てくるんじゃなかったの!」

「すごい音たててたから消したって言いに来たの!」

「すんだんなら上に戻ってて」

「なに? 楓姉ちゃんに呼ばれてんの?」

「呼ばれてないけど、心配だから」

「じゃあこっから出るよ! 恥ずかしいだろ」

「同性だから恥ずかしいなんてないよ」

「山吹お姉さんは不穏なんだよ」

「なにかありましたか?」

 硝子越しに楓先輩のくぐもった声が響いた。

 影が戸に手をかけようとしている。

 だけどこのままじゃ少年まで楓先輩を見てしまう。

「おら、出て! 出ろ!」

 蹴飛ばすように市谷少年を追いだし、楓先輩の身なりを整えるべく待ち構える。

 こっから先は、私の胸の中だけの秘密だ。

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