第十八章『戦争を招くもの』2

 ――しかしあの老いぼれ、いったい何者であったのだ?

 老人が落ちた後も、猟奇博士はその者を思い出せないでいた。

 本当に〈地下炉〉建造に使役された者の中にいたのだろうか。

 道化師も消えたいま、もうそれを確認する手立てはどこにもない。


 その道化師が落ちた時と同じように、電光のようなまばゆい光が、ぱっ、ぱっ、と明滅する。

 光は黄金のように輝いて、壁に幻のような影を作りだす。

「うぬ、今まで薪を放り込んでもこのような現象は認められなかったが、まさか」

 光が収まると博士は小走りで部屋の奥へ向かった。

「あ、待ちやがれ!」

 市谷が慌てて銃を撃つ。

 道化師も老人もいなくなり、標的を博士だけに絞れた。

 しかし照準がまるであっておらず、弾丸は部屋の壁をえぐるばかりだ。

 急激な光の明滅の影響で視界がちかちかしており、うまく狙えないのであった。


「撃つな! 当たったらどうしてくれる。貴様らの相手はわたしではない!」

 叫びながら博士は部屋の奥の操作棹レバーを下げる。

 壁面いっぱいに何かの装置が据えつけられていた。

 装置の右側には人一人が乗れるくらいの小さな足踏み式の踏鞴たたらがゆっくりと上下しており、板の下から蒸気を吐き出している。

 装置から伸びた導管は機械の目盛りに直結しており、管のいくつかは喞筒ポンプがはめ込まれた部品を経由してさらに奥へ伸びていた。装置はときおり蒸気を吐き出し、計測器の針がそれに合わせて大きく反応する。筒と踏鞴が連動して蒸気を吐き出すたびに、炎は大きく揺れて殷々いんいんと轟音をとどろかせる。

 博士が操作けんをがちがち叩くと、装置に取り付けられた計器の針が上っていく。

 針は計器を振りほどきそうなほどがくがくと戦慄わなないている。

 円形の計針にいたっては狂った時計のようにぐるぐる激しく回転していた。

「おお、三千超えだと! 予測を上回る数値を叩きだすとは、さすがはわたしだ」

 したり顔の博士が懐中時計を取り出して時間を確認し、装置に何かを打ち込む。

「計測も間もなく終わる、憂いはない……、が、まだやらねばならぬことがある」

 炯々けいけいたる瞳が装置の目盛りから市谷と楓へと向けられた。

「人形どもよ! その二人を早く我が地下炉にくべてやれ!」

 博士の側にいた〈怯え〉が指示に従いぱっと動きだす。


 市谷がとっさに振り向いて、「離れてて楓姉ちゃん!」と、〈怯え〉に銃を向けた。

 すぐさま銃声が響く。


 楓は市谷の指示に従いながらも、自分が昨日までとはまったく違う世界に立ってしまっているのだと、今さらながらに感じずにはいられない。

 この巻き込まれた果ての世界で、

 ――私も鉄砲を撃つのだろうか

 自分が銃を、それも身を守るためとはいえ、望んで撃つのだろうか。

 楓とて人と人の争いや戦いといった醜い世界と無縁に生きてきたわけではない。

 だが、そんな世界でも銃を手にするような事態はついぞなかった。


 二重廻にじゅうまわしのに右手を差し入れる。

 蒸した熱気がただよう地下にあって、その鉄器は切り出された氷のようにひんやりとし、しっかとした存在感を放っている。

 その冷たさはさながら抜き身だ。

 しかし、と楓は思う。

 鉄砲は刃と違い、相手の血の熱さを感じさせてはくれまい。


 ――軍人だったおじいちゃんも、銃器や銃声に慣れ親しんでいたのだろうか。

 穏やかな祖父もこの冷たい武器で誰かを撃ったのだろうか

 撃ったのだとしたら、それは自分の意思だったのか、命令だったのか、我が身を守るためだったのか、あるいは誰かを守るためだったのか、はたまた怒りのためだったのか。

 楓はすぐにでも聞きたかった。


 ――自分は、怒りで人を撃つかもしれない……


 楓は二種の相反する怒りを宿らせていた。

 いずれも蝙蝠こうもり仮面への義憤に基づくふたつの怒り。

 人間を材料にしたと語った時には、雨漏りのような静かな怒りが滴々てきてきと体の芯からにじみでた。

 老人を突き飛ばさせてからは、瀑布ばくふのような猛烈な怒りがどっと溢れでた。

 そんな怒りを抱えながら、なおもとどまっていられたのは、彼女の精神が寛厚かんこうかつ忍耐強かったからである。抽象的に言い表せば、感情の湧出ゆうしゅつをたたえる湖が雄大だったからだ。

 しかしいま、怒りを浩々こうこうと受け止めてきた貯水量は限界に近く、湖より流れ出る河川は氾濫寸前であった。横溢おういつする怒気をどこへ放流すればよいのか。

 激情がゆっくりと、湖から溢れて河川へ流れだす。


 ――もしもおじいちゃんが怒りで銃を撃った経験があるのだとしたら、私も怒りで銃を撃つでしょうか。受け継いだ血の問題として、受け入れられるでしょうか


 楓はつかつかと〈喜色〉の前へ進みでた。

 乱れた詰襟の背高人形は腕を振り上げたままじっとしている。

 奇妙な呻き声も止まっていて、じっと彼女を見ている。

 銃を収めた二重廻しのおとしから、楓が手を差しぬく。


 ぱん、と小気味よく鳴る。

 講談師が釈台を叩くような音であった。


 振りぬかれた平手が真っ直ぐに伸びていた。

 太い眉を吊り上げ、唇もぐっと噛みしめ、潤んだ瞳で〈喜色〉をにらみつけている。


 ――や、血の問題ではない。私は、私です。銃を使わなくて済むのならば……


「うぅぅ……」

 痛みを感じたのか、〈喜色〉が呻きとも嗚咽ともつかぬ音を漏らしだす。

 大きく開いた覗き穴からの瞳は怒っているような、悔しがっているような、ないまぜの感情が読み取れた。いずれも仮面にあらわされた表情からは遠い。

 仮面と瞳が訴える感情は、途絶えない不気味な呻きと相乗して楓の心をざわつかせる。


 ――この仮面男には強い感情がある?

 楓は怒りながらも、怒りに呑まれないよう冷静に相手を見る。


 女を前に、〈喜色〉は膝立ちになってしまっていた。

「ええい! 女ごときに張り手を食わされるとは何をやっているのですか! 早く動かんか木偶でくぼう! それでもわたしの発明品か!」

 猟奇博士の指示ともいえぬ怒罵どばが飛ぶ。

 それでも〈喜色〉は動かない。


 代わりに楓が左足首を気遣いながら、白衣の男に近づいていく。

 すべての元凶は蝙蝠仮面だ。

 命令を聞いて従うだけの人形ではない。

「ひょぇっ、な、なんですか。わたしは直々にあなたの相手は――」

 右手を張り上げる。

「しませ――」


 言葉を裂いて小気味よい音が響く。


 楓の右手が振りぬかれていた。

 勢いのよい張り手は《猟奇博士》の顔を伸ばした腕と同じ方向に振り向かせた。

 博士の左頬がたちまち赤く腫れていく。

「ぃぃい、痛い! いたい! このわたしに何をぉ……」

「あなたは、最低です。良心が咎めないのですか?」

 そう言う楓のほうが、人をぶったという心の痛みで歔欷きょきしたいほどであった。

「……と、咎など科学の邁進まいしんには邪魔でしかないでしょう」


 思わず楓は振りきった手を戻し、手の甲ではたいていた。

 裏拳である。


「ぃぃだい、わた、わたしに二度も手をあげたな……、お、おんな、おんな女のくせにお前はこのわたしを――」

「女だから、なんだというのですか。関係のないことでしょう」

 奸悪かんあくには何を言っても無駄なのだろうか。

「科学とは、人を幸せにする学問ではないのですか」

 楓が拳をぐっと握ると、博士は「ひっ」と肩をすくませて恐れおののく。

「あなたのそれは私が知る科学ではないです。多くの人を犠牲にして成り立つそれは邪知なる科学、異端の学問です」


「異端だと?」

 かつて彼を追い出した学会も彼を指してそういった。

「言うに事欠いてわたしを異端だと?」

 異端の末学まつがくだ、と。

「しかも暴力で貴様の科学観を押し付け黙らせようというその魂胆、野蛮の一言に尽きる。その貴様がわたしを異端というかね。なるほど――」

 痛みの引かない頬をさすりながらよこしまな笑みを浮かべる。

「科学は人類を幸福にする? 科学と夢を重ねがちな現代人がいかにも好みそうなそんなお題目、言い古されていて手垢がついているくらいですよ。」

 楓の言葉を受けた《猟奇博士》は、かえって彼女を言い負かそうと発奮してしまった。

 ――何度ぶたれようとも、科学が暴力に屈してはならぬのだ!


「科学が人を幸せに? 確かにある一点ではそうかもしれない。しかしそれはどこまでいっても科学が持つ一側面でしかない。科学は争いを引き起こし、人を不幸にもする」

「それはあなたが悪用しようとしているから――」

《猟奇博士》が左手を突き出して楓を制する。

 さっと身構える楓だが、博士には腕力でどうこうしようとする意図はない。

 彼はこれまで他人に手を上げたことがなかった。

「科学に善も悪もあるものか。あるのは成果とそこにいたる過程だけだ。犠牲など過程の一部にすぎん。気にするほどのものではない」


「気にするほどの……、人を犠牲にしておいて、平然とそれを言うのですか」

 声を震わせ、楓は握った拳をさらに固く握りしめる。

 ――一発、や、二発でとどめないと、これ以上はただの暴力になってしまう

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