第二十一章『灰かぶりの雨』3

   *


 ぽつり、ぽつり、雨が降ってくる。

 天井から地下まで開いた穴を通じて、雨はたちまち地下にまで届いた。

「雨なんてしばらく降らないって《時計塔》が予報してたのに。てかここ屋根なかったんだ」

 煤煙の臭いがほんのりと漂ってくる。雨粒に含まれたものだろう。

「さっき大きな音がした時に屋根に穴でも開いたんじゃないかな。それに《時計塔》だって予報くらい外すさ。暖冬だって予測できなかったんだ、信じすぎるものじゃない」

 地下炉の奥でくすぶっていた灰がたちまり冷たい雨に反応し、風を伴い、噴煙柱のように一気に駆けあがっていく。

 二人はしばし話を中断して外套で顔を覆う。

 あまりに壮大な灰神楽だった。

 やがて灰の舞が収まると二人はまた、

「兄貴は《時計塔》に懐疑的だよね」

「僕には君が、いや、帝都の人たちが疑いを持たなさすぎるように見えるよ」

「むぅ、そういうもんかなぁ。でも雨って予報は確かになかったんだよ」


「ぁの、そのぅ、この雨は、もしかしたら私のせいかもしれません」

 と二人の会話に楓が混ざる。

「へ? 楓姉ちゃん雨女ってやつ? てかまた自分のせいって……」

「や、そうではなく、そのぅ、ここに来るまでの歩き方が原因かもしれないのです。市谷さんは見てらっしゃいましたよね、通路での私を」

「あのびっこを引くような歩き方?」

「はい、あれが、その、偶然なのですが、反閇へんばいに似た動きになっていまして」

「へん、ばい……? 兄貴は知ってる?」

「いや、僕の知識にはないな」

 帝都育ちの二人と極東育ちの楓。

 探偵と助手と巫女。

〈蒸気都市〉帝都の出身と片田舎の出。

 両者には知識の偏りがありすぎた。

「反閇とは古代に麓海ろっかい地方の冬疋トウショで唱えられた禹歩うほを起源としまし――」

 頭から説明しかけて楓は言葉を呑みこむ。

 喉がいがらっぽい。

 巻き上がる灰を多量に吸いこんだからだろうか、あまり長く喋れそうにない。

「ともかく、雨乞いにも用いられる歩行法でして、くじいた私の歩き方がその反閇にそっくりでしたので、もしかしたらそれが影響しているのかもしれません」

 かなり大ざっぱに説明して、ようやくせきが出てくる。

 けほけほと音は控えめだが、空気が喉を通る時のずきずきした痛みが激しい。

 坂下と市谷は彼女が喉を痛めたおかげで長々しい講義を聞かずにすんだ。

 このあたり、楓と《猟奇博士》には相通ずるものがある。

「まさか歩いただけで雨が降るなんて、んなことあるわけないじゃないか姉ちゃん。そんなの昔の迷信で雨が降ったのはたまたまだよ、たまたま」

「それなら、時計塔の予報がたまたま外れるのとなにが違うのでしょうか」

「む、それは……、ともかく古い迷信と現代の《時計塔》の予報は違うんだよ」

 そう押し切られ、楓は悔しそうな顔をしてうつむいてしまう。

 言い返すに言い返せない、いつもの消極的な彼女に戻っていた。


 雨は空中にただよう灰を溶かして、濁った滴となり地上へ降りそそぐ。

 帝都を灰かぶりの雨が染めてゆく。暖冬を終わらせるかのような氷雨だった。


 魂は灰に見送られ天に昇る。

 故郷や祖霊の元へ戻るのか、はるか南方の浄土へ向かうのか。

 あるいは選ばれる日まで眠りにつくのか、それは誰にもわからない。

「天にします天津神、かしこき――」

 楓は目を閉じて、口の中でちいさく祝詞のりとをあげた。


「今後の気温の経過を見守らなければ断定はできないけれど、おそらくは〈地下炉〉の排熱が外気に影響を与えていたのだろうね。それを考えると、《時計塔》に予測を外させた〈地下炉〉の威力の凄まじさは想像を絶する。〈結社〉はこんなものを作っていったい何を計測していたのか、計画責任者から詳しく聞きだすしかないけれど――」

 坂下の視線の先では《猟奇博士》がまだ何かぶつぶつ言っていた。

 すぐに逃げ出す様子はなさそうだ。

 仮に逃げるにしても、坂下の前を通るしか道はない。

 坂下は再び空を見上げ、すぐにこうべを垂れた。

「総ての犠牲者に事件の解決をもって安らかな眠りを」

 探偵もまた〈巫機構かんなぎ〉の巫女とは異なる形で死者を弔う。

 宗教的なものではなく、犠牲者に向けて「事件を終わらせましたよ、どうか安らかに」という報告のようなものだ。


 ビル内では天井のある部分から煉瓦片レンガへんがぱらぱらと剥離しはじめていた。

 坂下が突入してくる前と同じような現象だ。

「崩れるかな、これは」

 地下炉とビルの基礎が一緒に揺れているのを確認した坂下がつぶやく。


   *


〈地下炉〉に押しこめられていたすべての者は天に昇っていった。

 しかしその中に、炉に落とされた道化師と老人の姿はなかった。


   *


「はは、しっぱい、すべてがだいなし……はは、ははは」

 呆ける《猟奇博士》は同じ言葉を繰り返した。

 そしてぼんやりと顔を上げた彼は、灰の中に浮かぶ《無銘道化師》を目にした。


 ――違う! 違う違う違う! た、ただのさっか、錯覚だ……


 彼が見つめる先は灰が滞留している箇所であった。

 そこにとどまった灰が複雑な模様を浮かび上がらせ、よりによって《無銘道化師》の、人を見下すような顔に見えたのである。この錯覚がかえって《猟奇博士》を正気付かせた。


 ――死んだんだ、奴は、わたしの手で! おのれ猟奇式さえ、猟奇式さえ動けば!


 幻の道化師を打ち払い、早く逃げねばと思う。

 だが、腰が抜けて思うように動けない。

 肝心の猟奇式人形も黙したまま動かない。

 機能が停止したのか、あるいは命令を受けとめる制御機能が故障し、なにも受け付けなくなっているのか。

 ならば再起動させるしか手はない。

 そう思い、何度も指を鳴らそうと試みるが、うまく鳴らない。

 元々そんなにうまく鳴らせない上に、指先が震えていた。

 とてもではないが、人形を再起動させられる状態ではなかった。


 ――そういえばあの時もうまく鳴らなかったのだった


 市谷と楓と《無銘道化師》と、ついでにいた誰か(それが誰だったのか、《猟奇博士》はまったく覚えていなかった)にお披露目した時のことだ。

 あのとき猟奇式人形はどうやってこの階層に登場したのであったか。


 ――確か道化師が代わりに指を鳴らし……、え?


 よくよく考えてみれば、それは本来ありえないことであった。


 ――こいつは私の命令と動作しか受け付けないはずだぞ


 それなのに、なぜ道化師が指を鳴らす音に猟奇式が反応し、動きだしたのか。


 ――まさかこれも奴の? いや、いや、そんなことあるわけが


 道化師の顔のようにも見える灰が《猟奇博士》を嘲笑うかのような形を描き、すぐに吹きこんだ風に散らされてかき消えていく。


 ――そうだ、そんなわけがないのだ!

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