第十五章『さらなる深み』3

   *


 階段を下りるたびに確実に熱気が強まっていく。

 明るさはいまや昼間のようで、まるで地底の世界へ迷い込んだようだ。

 下層へ降りていくためか、ますます深みへと進んでいるような錯覚をいだかせる。


 雄叫びのような音も近くなっている。

「この声は……、いったい何がひそんでいるのでしょうか」

「腹ペコの獣じゃないの」

「凶暴な四足しそくが飼われていると? 〈黄金の幻影の結社〉はそういったものも手なずけているのですか?」

「道化師もいるしさ、曲馬団みたいな連中だろ?」

 冗談で言った市谷だったが、楓が真剣に受け取ってしまったので、面白がってもう少しその方向で話を引っ張る。

 「四足に鉄砲で対応できるのでしょうか」

 市谷がふざけているのか真面目なのかわからない楓は疑問を呈する。

 といっても市谷に言われた、悪いほうに賭ける方法を実践したのではない。もともと後ろ向きな性根であるから、ことさら意識しないでも彼女はいつも悪いほうに考えがちなのであった。

「何が待ち構えていても手持ちの道具で対応しなきゃならないさ」

 あんまり暑いので楓は二重廻しを脱いで、拳銃を忍ばせた腰のおとしにいつでも手を入れられるようにして腕にかけて持つ。着るぶんには長く、肩から羽織っていると肩が凝る以外にはさほど気にならないのだが、手に持ってみると意外に重量がある。

「ま、獣にあったらあったで、俺に任せてくれよな」


 ――万が一にでも、撃つような事態にならなければよいですが


 楓のため息を耳ざとく聞き取った市谷は、

「大体さ、これは獣の声じゃないぜ」

「え?」

「ほら、上にいた時は『ごう、ごう』て、ときどき鳴ってただろ、あの地響きだよ」

 指摘されて、楓は音の調子が変わっていたのに初めて気付く。

「音と蒸し暑さと明るさを備えたやつがこの先、おそらくあそこで待ってる」

 指差す先、二人の視界の先に踊り場があり、広い階層への入り口が見えた。


「あそこに……」


 ひどく緊張していた楓は、おもむろに携帯缶を取り出して、数十粒の清涼剤をてのひらに取って一気に飲みこんだ。いきなり大量の丸薬を口にする楓に市谷は目をみはる。

「あの、楓姉ちゃん、それなに? やべぇ薬?」

「まさか! 生薬配合の懐中薬ですよ」

 論より証拠、と楓は市谷の手を強く握って缶を二、三回振り、手のひらに銀色の小さな粒を何十も出してみせてから、

「気つけ、腹痛止め、頭痛止め、気分転換の清涼剤にもなる万能薬ですよ。さ、がりっと一思いにどうぞ」

 高調気味に語り目をきらめかせる楓の吐息は薬臭い。臭ぇと直球を投げかけた市谷であったが、女性相手に言うにはあまりに失礼だとぐっと飲みこみ、

「本当にぃ?」

「口にすればわかります」

 まじめな面持ちで、楓はまた何十粒も口に入れてがりがりやっている。

「う」とひるんだ市谷だが、「ままよ!」と、勢いよく口に組んで噛み砕いた。

 が、すぐに、「うへぇ……」と苦味に顔をしかめて、ぺっぺっと苦みを吐きだす舌を出す。

 苦み消しの銀箔が剥がれ、中の鈍い代赭たいしゃ色が舌を染めていた。

「合う人と合わない人がいます」

「にしても楓姉ちゃんは飲みすぎ、いや、食いすぎの域だよそれ」

「これがないと落ち着けないんです」

 と珍しく自分を通す楓はさらに何十粒かを口に含む。

 市谷はあまり見ないようにして、「さ、それじゃ行こうか」と気を取り直した。


 そうして二人は地下に住まう巨人と相対する。


   *


 東部市の路地裏を黒い影たちがひた走る。

 彼らは瓦斯ガス灯の間を縫って進んでいた。

 さらにその先を薄汚い恰好の男が一人行く。

 男はけして速いとはいえぬ速力で、しかし影から一定の距離を保ったまま進んでいる。

 逃げ慣れているのだろうか、動きは滑らかだ。

 立ち止まらないように、右へ左へと通りを適当に切り替えながら前進していた。

 道ばたの路上生活者たちは、厄介ごとを抱えて逃げている風体の男から目を逸らし、関わり合いにならないよう道の際に体を押し付ける。触らぬ神に祟りなし。

 だから彼がつぶやいている内容は誰にも聞き取れなかった。


『〈叡智の間〉より接続、〈共鳴〉開始。……同調、〈扉〉の限定開扉を受諾――』


 感情はおろか、人間味すら感じられない淡々とした口吻こうふんであった。


『これより目標〈軍団〉との接触に向かいます』


 男はひとしきり呟いたあと少しだけ速度を上げる。

 それは他人がどう見ても、「ああ、このお年寄りはあの速度で走るのが限界なんだ」と思わせるのに最適な速さだった。

 後ろから追う影も同調して速度を保つ。


「〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を、〈扉〉を通じて端末に降臨を――」


 煤で黒ずんだつなぎを着用した老人は、蓄音機を再生するように同じ文言を同じ調子で繰り返す。感情も人間味もない、純然な音だけで構成された声韻だった。

 それは彼の意識とは関係のないところで繰り返され、口を通して発せられているものだ。

 彼自身の意識は、いかにすれば過去を取り戻せるかという一点にのみ向けられていた。


 かつて誇らしげに輝いていた〈黄金〉時代の再来。

 それを再び手にするために、彼は偉大なる意思に身を委ねたのだ。

 栄光は黄金の幻影のように揺らめいていた。

 幻影はあるいは余栄であったかもしれない。

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