第十六章『並走する者たち』1
宵もふけてきた東部市の
遅い仕事帰りの個人。
次のカフェーを目指す若い集団。
当て
誰が誰に合わせるでもなし、それぞれが十分な歩幅でゆったりと行きかう。
帝都銀行や
そのほかの企業も明かりはほとんど点いていない。たまに消し忘れたように窓明かりがぽつぽつと漏れているが、その下には納期に追われるか残業代目当ての社員が残っているものだ。
この時間でも堂々と灯りが点いているのは警察署、新聞社といった眠らぬ業界か、カフェー、ミルクホール、玉撞き、玉打ちといった遊技場などに限られる。といっても表通りに近い遊興場はお行儀が良いもので、歓楽街や花街で営業している同業ほどの賑わいはない。
夜が深く染みた東部市の街路を長身の青年、坂下探偵が
素性を知らない者からすれば、咥え煙草の青年が夜更けの街を行くようにしか見えない。
そのさまは肩で風切る学生か、獲物を物色にきている堅気風の裏社会の中堅といった感じであるが、夜の東部市にあっては別段に珍しい存在ではないので誰も注意を払わない。
だから坂下に故意に近寄る者や、当たるか当たらないかのぎりぎり
青年探偵に近づく〝彼ら〟は残業帰りとおぼしき務め人、一杯ひっかけてきた酔客、夜になって動き出したルンペン、これから花街に繰り出そうという遊び人など背格好は様々だ。
そのいずれもが、やはりこの辺りでは珍しくない身なりをしている。
〝彼ら〟は坂下とのすれ違いざまに、何事か不明瞭な内容をぶつぶつとつぶやく。
ふとした独り言や酒精におぼれた者の戯れ言、あるいは世の中や社会に漠とした不平を感じている失職者や政治に不満を抱く反政府主義者の恨み言など、夜の街に種々の感情を吐き散らしているのだろうか。
そうした光景は珍しいものではない。
帝都はあらゆる人間を包有しているのだから。
畢竟するに〝彼ら〟は街にありふれた存在でしかなかった。
そんな中ですれ違った他人の顔をつぶさに覚えている者などいようか。
さて、坂下とその相手たちがぶつくさ言う内容をよく聞けば、
「ニシコ三、二、トブキタ四、イキ」
「了解」
「ニシコからオオテ、アミ」
「大手からミナミ、アミツメ」
「ニン三」
「継続」
こんなふうに事務的にささやきあっている。
いずれもきまって相手から発され、坂下がすぐに返すごく短いやり取りだ。
すれ違った相手はそのまま遠ざかっていったり、足早に坂下を追い越していったりと誰も立ち止まらない。中にはとてもやり取りをかわせるとは思えぬほどの勢いで駆け抜けていく者もいる。一方の坂下も歩速を保ったままで、口だけもそもそ動かしている。
〝彼ら〟はいずれも坂上および坂下、すなわち《軍団卿》の助手や協力者たちだ。
まとめて〈軍団〉と称されている。
そんな〝彼ら〟が口にしているのは独自の符丁であった。
きわめて短い時間――それこそ人がすれ違ったり追い抜いたりする程度の
もっともその最大の特徴は言葉よりも部外者に読まれるのを防ぐ発声法にあった。
少し離れたところで聞くと不明瞭で抑揚もないぼそぼそとした喋りにしか聞こえず、内容を聞き取るのはひどく困難だ。また近くを車が走ったり、他人が普通に喋っていたりする場合には、容易にかき消されてしまうほどに声量も絞られている。加えてよほど間近で見なければほとんど唇が動いていないようにも見える。
そのため〈軍団〉の符丁は聞き取りよりも発音の方が難しい。
いま交わされているやり取りにおいても、坂下に接触する者たちの大半は符丁の発声は完璧ではなかった。それでも二者間でやり取りが成立していたのは、坂下が符丁を完全に習得し、かつ的確に補っているからだ。聞く分には相手の話法の不足分を補足し、返す分には話者となる坂下が未熟な相手にもしっかりと内容を聞き取れるように発声する、という形で運用されていた。もしも坂下を介さないでやり取りをさせたら、きわめて難度の高い伝言となっているだろう。
ところで彼らは符丁を用いていったい何を伝えているのか。
先ほどのやり取りで示すと、
「ニシコ三、二、トブキタ四、イキ」は、
「
「了解」はそのまま、
「了解」
「ニシコからオオテ、アミ」は、
「西小路通から大手通方面に捜査網を張らせます」
「大手からミナミ、アミツメ」は、
「大手通から南に捜査網を狭めよ」
「ニン三」は、
「追跡している人形は三体」に対し、
「継続」は、
「監視を継続」
と、このようになる。
内容はいずれも人形の最新の動向とそれへの対応である。
街に散らばっている〈軍団〉の報告を現場指揮官である坂下に集約し、情報を受け取った彼は頭の中に入っている正確な帝都の地図と、実地で得た地図に載らない細かな裏道とを照らし合わせながら、報告時点での人形の位置を捕捉、それぞれに適切な返答をもって包囲網を最小人員で済む範囲まで縮めさせているのだ。
むろん現代において情報を伝えたい相手の所在が分かっている場合には、機関情報網や気送管などを用いるのが手っ取り早く正確である。
しかし坂下が一つ箇所に定まらず動いている現状においては、人間を使った伝言の申し送りがもっとも素早かった。
かつて
科学に満ちた〈蒸気都市〉帝都において、秘密の情報伝達が人を介するもっとも原始的な方法へ先祖返りしているのは皮肉なのかもしれない。
ところで報告すべき事態とそれを取り巻く環境は刻々と変移していく。
〈軍団〉が情報を送った時点と、坂下が報告を受けた時点では、当然その時間差による状況の変化が生じているし、発信元が遠ければ遠いほど大きい。また媒介が人間である以上、関係者に不慮不測の事態が発生して情報の伝送が途切れる事象が起こり得る。
そのため〈軍団〉は《
蜘蛛の巣を想像してみるとよい。たとえ一部の糸が切れても、全体には大きな影響が及ばないものだ。《網渡》の呼称自体、蜘蛛のように帝都中に張りめぐらされた情報網の上を渡っていく様子に由来している。
彼らこそ《軍団卿》が即応して構築する情報機動の
幸いいま彼らには何の異常も起こっていない。
――どの回路も正常に作用して……
そう思ってしまってから、坂下は彼ら助手や協力者の顔をつぶさに思い浮かべる。
――相手は人間だぞ! 回路なんかじゃない!
坂上のような冷徹な考えをいだいてしまったと嫌な気分になる。
彼女に言わせれば、〈軍団〉というのは自分を頭とする《軍団卿》という機関に組みこまれている重要な機構だという。といって彼女は〝彼ら〟をただの道具として見ているわけでもなく、その存在を前向きに肯定して感謝している。
しかしいくら感謝があろうとも、人間を機械のように考えるのはどうなのだろうか。
坂下は彼女の考えに賛同していなかった。それなのに、ときどき自分も坂上と同じような考えを抱いてしまっているのに気付き、そんな己に嫌悪することがしばしばあった。
――分かちがたい間柄として彼女に感化されているのだろうか
彼女と自分は不可分の存在だ。
そして彼女が嫌いなわけでもない。
だからといって全てを肯定しきれる相手でもない。
探偵であっても明快にわからないものが彼女との距離感だった。
そんな間にも様々な格好の《網渡》が坂下に近づいては離れていく。
いずれにせよ《軍団卿》の身体である〈軍団〉の正体は、帝都の各市中に散らばる無名探偵や名もなき市民の集団だ。
〝彼ら〟こそ帝都探偵協会の序列第三位、《軍団卿》神楽坂
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