第二十一章『灰かぶりの雨』2

「違う、私には何も、なにもみえてななないぃ……みえてないんだ……、道化師は死んだし、連中も死んだ。しし、死者など存在しな、しないぃい……、なのに、なのにこんなことが、神科学の前には魂など……」

「もう一度言います」

 楓はすっと《猟奇博士》を見据える。

「あなたの科学は神などではありません。科学を騙る邪悪です。炎に焼かれ、きよめられなければならぬ類のものです。未来を作る科学は魂を、お隠れになった方を傷つけはしません」

「だ、だからわたしは神の科学を、神科学を成し遂げようと……」

 博士は一気に老けたように息をぜいぜいと切らす。

「できません」

 きっぱりと楓が告げる。

「人はその領域へは立ち入られないのです。や、仮に科学がその域に達せられる未来があるのだとしても、そこに至るのは絶対にあなたではありません」

 いかに機関化が遅れている極東の出身といえども、楓は現代っ子であった。


『科学が作る明るい未来』

『科学がもたらす文明と人類の進歩と調和』

 こういった未来への明るい展望は、完全なる戦後世代ならば一度は胸に抱いた覚えがあるはずだ。そして成長してもなお胸に抱いている者も少なくない。

 それは〈巫機構かんなぎ〉という旧弊な組織に属する巫女であれ、未来の碩学を多く擁する九重ここのえ帝国大学の学生であれ同じだ。

 そこには自分たちがいつか明るい世界を作り、かつ担っていくのだという自負がある。

 だからこそ科学を悪用し、未来に暗い影を投げかけようとする邪悪を前に、正義感が燃えるのであった。


「科学による犠牲を当然視するばかりか、その責任を取らず、生みだした犠牲を一顧だにしないあなたに訪れるわけがないのです、科学の未来など」

 そう言って楓は、ふとした香りに気付いて博士にずいと顔を近づけた。

 なにかの樹皮をくすぶらせたような芳香がただよっている。

「この香りは?」

「や、でき、できろん、できるんだ、できないわけじゃない、神科学さえなせば」

 しどろもどろな博士はうわ言を繰り返すだけでろくな反応を示さない。


 と、楓の毛先にまたも、ぴりり、とした感覚がほとばしる。


 ――これは……


 初めて遭遇した人形から逃げた先で楓に触れようとしていた気配だった。

 やがて気配は人影へ、人影から人の姿へと変化する。

 くたびれた作業着姿なのは他の男の姿と大差なかったが、楓はその姿、いや、〝思念〟に覚えがあった。相手も同じようで、楓を見かけてほほ笑んだ。


 気がした。


 が、それを確認する間もなく、すぐ他の思念と同じように天へ舞っていった。


「楓姉ちゃん、いまの人なにかこっち見てなかった?」

「ええ、私が地上で見た地縛霊です。地下炉の犠牲になっていたのですね……」

 見立ては当たっていたのだ。

 そして当たっていた事実が、楓を悲嘆にくれさせた。

 地縛霊が何に由来し、なぜ足跡そくせきを残しているのか。

 その背後にはたいてい悲劇的な結末がある。

 地上に残存して伝えたいというほどの強い〝残留思念〟を発しているのだから、生半可な想いでそこに残っているわけがないのだ。妄執の炎からは逃れられたものの、地縛霊と化してすぐ近くに縛りつけられていたのだろう。


「本当にいるんだ、そんなの……」

「はい、すべては見た通りです。ですが――」

 楓は《猟奇博士》にも霊性存在がはっきり見えている原因を考える。

 感覚が鋭くなっているという理由は、元から視える楓については当てはまる。

 市谷も年齢的にぎりぎり視えるのだろう。

 が、ずっと年上であろう蝙蝠仮面がなぜ視えているのかは不明だ。

 楓と同じように、視える才能があるのだろうか。

 その可能性も捨てきれない。

 しかし、こうもはっきり三人に大量の思念、魂が視えているのには、素質以外にもなにか別の理由があると考えられた。

 楓は《猟奇博士》からただよう樹皮を炙ったような、決して悪くない香りを勘案し、自らの知識からまた別の可能性を引き上げてくる。


 ――もしや反魂香はんごんこう


 北洲の古伝にあるこうだ。

 この香を焚くと煙の中に故人が姿をあらわすとされている。

 伝承によって異同がみられるものの、この世から去った者が煙の中に現れるという点はどれも一致している。詳しい作成方法はいずれにも残っていない。

 時の権力者によって反魂香を再現しようとする試みもあったが、全て失敗したという話だけが伝わっていた。

 そのような代物を、科学を侮辱するような男が作りあげたというのだろうか。


「まさかあなたは炉で反魂香を作っていたのですか?」

「はん……、こん、ごう、を、つくって……つくっていた、のですか?」

 博士は恐怖に見開かれた眼で虚脱しきり、楓の言葉を繰り返すだけだった。

 これではとても聞き出せまい。

 しかし楓は、伝説は伝説のままでよいと思う。意図して封じる必要はないが、とっくに散逸してしまったものを無理に掘り起こす必要もないだろうと。


「はは、しっぱい、すべてがだいなし……はは、ははは」

 ぶつくさつぶやく《猟奇博士》の目は焦点があっていない。

 この世にあらざるものを視てしまったという怯えに加え、計画が水泡に帰したという喪失感が彼の心を踏みにじり、虚ろにしてしまっていた。

 すっかり自失し、もはや会話が成立するかも怪しい。


「ふひ、ふっへっへ……」


 やがて《猟奇博士》はにたにた笑いだして、倒れこんだまま万歳をした。

 その手がくじいた足首に当たり楓は顔をしかめる。それに緋袴の裾が博士の顏にちらりとかかったので、楓は慌てて腿の布地を抑えこんで裾が広がるのを隠す。

 そうして博士から少しだけ距離を取り、楓はようやく胸をなで下ろす。


 ――これでようやく終わるのかな。長かった……


 駅に降り立ったときにはこんな目に遭うなど思いもよらなかった。

 帝都に降り立ち、午後三時を知らせる時計塔の鐘を聞いて、それから……、


 ――それから誰かと会っていたような……、誰と?


 記憶の一部がごっそり抜け落ちているのに気付く。


 ――その誰かと会ってから、どういうわけか路地裏を経由して


 人形と遭遇し、支部にたどり着いたと思ったら特高が現れ、そして警察署で取り調べを受けた。その時に誰と会っていたのかと聞かれたことまで覚えている。しっかりと証言もした。

 そこまで覚えていながら、誰と会っていたのかが思い出せない。

 まるで肝心な部分の櫛歯が欠けた自鳴琴のようだ。

 その誰かは〈地下炉〉の犠牲になったのではなかったか?


 ――あの時に道化師さんの横に、横? 誰か立っていた?


 もやがかかったように思い出せない。

 いや、靄のような見通しのよい気体ではない。

 もっと濃い靄――それは霧だ。

 それも蒸気から生じた濃霧。

 帝都を包みこむような濃密な霧が記憶を探るのを阻んでいた。

 帝都に来てからというもの、霧に覆われたようにほんの少し先すら見通せなくなっているというのに、さらに通ってきた軌跡すら見えなくなってきているのだろうか。


 ――確か《時計塔》や駅舎の硝子のことを話して、それから勲章、そう勲章のことも


 話した内容まで覚えている。

 それでも相手が誰だったのかが思い浮かばない。

 若かったのか、老いていたのか。

 女だったのか、男だったのか。

 蒸気大戦の話をしたのだから老いてはいたのだろうが……。

 なんだか茫洋とした輪郭を持つ影絵を見せられているようだった。

 記憶しうる範囲のぎりぎり外に立たれている。

 楓はそんな印象をいだいた。


 ――記憶のへりに立っているのは、誰?


 そのとき炉の下方から、大量の灰が煙のように一気に吹き上がってきた。

 吹き荒れる灰が目や鼻に入るのを防ごうと楓はとっさに袖で顔を覆う。

 その拍子に袂から地図を書きつけた小さな紙が飛び出し、灰と共に舞っていくのに彼女は気付かなかった。この先もずっと。


 ひとしきり吹き荒れた灰が止むと、楓の耳に市谷と坂下の会話が届く。

「むぅ、そういうもんかなぁ。でも、雨って予報は確かになかったんだよ」

 ――雨といえば通路での歩き方が

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る