第十三章『為すべきことは』5
「特高特高と……、俺は日進だ。別に覚えておかなくてもいいがな」
初めて楓と市谷に名乗った日進は不満げにつぶやいてから、
「使い方は分かってんだろうな?」
「もちのろんよ!」
「ふ、二人ともお、落ち突いて……」
二人ともなぜそろって銃を構えるのか。
ひとり状況を把握できぬ楓がなだめるが、
「反動は大きい、肩を外すなよ」
日進も銃口を相手に向けた。
二人とも確実に当てられるよう慎重に狙いを定めていく。
諸々の状況は目に入っているだろうに、人形は相変わらずその場に立ち尽くしたままである。明らかに不穏な動きが見えない距離でも暗さでもない。それでも動かないというのは、牢から出ないよう見続けろという指示以外は一切関知しないからなのだろうか。
その愚直さに気付いた楓は、いつか聞いた
初期の力織機は途中で糸が詰まったり絡まったりしても、織るという動作を愚直なまでに続けようとして余計に絡まり、
織るという役割にのみ従事して、自身を故障させる原因を取り除けない力織機と、牢の中で殺し合いが始まりそうになってもなお見張り続ける人形の姿が楓の中で重なる。
「ちょっとうるさいかもしれないから、耳でもふさいどいてくれよ姉ちゃん!」
「言う通りにするんだな」
耳をふさぐ間もなく、日進が、市谷が、立て続けに引き金を引く。
楓の全身を悪寒が駆け抜ける。
何かを感じる予兆だ。
直後、ちょっとどころではない銃声が鳴り響くのと、楓が叫ぶのはほぼ同時であった。
同時に彼女は自分の声に混じるかすかな断末魔を耳にした。
しかしいずれにせよ、巨大な反響音は楓の悲痛な叫びやかすかな声を易々と飲みこんで、地下の通路を轟き渡っていった。
*
どれだけ考えようとも《猟奇博士》は〈地下炉〉から逃げた者がいるなどとは思えなかった。《無銘道化師》のでっち上げなのではないか。
まったく覚えがない出来事を
揺らめく火影が
下層から上層まで炎を遮るものは何もない。
ぽっかりと口を開けた床の断面はぎざぎざで、あたかも巨大な獣にかじられたようだ。
人為的に短期間でくりぬいた、いや、突貫作業で床を破砕した跡だった。その証拠に博士の後方にはつるはしやら
下層はビルヂングの一階部分となる地表面を穿ち、さらに下へと続いている。
その最下部では業火が煙も発さず、ゆらり、ゆらりと風に吹かれる柳のように怪しく揺らめき唸る。この、地下にうずくまる炎の巨人が餌を欲するたびに、炎は勢いよく吹き上がり、腹の虫が鳴るように内部のあちこちに轟いて低く響く。
これこそが《猟奇博士》が自慢する〈地下炉〉であった。
炉を満足気に見つめながら、博士は慎重に記憶をたどる。
建造を担わせた人間はすべて燃え盛る巨人に喰わせたし、その際には一人残らず牢から炉へ連行させた。地上との搬入口となる廃ビルヂングの壁面は鋼板で幾重にも覆って厳重に封鎖し、入り口も固く
炉を建造する前からあった地下の横穴は、古くから存在する地下通路へつながっており、その先は果てしない迷宮になっている。外へ抜け出られそうな道といえばここしかないが、しかしその地下迷宮の全貌を知る者はいないだろう。一部の者に特定の経路が知られているようだが、少なくとも〈地下炉〉の箇所には誰も立ち入った形跡がなかった。もっとも念のため侵入防止の金網を張って対策は施している。
仮に逃亡者が外へ出る恐れがあるとすれば、固く封鎖されていない地下ぐらいだろう。
――浮浪者
しかし死に物狂いで抜け出して、という万に一つがあるかもしれない。
――その可能性は百歩譲って認めんでもない
認めるとして、道化師は逃亡者の存在を知りながら、なぜもっと早くに教えなかったのか。
いや、早々に捕らえて来なかったのか。確かに今は逃亡者を追って炉を出ている。
だが、その出がけに道化師はぬけぬけとこう言い放ったのである。
「さて、この逃亡者ですが、これより人形と共に迎えにあがり引き連れて参りましょう。猟奇閣下におかれましてはその間に炉の稼働性能を計測し、記録を進めていただきたく。まずはこれで第一の目標を達成。そしてあわよくば、おびき寄せた《軍団卿》閣下を材料にくべて首尾よく第二の目標も達成でございます」
最初から探偵をおびき寄せるつもりで見逃しつづけていたというのだろうか。だとすれば機密保持という観点から危険なことこの上ない処置、いや放置ではないか。〈地下炉〉計画の
博士の危疑はさらに深まる。
――道化師の人を食った態度などいまさらだが、それでわたしが痛い目にあうのだけは避けなければならない。やつの
博士の頬を汗がしたたり落ちていく。下層の温度はかなりの高温に達していた。南洲沿岸部の湿度の高い暑熱並だ。じめじめした地下通路の湿度のせいである。
額を、頬を、鼻筋を、汗が滴ってゆく。いらいらしているから暑いのか、暑いからいらいらしているのか、もはや彼自身にもわかりはしない。
内部にこうも熱が篭もるとは、と博士は熱の行き先を見上げる。
天井も床と同じようにくりぬいて、ビルヂングを筒のようにして丸ごと巨大な煙突として用いる方法も検討した。しかし上空から発見される恐れから当初案は破棄し、薄い鉄板と木材を左右から半分ずつ伸ばしあい、交互に薄く隙間を作り鎧戸のように仕上げ、最低限の熱と排気だけを行う方式に変更している。
この方式では鎧戸の隙間に空気がこもり断熱の役目を果たしてしまい、内部が蒸し焼きになるのではという懸念があったが、どうもそれが半分ほど的中してしまったらしい。本来ならば熱により暖められた空気が上昇、隙間から逃げて排熱できていたはずである。
組織の通達を無視して稼働時期を一年も早めた関係から、秘密
懐中時計を取り出す。
薪の投下時間が迫っている。
あと数回も投下すれば、炉は理論上の最大稼働値に達する見込みだ。それまでに探偵が来なければ、もっといえば邪魔が入らなければ、彼は〈結社〉から与えられた目的を達せられる。
独断で稼働を早めたとはいえ、目標そのものは忠実に守っている博士であった。
ただしそれは〈黄金の幻影の結社〉への忠誠心からではない。
とりあえず〈結社〉が示す目標さえ守っていれば、少なくとも組織の庇護下には置かれるだろうという、小心者ゆえの打算に基づく行動だ。
そんな彼だからこそ、道化師の介入によって目標達成が危ぶまれるのを恐れたのである。
――いまは炉に専念し、道化師が戻ってくるよりも早く〈地下炉〉計画の当初目標を完遂せねばならない
彼としては〈地下炉〉計画さえ達成してしまえば、探偵を倒すという道化師の思い付きはどうでもよかったし、逃亡者など捨て置いても構わなかった。
博士はまぶたを閉じ、その裏に〈地下炉〉が《時計塔》の巨大思考機関の演算を狂わせた未来を描く。それは目下の男の夢でもあった。その夢はいま、《時計塔》が冬の予測気温を外すという形で少しだけ叶えられている。
――この暖冬こそ我が〈地下炉〉の成果よ! それは見事に《時計塔》に影響を与えるにいたった!
すでに己の手がけたものが《時計塔》に影響を与えているのだという事実を前に、博士は暗い喜びにふける。新聞が大々的に報じ、世上がその話題で持ちきりにならないのは不満であるが、政府の上層部は《時計塔》の予測が外れたのを重大事と鑑みて、内々に〈東部市暖冬調査委員会〉なるものを組織して議論していると聞き及んでいる。
そうした事態はすべてこの私、《猟奇博士》がもたらしたのだと、彼はいますぐ全世界に向かって叫びたいほどであった。
――喜びに浸っている場合ではない、薪を投下せねば
彼は新しい薪がそろそろいい頃合いなのを思い出す。いまは道化師が招いた客人だか囚人だかがいるから投下はできないが、とそこまで考えて、彼は新たにひらめく。
――道化師が探偵を寄せる餌にするといったあの二人だが、たとえ《軍団卿》が来ようが来まいが、炉にくべてしまえばいいのではないか?
人質の肉声を聞かせるわけでもなし、生きている姿を見せるでもなし、探偵に取り返そうという目的をいだかせた時点で、つまりさらった段階ですでに餌としての役目は果たされたはずだ。
――そもそも人質が死んだとわかったところで、〈結社〉の計画を嗅ぎ取った碩学級探偵は動きを止めないだろう
仮に〈地下炉〉が探偵に阻止されるとして、その上で生かしておいた人質まで取り戻されるのは、およそ想定しうる中でも最悪の展開だ。それならば人質の探偵助手をさっさと始末して《軍団卿》の力を少しでも削いだほうが、成果は小さいがより確実ではないだろうか。
計画の成否にかかわらず、探偵助手は殺しておく。
効率を考えればこれがもっとも良いはずだ。
――わたしが《軍団卿》を始末できる確率よりも、あの助手を殺せる確率のほうが高いだろう。少しでも確実性がある方を選ぶのが賢明な人間ではないか。だいたいさっきは腐れ道化師に上手く丸め込まれてしまったが、人質としての役目ならばもう一人の女だけで十分ではないか?
そう考えてから博士は、いや、と強気に考え直す。
――あの女も殺してしまえばいい。そうだ! 助手も殺せ! 女も殺せ! みんな殺してしまえばいい! 道化師の思惑に乗る必要なんぞない
懐中時計の縁の金属はまだひんやりとしていた。
その時、彼ははたと気づく。
懐に入れていた鍵束がなくなっていることに。
鍵がないと、炉まで遠回りをしなければならない。
――あいつらッ!
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