補遺『楓待つ山吹』4

「市谷少年は坂下探偵の助手なんですよね」

 湯気を吐き出す薬缶を見ながら何の気なしに聞いてみる。

 風呂釜も焚いているし、茶葉と干飯は部長が出しっぱなしにしていた。

 先輩がいつ目覚めても問題はない。

「いまなんて?」

 市谷少年がハイ・マヌエルをふうふうと吹いて冷ます。

 猫舌なのかな。そんなに吹くと香りが飛んでもったいないぞ。

「だから、坂下探偵の助手なのかって、別にいやなら答えなくていいよ」

「いや、俺のこと少年って」

「そっちなの?」

「さっきは『あなた』なんて呼んでたじゃないか」

「そりゃ、あたしも興奮してたから。でも少年に『あなた』呼ばわりなんて偉そうでいやだからね。それとも他に呼んでほしい呼び方があるのかな。弟くんとか?」

「冗談は止してくれ、ねぇよ、んなもん」

「なら、市谷少年でいいと?」

「呼び方くらいあんたの好きにしろ」

「なにもわかってないな。あたしが『市谷少年』と呼ぶのだから、市谷少年も『あんた』って呼ぶのは止してくれって、そう言ってるんだよ?」

「いや、言ってなかっただろそんなこと」

「だから裏ぐらい読み取ってください。探偵の助手なんでしょ」


「わかったよ……、――さん」


 季節外れの羽虫のような声はよく聞き取れない。

「んん? 聞こえませんねぇ」


「や……、山吹お姉さんっ!」


 市谷少年の呼び方を聞いた瞬間にわかった。彼は年上の女性に『姉さん』と付ける奇癖があるのだ。彼が先輩のことを『姉ちゃん』なんて呼ぶのも、きっとそのせいなのだろう。たぶんそこに親しいからとかは関係がない。


 だけど、

「くぅ……、実際に呼ばれてみると、悪くない感触ですね」

 男の子に『お姉さん』と呼ばれるのは、これがなかなかどうして気持ちが良かった。背筋に生暖かい息をふっと吹きかけられたような快感が走るのだ。ぞくぞくする。

 私が長女だったなら、姉と呼ばれる感慨はまた違っていたのかもしれない。

 いや、確かに私は長女だけれど、同時に末の子でもあるから。

「自分が呼ばれるのはいいのかよ」

「なんか言いました?」

 楓先輩を『姉ちゃん』と呼ぶのを許した覚えはない。

 ただ、先輩の前で言い争うのを一時的に取り下げただけだ。

「なんでもねぇ」

「よろしい。ところで、結構汚れているようですけれど、お風呂で汚れでも落とす?」

「いいのか?」

「別に構いませんよ。体を清めるのは大切なことだし」

「だったら、まぁ、山吹お姉さんが言うのに甘えさせて、もらおうかな」

「お風呂はそこの階段を降りて、奥から一つ手前の扉をくぐったところね。手ぬぐいも二枚までなら使っていいから。あと、湯船は楓先輩が浸かる大事な部分だから、絶対に入らないこと。湯桶で体を流すのだけ許可します」

「優しいかと思ったらこれだもんなぁ」

 と市谷少年が去ったのを完全に確認すると、私はほっと一息つく。


 これでようやく楓先輩と二人きりになれた。


 すやすや眠る先輩の吐息はとても安らかだ。

 悪夢はもう振り払われたようだった。

 その穏やかな寝顔にうっとり見入る。

 太い筆で引いたような眉も、薄い色の唇も、整ったまつ毛も、意識なく眠っている今はまったく自然な形で保たれている。不安げな瞳もまぶたに閉ざされ、憂いを浮かべてはいなかった。

 光を拒まない艶やかな黒色も美しい。こういうのを烏の濡れ羽色というのだろう。

 それだけに引きちぎられたような髪が気になる。しっかり手入れしないと断面から痛んでしまうから、早いうちに補修しないといけない。

 本当に、いったい何があったのだろう。

 女性の髪をこんなふうにするなんて、楓先輩を連れ去った犯人はきっと残虐な嗜好をしているのだろう。もしかしたら女の髪を集めるのが好きな変態性欲者なのかもしれない。

 少年が見ていないのを何度も確認してから、そっと先輩の頬に触れてみる。


「や、やわらかい……」


 思わず声に出してしまう。

 人間の頬が柔らかいのは当たり前だけど、楓先輩の頬肉はやや薄く、肌理きめも細やかでなめらかに指が滑る。少し強く押すと内側の歯茎しけいの固さが、もっと強く押すと清冽な歯の並びまでわかってしまう。頬越しに先輩の歯肉をなぞり、粘膜の湿りを想像し、歯並びを感じ取り、ものを噛むさまに思いを馳せる。

 どういう成長をたどって先輩の頬が形作られたのだろうか。

 何を食べて先輩の歯並びができあがったのだろうか。

 いつかこの口から聞いてみたい。

 そして開いてみたい。

 紅の存在を知らなさそうな淡い唇から紡がれる言葉を耳に刻みたい。

 もちろん唇にも触れてみたい。


 いや、だめだ、そういう出来心はいけない。


 いけないけれど、少し当たってしまうだけなら問題はない、と思う。

 小指、薬指、中指、食指、親指。どの指で触れ、ではなくて、当たってしまおうか。

「ん……」

 楓先輩が眉根をぴくぴくわななかせる。

 慌てて腕を引っこめると、楓先輩がゆっくりとまぶたを上げた。


「やま、ぶき……、さん?」


「先輩!」


 前触れなく涙があふれる。

「はい、楓先輩。吹子です、後輩の山吹吹子です!」

「では、ここは――」

「帝都支部です。楓先輩は無事にお帰りになられたんですよ」

 楓先輩が右手で顔を覆う。

「先輩?」

 ああ、きっと楓先輩は泣いておられるのだ。

 無事に戻れたことに安堵して泣いておられるのだ。

 それを恥ずかしがって……。

「ごめんなさい、少しまぶしかったものですから」

 すかさず先輩の上に身を乗り出して影を作る。

 その拍子に涙が数滴、楓先輩の上衣に垂れて、そこだけ少し濃い影のようになっていた。

 目覚めてすぐこんな明るい部屋だったらまぶしいのは当たり前。

 なんですぐに気付けなかったのだろう。

 実際のところ先輩が泣いているのをごまかすために言ったのか、本当にまぶしくて言ったのかはどっちでもいい。言葉の表も裏も受け止めればいいだけ。


「坂下探偵におぶわれながら、つい眠ってしまったのでした。お恥ずかしいところを見せてしまいました」

「いいえ、先輩はきっと恐ろしい目に遭われたのです。だから疲れて眠ってしまうのも仕方のないことですよ、誰の背であっても。恥ずかしくなんかありません」

 あの坂下って探偵、とんだ役得だ。下心があったわけではないだろうけど。

 先輩は顔を覆ったままでいる。

「楓先輩? 具合が悪いのですか?」

「……や、色々ありすぎたものですから」

 言葉少なに言ってゆっくりと首を振り、手の覆いをとかれた。

 遠くの何かを見るような瞳に疲労の色が濃く表れている。

 先輩の「色々」には本当に色々なものが詰まっているのだろう。

 それを想像すると私も涙が止まらなくなる。


「山吹さん、泣いていらっしゃるのですか?」

「うぅ、すいません、先輩が無事だって、目を覚ましてくれたって、すごく嬉しくて止まらないんです……。いまふきますから、お構いしないでください」

 上衣でさっとぬぐう。鼻水が出てないのが救いだった。

「私のことはともかく、先輩はいろいろあって混乱してるんだと思います。だから、その、可能ならば、みそぎも兼ねて少しご入浴なさって、頭をすっきりさせるのがいいかもしれません。それとも、先に何か召し上がられますか?」

 あれこれ聞きたい気持ちもあるけど、先輩自身の気持ちの整理がつくまではしまっておこう。でないと、ただのうるさい女になってしまう。

 今は先輩が混乱を解きほぐせるようにお手伝いするのが一番の貢献だ。

「もし怪我などの為にお一人で入られるのが厳しいのならば、あたしもお供してお背中を流してさしあげたり、あ、洗ってさしあげたり、そういう些細なこと、なんでも申し付けてくださればやります」

「そう、ですね。お言葉に甘えさせてもらいます」

「お、お、おぉ……、お背中流しですか! お体も込み込みですか?」

「ぁあ、いえ、そこは大丈夫です。一人で入れますので……」

「あ、はい……。お風呂の場所までは案内しますね。立てますか?」

 ゆっくりと起き上る楓先輩に手を差し出せば、「ありがとうございます」と、これには応じて手を取ってくださった。


 先輩の指の付け根には固いたこがあった。五本の指すべてにあるようだ。

 何でできたのか、私には見当もつかない。

 だけど、それはまるで先輩の歩んできた人生が凝り固まってできたもののように思われた。いつか私も、先輩の歩む人生とその体験から生じるたこの中に取りこまれ、先輩を内側から支える力になりたい。

 包帯越しではあるけれど、触れた手のひらの感触を通じて、先輩が無事で戻って来られたのだという安堵にひたることができた。

 人の手に触れるとなんでこんなに温かい気持ちがするのだろう。

 絶対に体温のせいだけじゃない。

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