第十四章『暗き翳りへ』1
遠くにいる
それほどの大音声であった。
楓の悪寒が収まるころには市谷が格子を開けていた。
その向こうでは
彼女はてっきり市谷と日進が口論の末に拳銃を持ち出して撃ちあうものと思って、それを止めさせようと叫んだのであるが、当の二人は一斉に檻の向こうの人形を撃ったのであった。
検死中――楓がいらぬことを考えている間――に二人で脱出の手はずまで示し合わせていたのだろう。心臓が止まるような思いをしたのは楓だけである。
「増援は来ないようだな」
「ああ、いまんところは」
日進と市谷はもう牢の外へ出ていた。楓も慌てて後に続く。
それで彼女も自然と人形だったものに近づく形となった。
二発の銃弾を顔面に受けた人形は、頭部がきれいさっぱり消し飛んでいた。
二重廻しを羽織った楓は肩に手を当てて、首から上がないそれを驚き顔で見つめる。何度も相対した経験のある市谷と日進からすれば見慣れている人形の末路だが、楓が目にするのはむろん初めてである。
「だ、大丈夫か姉ちゃん?」
市谷に肩を揺すられた楓ははっとして、
「あ、ご、ごめんなさい。その、さっき悲鳴が聞こえたものでして」
「自分の叫び声を聞き間違えたというわけではないのか?」
日進がいかにも楓を疑う口調で問う。
「いえ、断末魔のような――」
彼らには聞こえなかったのだろうか、人形が撃たれた瞬間にすぐ目の前から聞こえた絹を裂くような声を。現代風に言えば列車が急制動をかけたときに鳴り響く、車輪と軌道が火花を立てて激しくこすれあう
そしてその発生源は、
「ちょっと、楓姉ちゃん!」
楓は人形にさらに近づいて観察する。不意打ちの対面ではないのでさしもの楓も
火薬以外の臭いがしないのも大きい。現代の火薬は無臭であるが、特高隊員が使用する弾薬は発砲したのがわかるように、いまでも臭いや煙が出るものが支給されていた。拳銃の携行を許されている特高がいたずらに発砲して武威に訴えるのを防ぐため、あえて臭いを付けているのだ。権力の過剰な行使を抑制させる縛りの一環である。
さて、人形の頭部は跡形もなく消し飛んでいる。
断面は糊を均一に塗ったようにのっぺりしているが、かすかに黒く焦げた跡がある。
楓が銃声に驚き一瞬だけ目をつむった後にはもう首なしになっていた。拳銃の威力で吹き飛んだにしても、こうもきれいに消し飛ぶものだろうか。そもそも燭台の明かりが届く範囲のどこにも頭部の残骸が転がっていないのが奇妙だ。
人形が発する微弱な感情や気配は完全に途絶えている。
それをもって楓は、人形がすでにこの世のものではないと断じた。
当然ながら体はぴくりとも動かない。
そうして楓は気付く。あの歯車のような音も消えていることに。
人形が近くにいるときにはほぼ必ず耳にしていた〝かっちきん、かっちきん〟という、噛み合わせがずれたような歯車の、耳障りなあの音が人形の頭部と共に消えているのだ。あれはやはり人形が発生源なのだろうか。そう考えるのが自然な符合だった。
「あの、楓姉ちゃん?」
市谷が遠慮がちに呼びかける。
「楓姉ちゃんには悲鳴が聞こえたの?」
「そうです。それにこの方、首の部分はいったいどうなって……」
「そいつらの頭は――」
説明すべきか市谷は迷ったが、〈結社〉のことはすでに話してしまっている。
――それに特高の前で楓姉ちゃんに人形について説明すれば、姉ちゃんがなにも知らないって証拠を見せることにもなるかな
日進はそんなものが証拠になるかと言うかもしれない。
しかし少しでも楓の疑いを晴らせる可能性があるのならと市谷は口を開く。
「人形ってのは体に大きな衝撃や痛みを受けると頭が消し飛ぶ仕組みなのさ。膨らみすぎた風船みたいに、ボンってね」
両手で大きな円を作って「ボン」のところで手を開いて引き離す。
「はぁ」
そんなあっさりした説明を受けても楓は信じきれない。風船は破裂した後には被膜を残す。一方で人形の破裂は頭皮すら残っていない。どれほどすごい衝撃なのか。そんな器用な仕組みをこさえる技術があるのか。いろいろと疑問は尽きない。
「はぁ」
二度も同じようにうなずく楓の態度はとうてい得心したふうではなかった。もっとも市谷の言葉を確かめる術がないので追及もできない。また仮に詳細な仕組みを解説されたところで、やはりそれも難解すぎて彼女は理解できないだろう。
「それより姉ちゃんが聞いた悲鳴は通路のどっちから聞こえてきたの? それ、もしかしたらまだ生きてる人の悲鳴が聞こえてきたのかもしれない」
「生きている?」
どうも話がかみ合っていない。
楓が聞いた断末魔のようなものは、いま目の前に倒れている人形が発したものである。
もう生きてなどいない。しかし市谷は通路のどちらから聞こえたのかという。
――お二人にはあれが聞こえなかった?
銃声によって遮られたのかもしれない。ただし楓は銃を撃った二人の後ろにいてその悲鳴を聞いている。日進はどうなのだろうかと振り返ると、
「悲鳴など聞いてない」
にべなく一蹴される。
彼は同僚の遺骸から抜き取った銃を確認していた。
「そんなもんに興味はない。だがどちらから聞こえたのかには興味がある。おい、《猟奇博士》はどっちから来てどっちに向かった?」
そう言いながらまた牢の中に戻り、木製の長椅子を銃床で乱暴に砕きだす。
「本当に追うのかよ?」
「出るも追うも捜索するも、ここで二手に分かれたほうが効率的だ」
砕いた板きれを何本かに分けて、それぞれに同僚からはぎ取った衣服を巻き付けはじめる。
「それともお前たちが博士の消えた方へ向かうか? お前たちは人形が相手でも太刀打ちできないだろうに」
早く教えろと、作業を進めながら日進が急かすので、
「左だよ、牢から見て左。そっちから来てそっちに戻ってった。だから〈地下炉〉ってのもそっちにあんじゃねぇの?」と市谷も投げやりに答える。
「俺は一人で行く。そっちは二人、これで二組だ。炉に出たら大当たり、出口に行き着いたら当たり、行き止まりになってるか人形に出くわしたら外れだ」
「本当に行くのですか? こんなところで離れるのは危険ですよ」
「こいつに言っても無駄さ。こっから先はおれたちだけで行動しよう」
「俺が地上に出られたら応援はきっちり呼んでやる。〝ついで〟なんかじゃなくな」
日進が板切れに衣服を巻きつけて作ったのは即席のたいまつだった。油に浸していないので、燭台にかざしてもすぐに着火しない。じりじりと燻された末にようやく煙が上がり、遅れてゆっくりと炎が広がっていく。
「なんなら牢の中で大人しく救援を待っていてもいいんだぞ?」
「バカ野郎! 何のために出たと思ってんだ、自力でやらいでか!」
協力して牢を出たそばから、またすぐ売り言葉に買い言葉である。
「勝手にすればいい」
そう言って日進はいよいよ通路を進みはじめる。
「二丁は護身用に残しておいてやる」
それは彼なりの優しさなのか嫌味なのか、楓にはわからなかった。
背中越しのたいまつの薄明りが少し先で右へ寄ったかと思うと、ふっとかき消えた。角を曲がったのだろう。日進の姿は闇のかなたに消えてしまった。
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