第十一章『ようこそ我が〈地下炉〉へ』2
「迷惑なんて、そんな――」
嘘になるが、駆け寄ったのはほとんど反射的なものでもあった。
それらを迷惑とまで言い切られては楓も立つ瀬はない。
しかしそんな彼女にも看過できないものがある。
「と、ともかく、ほら、迷惑でもいいのでこっちを見てください」
懐紙を取り出し、頬についている汚いものを丁寧にぬぐう。
「市谷さんがいきなりあんなふうに食ってかかるのもどうかと思いますけれど、あの蝙蝠仮面もあんなに乱暴をしたあげくに唾を吐きかけるなんて――て、あの、市谷さん?」
楓が言葉を詰まらせる。間近で見る少年の視線が明らかに横へ逸らされていた。
迷惑は承知の上であったが、よもや口を聞くのさえ嫌だというのか。
「人の心配より先に自分の心配してくれ。その……、服とか」
落ちこみかけた矢先の指摘に、楓は慌てて背を向けて着衣の乱れを整える。
目覚めてから今までずっとそのままであった。
「すいません……、こんなはしたない恰好でずっと……」
「それは別にいいよ。けど変な気遣いはいらねぇからな」
ぶっきらぼうな言い方は彼なりの照れ隠しだろうか。それとも自意識過剰だからそう感じてしまうのだろうか。前者はいざ知らず、少なくとも後者の思いは否定できぬ楓であるが、続けて聞こえてきた、「だけどまあ、ありがと」との小さな響きだけは、頬をぬぐったお礼だと判断できた。女性のはしたない姿を見てお礼をいう男子など、彼女の世界には存在しないからだ。
市谷には「同情」で「迷惑」な行為だったのかもしれない。
だとしても、彼の口から紡がれたお礼は彼女を少しだけ勇気づけた。
もっともお礼になんと返してよいのかがわからないのが楓という女である。
どういたしまして、では上から目線な気がする。いいえ、は素っ気なさすぎる。当然のことです、は何様だという気がする。
「……私はこういうことしかできませんから」
悩んで絞り出した返答は卑屈に過ぎたか。
楓は人の顔色をうかがいすぎであった。それで勝手に感じた気まずさを紛らわせようと、彼女は気持ちの整理も落ち着かぬままに別のことを考えはじめる。
猟奇博士なる男は一味の頭領なのか。そこまではわからない。
けれど少なくとも地下にまつわる何かの責任者ではあるらしい。
他にわかったことといえば、猟奇博士には好感を持てそうにないという感情的な事実と、〈黄金の幻影の結社〉なる一味は容赦なく危害を加えてくるという現実だ。
――や、容赦なくというのは的確ではないかも
蝙蝠仮面は「無銘さえいなければ」と口にした。その口ぶりから察するに無銘道化師になんらかの制約を課されているのかもしれない。だとすると無銘道化師の立ち位置は蝙蝠仮面と同格、もしくは上位という図式が成り立つ。そういえば紙芝居に登場する悪の結社の規律は絶対で、上意下達の形態をとっていた。創作と現実を同じと見なすのは危険だが、もしも似た形態であるのならば、そうすぐには危害を加えられない可能性もありえる。
――や、楽観もいいところ
安堵のために繕った理屈など慢心の種だ。安んじていいわけがない。
時間的な猶予もあるのかさっぱり不明だ。
蝙蝠仮面は「すぐに目に焼き付けてもらう」と告げた。
すぐとはいつまでなのか。
目に焼き付けさせられるのは地下炉に違いないだろう。
そも地下炉とはどのような炉であるのか。
名は体を表すの通り地下にある炉なのだろう。
その名からこの牢もおそらく地下にあるという推測も成り立つ。
――〈黄金の幻影の結社〉という組織とはいったい
楓の疑問は憶測の
今後の行動に指針を立てるうえでも、知っておきたいことは多い。
憶測を重ねて無為に過ごしている場合ではなかった。
活路を見出すべく情報を得るべしと楓は奮起する。
「市谷さん」
「……んだよ?」
「〈黄金の幻影の結社〉というのはいったいどんな一味なのですか?」
猟奇博士の登場で棚ざらしになっていた質問を改めてぶつける。
「お願いします、教えてください。いまは少しでも情報が必要なんです」
切々と訴える楓の瞳は真っ直ぐで迷いがない。
やると腹をくくったのならばやる。
自決した態度にはためらいを持たないようにしてきたつもりだ。
――やると決めるまでが遅いと言われてきたけれど、いまならまだ間に合う、はず
市谷はしばらく黙っていたがやがて、
「……どこまで喋っていいのかがわからん。だからちょっと考える時間をくれ」
ちょっと考える時間と次に蝙蝠仮面が来るまでの時間。どちらが早いのか楓にはわからない。けれど市谷が考える時間のうちは黙って待とうと首を縦に振った。
静けさのなか、再び遠い地鳴りが耳に入るようになり、牢の中に
待つ間に楓は半長靴を脱ぎ、脚絆をほどき、足袋も脱ぐ。
足首が赤く腫れあがっていた。
痛みは引いているが、慣れと意識で隅へ追いやっていただけにすぎない。
こうして目にすると実際の痛みが足首を覆いだす。すぐにでも冷やすべきなのだが、ここは季節を錯覚しそうなほどに蒸し暑い。じっとり蒸れた半長靴の内側や足袋が臭いを放つ。
そんな場所にもひとつだけひんやりしたものがある。
手のひらで触れる床面はほとんど熱をもっていなかった。
患部を当てていれば少しはましになるだろうか。
膝を曲げて足首を床に押し当てようと楓が苦戦していると、
「それ、おれを避けようとしてだよな」
市谷がすまなそうに
「いいえ、これは私がとっさに避けられないほど鈍かったからです。赤くなっているのも、すぐ治療もせず私が無理をしたせいですし……」
あの場では敵への対応を優先する他はなかった。
それより次にどうするかが問題だ。
ここから出られるとして、激しい運動をしないですむだろうか。牢を脱するとなれば相手は当然追ってくると考えてよい。足を酷使する場面は避けられまい。となれば、いまは少しでも患部を冷やして痛みの緩和に努めなければならない。
そう予見した上で、「もしも」と楓は決意を口にする。
「もしも、このあと私が足手まといになるようでしたら、市谷さんだけでも逃げてくださいね。私の不注意で負った痛みで巻きこみたくはありませんから……」
路地裏で市谷にかばってもらったがために、二人とも生け捕りにされたのだ。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
「なんだよそれ」
市谷が声をとがらせたので、楓はついつい、「え?」と口にしてしまう。
「え? じゃねえよ、捕まったのは姉ちゃんのせいか? 足をくじいたのは姉ちゃんのせいか? 違うぞ。それは結果だ。原因は全部あいつらにあんだよ。でなきゃ姉ちゃんが足をくじくこともなかったし、服装がぐっちゃぐちゃになることもなかった。なのにそれを姉ちゃん、さっきからまるで自分が原因みてぇな口振りでよ、いらんことまで
「こ、これは癖のような――」
「癖だぁ? そんで自分が原因って言うのか? なんだよそれ、わっけわかんねぇ」
いままでこんなふうに言ってくる人はいなかった。
予想外の突っこみに楓はおろおろしてしまう。
「あ、相手に原因を求めてはいけないと、そう教えられてきました」
「それだけで自分が原因だと決めてないか? そりゃ行きすぎた考えってやつだろ。なんでもかんでも自分のせいにしろって、姉ちゃんはそう教えられたのか?」
「それ、は――」
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