第二十二章『演目の終わり』4

「市谷、さん」

 真っ先にビルから飛び出した市谷を呼ぶ者がいた。

 実に小さな呼びかけであったにもかかわらず、市谷は耳ざとく声の主を見つけて相好を崩した。にやけた頬がだらしない。

小鳥遊たかなしさん! 来てくれてたんだ!」

「坂上さんの、許可がありま、したので。ご無事で、よかった……、です」

 市谷よりも背の低い少女がかすかに目を細める。

 彼にはそれだけで彼女が喜んだのだとわかった。

「俺はこの通り頑丈なだけが取り柄だからさ」

 腕まくりをすると小さな傷が幾らもできていた。

 小鳥遊がその腕をつかんで、怪我けがの具合をまじまじと見つめる。

 湿った鼻息がかかるほどで、市谷は頬をかっと赤く染めた。

「ち、近いって! と、とにかく怪我はなんともないでしょ、ね?」


「仲が良いのはよいがね、そう鼻の下を伸ばすもんじゃない」

 追いついた坂下がため息を吐くと、市谷が「わ」と飛び上がって驚く。

「いたんならそう言ってくれよ兄貴」

「一緒に脱出したのだからいるに決まっているだろう。それとも僕と射扇いおうぎ君は押し潰されたとでも思っていたのかい」

 冗談めかして言う坂下の後方で、むすっとした顔の射扇が部下に囲まれ無事を喜ばれていた。

「坂下さんも、ご無事、で」と小鳥遊。

「僕はこいつよりもさらに頑丈なのが取り柄だからね」

 意趣返しとばかりに市谷の頭をくしゃくしゃ撫でながら言う。

「何かあったのを止めてくれたみたいだね」

「はい。いきなり、みなさんがもみ合いになり、ました、ので驚、いて、判断が少し遅れてしまい、ました」

「小鳥遊さんが謝る必要なんてないと思うよ。いきなりもみ合いになったら誰だって驚いちゃうさ。そうだよね兄貴」

 小鳥遊の前に出た市谷がこうなるのはいつものことだ。

 坂下はなにも答えないで小鳥遊のすぐ後ろに立っている、〈軍団〉の一部を統括する助手の左内さないに顔を向ける。

「特高と何があったのか」

「射扇捜査官が我々の封鎖を突破し、それに続こうと特高隊員が一斉に押し寄せたので、これを立ち入らせまいとして乱闘状態になりました。小鳥遊さんがすぐに停止の意志を示されましたので、〈軍団〉は指示に従い行動を停止しました。負傷者はいません。それからすぐにビルが異音を立てはじめましたので、倒壊を危惧された小鳥遊さんの指示で九割八を現場から撤退、残りの二分を編制しなおして中を捜索しようとしておりました。そうしているうちに坂下さんたちが出てこられました」

 一から十を説明してくれた左内に坂下は深くうなずいた。

「乱闘騒ぎは僕の失錯しっさくだ。すまなかった」

 特高と連携していなかったために起こったのだと結論付ける。

 もしも特高の捜査官が巻きこまれていると知っていれば、最初から射扇に掛け合って共同で動いていたかもしれない。


「我々は《軍団卿》の一味に足止めを食らってしまい、どうにか突破しようと苦労していていましたが、しばらくすると向こう側がぴたっと行動を止めてしまったんです」

 射扇も部下から報告を受けていた。辺りからは大勢いた〈軍団〉の姿がほとんど消えていた。何人か顔を知っている者がちらほら残っているだけだ。

「あの少女が何かをしたようでして――」

 揉みあった際に殴られたのだろう、顔を真っ赤に腫らした部下が小鳥遊を示す。

「小鳥遊といったか……」

 どうやら彼女は〈軍団〉の指揮系統上、かなり高位にいるらしい。

「それで、理由はわかりませんがあちらが動きを止めてしまったので、その隙に一斉に飛びこめるかと思ったのですが」

 報告を続ける部下がビルを指さした。

「それからすぐビル全体が異音をたてて震えだしまして……」

 時機を見計らったかのように、ビルが多量の土埃を噴き上げ、がらがらと大きな音を立てて内側に崩れはじめた。


「危ない!」

「離れろ!」


 誰かが口々に叫び、その場の全員が一斉に遠ざかった。

「こうなるかもしれないと思って、踏みこむに踏みこめなかったんですよ」

 退避しながらなおも報告する律儀な部下の横で、射扇は区画を封鎖して一帯の立ち入りを制限する方法を考えはじめていた。

 浮浪者は自ら面倒事に関わり合いになりたくないから追い出すのは簡単だ。

 むしろ厄介なのはなんにでも首を突っこみたがる野次馬と、それと同じような精神構造を持つ記者だ。連中どこからともなく湧いてくる。

「危険性を考慮してただちに現場を封鎖したい。お前たちは大至急分署に戻って帝都警察を狩り出してきてくれ。それから本部に協力の打電を」

 十分な距離を取ったところで射扇が指示を出し、さらに、

「坂下探偵、現場を封鎖したいので少しばかり〈軍団〉の力をお借りできませんか?」

「借りをいつか返していただけるのであれば一向に構いませんよ。それと、これでもまだ取り調べを今日中に行うつもりですか?」

 背中で正体もなくぐっすり眠りこけている楓を見せる。

「……対応に時間を割かれるでしょうから、後回しにせざるを得なくなります。少なくともこの後すぐに、というのは無理でしょう」

 事がうまく進まない苛立ちをため息に混ぜて吐き出し 射扇がうなずく。

 坂下は小鳥遊はじめ〈軍団〉にてきぱきと指示を飛ばしはじめた。


 ――これからもうひと仕事、か

 射扇は行く末に思案をめぐらせる。

 取り調べよりも先に議員へ仔細を報告しなければならない。

 また、この一件は絶対に表ざたにならないだろう。〈黄金の幻影の結社〉が関わっていたとなれば、政府、議会、特高がそろって情報を遮断するからだ。

 ――南海楓にも黙秘するよう念を押しておかなければならないな


 不安と恐怖が市民へ伝染せぬよう秘密裡に取り除くべし。


 最初に誰が打ち出したのか、それが帝都の指針である。

 といって事件をなかったことにできるわけではない。

 それらは表に出ないだけで、確実に記録されている。


 ――わかりやすく残るのは犠牲者がいた事実だけだ

 そして蜥蜴トカゲの尻尾切り。

 射扇は部下を死なせた責任を取らされるだろう。

 いや、仮に取らされなくても、自ら取る気でいた。

 部下を失った悔しさはこの先しばらく晴れるまい。

 もしかしたらずっと曇ったままかもしれない。

 雨に打たれて洗い流されてしまえばどれだけ楽だろう。

 しかし雨はいつの間にかあがっていた。

 この先も悔しさを甘受しつづけろとでも言いたげに。


 明け方の急激な冷えこみが東部市を包む。

 寒風が舞い、底冷えのする冷気が街を浸し、蒸気機関が発する濛気もうきが茫漠とした帝都の曙を幻想的な白に染め上げていく。

 夜明けは冴え冴えとして、例年の冬が戻ってきたような朝だった。


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