第二十一章『灰かぶりの雨』1
「
猟奇式人形は沈黙したまま相変わらず反応しない。
仮面は破片を集めるのも困難なほど
露出した顔面はやはり正視に
目は見開かれ、瞳孔も開ききっている。瞬きはない。
口は唇の端に打たれた鋲のためにだらしなくいっぱいに開いたままで、唾液の垂れた後が枯れた川の筋のように残る。
そして最も大きな変化として、むき出しの〝思念〟が消えていた。
――まさか……
坂下は人形の手足を砕いていた。
万が一動きだしても楓に手出しできないようにと配慮した結果だが、人形の頭部を消し飛ばさずに無力化できる方法でもある。多くの人形を壊してきた坂下だからこそ、これ以上の衝撃を与えると頭部が消し飛ぶという
「日進さん、もしも聞こえているのならばどうか、どうかお返事を――」
楓の呼びかけがむなしく響く。
「もしも、もしも聞こえていないのだとしても、どうか聞いてください。たぶんこれは、私がそうしたいという、善意の押しつけですから」
深呼吸して、言霊を口にする。
「私は、日進さんを救いたいんです」
そうは言っても楓は一歩を踏みだせない。
声音も震えている。
てのひらの傷も体の打ち身もいまだにずきずきと痛む。
また突き飛ばされるのではないだろうか、という恐れもぬぐいきれない。
一度しみついた恐怖はそうそう払えるものではない。
自分を恐れる者から「あなたを救いたい」と言われ、それを素直に受け容れられるだろうか。
「あなたが望むのならば、どうかその手を動かしてください。そして、あなたの本当の声を聞かせてほしいのです」
すくんで一歩を踏みだせない楓は、相手の意思にゆだねるという方法を示した。
自分から踏みだせないという事実を覆い隠して。
沈黙する日進に向かって楓は全神経を研ぎ澄ます。
不気味なほどに気配も意識も感じられない。
それでも諦めずに語りかける。
「あなたの心がここにあるのならば、その心でどうか私に呼びかけてください。いまの私ならばそれを感じ取れると、自負していますから」
むき出しの〝思念〟に怖気を感じはしたが、今度は受け止めようと腹をくくる。
帝都に来てから楓の感覚は冴えていた。
普段ならば人形の微弱な感情など感じられないだろうし、地縛霊らしきものが出現する前にその予兆も
どうして敏感になっているのか、そうなった契機に心当たりがない。
しかし原因はどうあれ、いまそれが日進を救える手立てとなるのならば、用いない手はない。
彼女がこんなふうに自信を露わにするのは珍しかった。
そんな時、楓の毛先に、ぴりり、と静電気のような感覚が走った。
かすかなそよぎが水面にさざ波ひとつ立てず撫でていくような、とても微弱な変化だ。
研いだ心に何かが触れようとしていた。
――これは、日進さんのもの?
違う。
もっと遠くて深いもの。
現実の位置としてはもっともっと下、地の底からの。
それらは最初の内、じわりじわりとゆっくり昇ってきていたが、ある地点から一気に駆け上がりだし、いまやこの階層の真下まで迫っていた。
それに先駆けて、すっかり鎮まった火口から、噴煙が灰を伴い天へと舞い上がっていく。
視界を遮るほどの濃さはないが、粉雪のような灰が階層中に広がる。
地下炉の溝に付着していた無数の灰が天井へ向かって一斉に巻き上げられているのであった。
楓は目鼻に強い痛みを感じた。
大通りで感じた痛みと同じ、煤煙によるものだ。
直後、噴き上がる灰を追いかけるようにして彼女が感じていたものが飛び出す。
それは灰に混じり、灰を追い越して、階層をも飛び越してなお高く、なお遠く上昇していく。
腹をくくっていた楓は灰に混じって飛ぶものの正体を
――そとにぃ、そとにだしてくれぇぇ
――こんなところで終わりたくないぃぃ
――誰か助けてくれっ
――熱いのはいやだいやだいやだ
「これは、燃やされた方々の――」
心の叫び、いわゆる〝思念〟、あるいは魂であった。
地下炉を飛びだした複数の魂は一時的に人の姿をとり、《猟奇博士》の方を見ては、すぐ灰や煙のような状態に戻って上昇していく。
ぼろを身にまとった男、作業着姿の体格のよい男、薄汚れたつなぎを着た労働者。
全てがそういう人の姿を取っていく。
みな、炉の犠牲になった者たちなのだろう。
帝都で集められながら、姿を消しても探されなかった顧みられぬ者たち。
誰からも心配されず消えていった犠牲者たち。
利用されたあげく肉体を薪にされ、妄執の炎に魂を囚われ眠れなかった者たち。
あふれる〝思念〟は彼らがこの世に生きていたことを示す唯一の名残であった。
博士の妄執を映した炎で地下に押さえつけられ、きれぎれに封じられていた彼らの思念、魂は、炎という枷の消失によりようやく解き放たれたのであった。
解放された魂はどこへ向かうのだろう。
祖霊のひとつになると考えられている地域もあれば、これまでの生き方に応じて生まれ変わるとされる信仰もある。教会の典型的な教義においては、来たるべき審判の日まで長い眠りにつくのだとされている。
魂が天井に達したころ、はるか上で、どん、どん、と何かが二度大きく鳴り響いた。
何があったのかと楓が見上げても何らの変化は認められない。
地下炉から直結するビルの屋上が吹き飛んでいったのだが、地の底からでは確認できるはずもなかった。
ただ、屋上が消えたことで、空気の流れに変化が生じ、風が吹きこみはじめた。
その風に巻き上げられるようにして、灰かぶりの魂はさらに勢いを増して、高く、遠く、天へ昇っていく。
「あれを見て!」
市谷が叫ぶが、坂下は「どこをだい?」と不思議そうな顔をしている。
地下炉の上、中空を指さす市谷は明らかに楓と同じものを視ていた。
「ほら、一斉に昇って……」
「市谷さんには視えているのですか?」
「うん。楓姉ちゃんにも?」
「はい」
元来、子供にはこういうものが視えやすい。市谷が子供なのかどうかについては議論の余地があるが、歳を経るにつれ視えなくなっていくのが普通だ。
歳を取っても視えつづける者は巫女や霊媒者、あるいはそれに近しい職に就く。
もしくは視えるという事実から目を背け、誰にも打ち明けず普通に生きていく。
「坂下の兄貴には見えてないっぽいんだよな……」
「噴き上がる灰ならばしっかり見えているさ」
「いや、確かに灰だけどさ、灰に混じってこうぶわーっと、人の形をした魂みたいなのが」
「人の魂だって? 市谷くんにそういう才能があったとは驚きだよ。
別段に二人を小馬鹿にしたのではなく、単純に驚いているようであった。
楓が霊性存在について説明した際、坂下は『
となれば、彼が霊性存在を信じられる日はこれから先もないのだろう。
もっとも視えないのは個人が持って生まれた感性の問題である。
視えないからといってどうということはない。
昔から視える人の方が少数派であった。
――そういえば、坂下さんに地縛霊のお話をしたのがここに来るきっかけで
あの路地裏の霊性存在も地下炉に焼かれた者の魂だったのだろうか。
「ぃ、ぃひぃいぃ、お前たちはなんだ、来るな、くるなぁぁ!」
《猟奇博士》は怯え
「お、お前たちは我が
楓よりもずっと年上の彼にも視えているのだ、この灰かぶりの魂が。
それとも計画失敗と猟奇式の敗北が重なって錯乱してしまったのだろうか。
楓は左足を引きずって彼の後ろに立った。
「こっちに来るなぁ! はは、早く消えてしまえ!」
座りこんだまま逃げようとした背が背後に立つ楓にぶつかり、《猟奇博士》は
完全に腰を抜かしている。
「視えているのですね、あなたにも」
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