第二十二章『演目の終わり』3
しかし呆然と見つめていられる暇はなかった。
「まだ上は崩れてないみたいだ! さ、早いとこ出ちまおうぜ!」
再び先陣を切って駆けだしていく。
「
そばにやってきた坂下がひょいと楓を背負い、彼女が何かを言う間もなく駆けだす。
階段までやって来て駆けあがる坂下に射扇が並走する。
「南海楓、地上に出たらお前に聞きたいことが山ほどある」
こんな時にまで熱心なものである。
「は、はぁ……」
うなずく楓の
ひとまずの危難を脱し、猛烈な疲労がどっと襲いかかっていたのだ。
緊張の糸が切れ、返事をする気力もほとんど残っていなかった。
眠りを誘うような揺れの中、坂下の高い体温を感じながら、楓のまぶたはどんどん重くなっていく。
「彼女が相当に疲れているのは見ての通りで、地上に出て何かをするのは無理ですよ」
「坂下探偵と市谷
「口裏合わせも何も、彼女と市谷くんは最初から関わっていたのではないよ」
「それを取り調べで証明しましょうという話です。坂下さんだって依頼があって動いた一件というわけでもないのでしょう?」
だから帝都探偵協会に掛け合う必要もないでしょう、と射扇捜査官。
個人的に動いている相手に、わざわざ協会の許可を得る必要はなかった。
「僕は全面的に協力しても構わない。だけど彼女は巻きこまれただけだよ」
「〈結社〉に偶発的に遭遇したのならば、後ろめたいことなどないはずです。南海楓にも市谷匠にもなおさら協力してもらいたいですね」
「特高の捜査が始まったのは一週間前だったね」
「なにを言っているんですか?」
「しらを切るのならばそれで構わないよ、後日にでも
射扇は表情を変えない。が、その額を汗が伝い落ちていく。蒸し暑さの残る地下でかいた汗とはまた別の、いやな汗だった。
一方の坂下もにこやかな笑みを崩さない。
「……私を脅す気ですか」
坂下は、いや《軍団卿》は確実に
射扇が捜査をはじめた動機を、背後で彼を動かした者の存在を。
そして当然ながら心得ているのだ、議員という生き物が内密な動きを暴かれるのを嫌うことを。そもそも議員が個人的な思いで司法の特高を勝手に動かすのは越権もいいところである。それができるのならば、個人的な理由で政敵を監視させることだって可能になってしまう。
「脅すなんて人聞きが悪い、共通の案件で議員と話すだけじゃないか」
――何度やられても慣れないな
帝都に浸潤した〈軍団〉はどこにでもいる。
「その議員先生とやらが、特高を私的に動かしたとでも告発する気ですか?」
「そこまで言っていないよ。《軍団卿》も後ろめたい手を使っていないわけじゃないからね。それに議員先生はこっそり射扇くんに頼むことで、こうして危機を未然に防いだんじゃないか。ああいや、これは皮肉として受け取らないでほしいな」
坂下が人懐っこい笑みを浮かべながら言う。
「話を戻すけど、探偵助手の市谷くんはともかく、民間人の南海さんは〈結社〉に巻き込まれたという理由で取り調べを免除、もしくは延期できないかな。口裏を合わせないという点については、もうこちらを信じてもらうしかない」
「……ならば後日、坂下探偵も立ち会うという条件で納得していただけませんか。個人的にも、聞きたいことがありますので」
射扇の口調が湿りを帯びる。その顔にはうっすらと悔しさがにじんでいた。
議員とのつながりを指摘されても顔色ひとつ変えなかった捜査官の顔に、である。
犯罪組織に関わればそうなる確率も跳ね上がる。
だからといって、部下を失って平気でいられるほど射扇は冷徹になりきれなかったし、人でなしでもなかった。部下たちの両親、兄弟になんと詫びればよいのか。
滅私奉公が常の身とはいえ、射扇が責任に無痛でいられるわけではない。
「取り調べ、ですか?」
楓が半ばうとうとしながら反応する。
「大丈夫ですよ。少し寝かせて、いただければ、この後でも」
眠いのと背中に乗せられて振動が伝わるのとで、途切れがちに答える。
「ご協力に感謝します」
射扇がつぶやく。
階段を昇りきると通路が二手にわかれている。
右に伸びる通路はほとんど傾斜のないまま地下牢の方へ、もう片方の通路は左に折れ曲がってすぐ階段になり、さらに上へ続いている。側にひしゃげた鉄格子が打ち捨てられているのは、坂下がこじ開けた跡だ。
市谷と楓が昇るか降りるかで迷った場所である。
もし二人が最初にここを昇っていれば、《猟奇博士》が日進を改造している場面に出くわしていただろう。
市谷は迷いなく階段を駆けあがり、坂下と射扇も後に続く。
負ぶわれた楓は鉄のように固い背面の揺りかごでうとうとしながら、
――あれ? 誰かが見ている……?
土石に次々と埋もれていく地の底から、こちらを見つめている視線を感じるのだった。
だが地下に誰かが残っているはずがない。
それでも楓は、
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