第二十二章『演目の終わり』1
「火床に空気を送りこんでいたふいごがビルの構造と一体化していたのでしょう。それを僕が壊したので建物が崩れはじめたのだと思われます」
すわ地震かと身構える楓に坂下が淡々と告げる。
天井の剥落や穴の
階層全体が低く長い
大穴となった〈地下炉〉を中心に、大小の亀裂がゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
土と破片が水のように浸食しはじめていた。床は波のようにうねり、砕け、細かな破片を撒き散らす。波止が波に呑まれるように、床の一部が土に呑まれていく。階層全体がゆっくり沈没していくようであった。
「早く出なきゃまずいよ!」
早くも階層の入り口に立っている市谷が手招きする。
楓には穴を挟んだ対角に立っている彼がとても遠くに見えた。
二人の間に立っていた坂下が地鳴りによろめき、咥えていた
「兄貴!」
「あぁ、心配しなくていい。それより市谷くんはそこから先に上がって、上のほうが崩れていないか確認してきてくれ。僕は《猟奇博士》と
「ぇ、ええ……」
こんなことなら馬乗り袴にしておくべきだったと後悔しても遅い。
無理くりに
部屋の真ん中に近い位置に立つ楓のそばには、手をついて支えにできるような壁や柱がなかった。慎重な足取りで進まなければならない。
おっかなびっくり一歩を踏み出そうとした楓の左足が何者かにいきなり
「にが、逃がさないぞ女!」
いつの間にか正気付いていた《猟奇博士》であった。
ほとんどしがみつかれるように掴まれた足首に猛烈な痛みが襲いかかり、楓はこらえきれず小さな声を漏らし、膝をついてしまった。
ずきずきとした痛みが全身を突き抜ける。
「に、逃がさないもなに、も……、坂下さんはあなたも救うと、あなたも出られるんですよ」
だからどうか足を引っ張らないでくださいと、痛苦に耐えながら楓が言う。
「奴は『連れ出す』といっただけだ。あいつは探偵だろう。あいつがわたしを連れだしても、わたしは罰を受ける」
「この期におよんでそんなことを言うのですか。あなたはもう十分に罪で穢れています。それならばこんな地下で生き埋めになるよりは外へ、命あっての物種じゃないですか」
「ない、もうわたしに命などない。地上に出てもわたしは死ぬ、殺されるっ!」
万事がうまくいくと思われた計画で、実際に途中まではその通りだった。
もう半歩で成功していた。
なのに、それらが今まさに音を立てて崩れ落ちていく。
そもそも独断で計画着手を早めてからの失敗である。
情状の余地などあろうはずがない。
「ここまで
《猟奇博士》には自分が助かる見込みがあるとは思えなかった。
炉は破壊され、その出力値を計測した装置も壊された可能性が高い。
いずれにせよこんな状況で記録を回収するのは不可能だ。
さらに《軍団卿》によって、いや、《軍団卿》なのかさえわからない男によって猟奇式人形までもが破壊されてしまった。失った人形も数知れない。
しかも調子に乗って幹部の《無銘道化師》も殺してしまっている。
ちょっとした独断から多大な損害を〈結社〉に与え、過失を積み重ね、あまつさえ探偵とともに生きて地上に出て、それで何になるというのか。
仮面越しにでもわかるほどの血走った
「お前にも、お前にも私の失敗を、この痛みをわからせてやる!」
彼女をどうにかしても積みあがった失敗は清算できない。
それでも彼は湧き上がる怒りを誰かにぶつけなければ気がすまなくなっていた。
もちろん誰でもよいわけではない。
怒りをぶつける相手は自分よりも弱くなければならない。
幸い目の前にはよくわからない女がいる。
怒りをぶつけるにはよい相手だった。
消えた炎のごとく湧き上がる怒りが、名さえ知らぬ女をとらえて離さない。
「ここか、ここを痛めているのだな! ほら、痛かろうが!」
博士がつかんだ足首をぐりぐりと
「南海さん!」
坂下が声をあげる。
崩れた煉瓦片がごろごろと降ってきてとても真っ直ぐ進める状況になかった。
「もっと叫べ! 泣いてすむものか! わたしの心はもっと痛いのだぞ」
楓は絶え間ない悲鳴と吐息と涙を洩らしながら、腕を振りほどこうと必死で足をばたつかせる。博士の顔面に何発か蹴りが命中すると、カエルが押し潰された時にあげそうな醜い悲鳴が絞りだされた。
「はぁ、はぁ、抵抗するな、いたい、痛いから痛めつけてやる! 死ぬ、死ね!」
忌み言葉の慣習に馴染んだ彼女にとって、直接的に「死ね」とぶつけられるのは、どんな恨み言よりも重い響きを持っていた。
どうにか起き上がった《猟奇博士》が空いた手で袴の裾をぐいと掴んだ。
楓は片耳をふさいだまま、袴がずり落ちないように必死で抑えこむ。
博士の手はびっくりするほど汗で濡れており、ぬめった肌を持つ水辺の生物のようだった。
楓はなんとか逃れようと、《猟奇博士》はけして逃すまいと、もみくちゃになりながら折り重なりあい、諸共に大穴の方へ転がっていく。
「はな、離してくださいっ!」
「離さいでか、連れて行く、おまえも地の底に!」
頭上から鋼材が降ってきて二人のそばに突き刺さった。
その鋼材を留めていた
その一瞬を楓は見逃さない。
死力を尽くして身をよじり、博士を振りほどく。
そうして四つん這いのまま、降ってくるものに注意を払いながら坂下の方へ。
足を
「ま、待たぬか……」
背中を丸めて追ってくる博士はもはや怖いものなしだ。
立ってはよろめきを繰り返しながら一気に追いすがってくる。
ある程度まで距離を縮めた《猟奇博士》が、楓の背中めがけて飛びかかる。
が、砕けた床に足を取られてしまい、半ば転ぶようにして彼女の隣に倒れこむ。
その際に慌てて伸ばした手が、長く垂れた女のもみあげを掴んだ。
こめかみをいきなり強く引っ張られた楓が絶叫する。
足が痛い、髪が痛い、肌も痛い、全身がくまなく痛い。
それでも穴の方へと引きずられそうになるのを辛うじて踏ん張る。
「お前だけでも道連れにぃぃいい!」
唾を吐き散らしながら《猟奇博士》も絶叫する。
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