第十一章『ようこそ我が〈地下炉〉へ』1

 床が硬い。

 肩や腰が痛い。

 脇の下もじめじめして不快だ。

 肘はひんやりする。床に直に接しているらしい。

 二重廻にじゅうまわしも脱がされているようだ。しかしいやに蒸し暑い。


 楓はまったく心地よくない感触の中で目覚めた。

 仰向けに寝かされていた。普段はうつぶせで眠るので、これも不快さの一因だろう。

 ――そもそも私はなぜ眠っていたのかしらん

 ときどき遠くから地響きが聞こえてくる。

 獣のうなりのようで、まるで腹の中にいるような気分にさせられる。音が聞こえるたびに視界がほのかに明るくなるものの、すぐさま弱まって暗がりに浸されてゆく。そんな心もとない明かりではあるが、それでもわずかに辺りが照らされる。

 まだ目覚めきらぬ薄目のまま、明るくなるたびじっくり周囲を観察する。

 天井は見通せない。高いからかそれとも暗いからか、あるいはどちらでもあるのか。

 右向こうには黒い棒が縦に数本並んでいた。

 実家にある座敷牢を想見そうけんさせる。

 そして反対には、

「ん、目ぇ覚めたか」

 坂下探偵の助手――市谷が床に座っていた。

 楓の意識はまだはっきりしないが、彼が遠慮がちに視線を投げかけているのがわかる。

 眠りから覚めたばかりの楓は、視認するまで彼がすぐそばにいるのにまるで気づかなかった。しかしその姿を認めるやいなや、寝起きの姿を異性に見られたという恥じらいが急速にこみあげてきて、半ば強制的に覚醒を促されてしまった。

 そうして慌てて上半身を起こした楓は、そこでようやく自分の体の状態に気付き、耳まで真っ赤にする。

 市谷の遠慮がちな視線の意味するところ。

 上衣はおろか、襦袢じゅばんの襟元までもが開きかけており、首筋から肩甲骨や胸元の肌が露わになっていた。袖は二の腕の上部までめくられている。道理で肘が直接床に当たっているわけだ。


 ――誰かに見られた? 誰かって誰? 誰でもいい、や、全然よくない

 楓は束の間の硬直から立ち返り、自分の体を何度かまさぐる。

 変なところはないか。変なところ、というのは彼女にもよくわかっていないのだが、ともかく変なところだと楓。

 ――寝ている間に見られた可能性を捨てるべきではない


 この間の彼女は無言である。

 わかりやすい悲鳴を上げる情動が楓に少しでもあれば、市谷も反応しやすかったであろう。が、残念ながら彼女はそういう性分ではない。驚きながらも事態についての対処や現状の分析を試みてしまうのだ。もっとも本人は冷静に分析しているつもりでも、その実混乱しながら行うものだから、結果としては変な方向にたどり着きがちであった。


 ――もしこの子に見られていれば……

 と楓はついつい市谷を見てしまう。

 一瞬だけ目があうが、彼はすぐ視線をそらして、

「もちろんおれは何もしてねぇかんな!」

「や、あなたを疑ったわけではけして……。わたしの不注意で、その、すいません」

 ことさら強く抗弁する少年を前に彼女は、いまの自分の視線だと相手を疑ったも同然であるのに気付いて謝る。

「それにあいつらも何もしてないと思う」

 謝罪を無視して市谷がぶっきらぼうに続ける。

「あいつらは極悪人だ。けれど、そんなことする連中じゃねえ。犯罪者相手にこういうのは変な話かもしれねえけど、そこは請け合ってもいいぜ。俺も目ぇ覚めた時は格好が乱れてたからな、あいつらに運ばれる途中でそうなったんだよ」

 その言いきりに楓は少なからず安堵する。少なくとも出まかせの嘘や慰めの色は感じられなかった。もしかしたら紳士協定のようなものでもあるのかもしれない。


 手さぐりで得られた〝変なところ〟は、ひねった足首の痛みだけだった。

 じくじくと芯から発せられる痛みと市谷の言葉で、楓は眠らされる前の情景を思い出す。

「彼らはいったい?」

 人形と呼ばれる黒い詰襟の仮面男たち。

 道化師と名乗る赤い燕尾服の仮面の男。

「たしか……、そう、〈黄金の幻影の結社〉」

 無銘道化師がそう口にしていた。

 もちろん楓は初めて耳にする名だ。

 楓の知識内で結社と呼ばれる犯罪者集団といえば、〈髑髏ドクロ団〉と〈怪奇団〉ぐらいである。どちらも祖母に内緒で祖父に連れられて見た紙芝居でなじみ深い悪の組織だ。むろん彼女は創作と現実の区別がつく年齢である。

「坂下さんやあなたは〈黄金の幻影の結社〉をご存じなのですね?」

 半ば確信をもった楓の問いに、市谷はため息をついて暗くて見えない天を仰ぐ。

 先ほどその口から『請け合う』という言葉が出て来たほどだ、探偵の側とは何度も衝突しているに違いない。そうした中で奇妙な信頼が生じたのだろう。部外者の楓にそう確信させるに十分な、市谷にとっては不用意な発言であった。

 ただそれ以上のことは、結社の人形と遭遇した時の記憶を再生してみても掴めそうにない。推量を重ねようにも手がかりはなく、すべてが想像の域を出ないからだ。なにがなにしてなんとやら、という芸能のように明快な筋や調子、展開があるわけもなく、これは紛れもない現実なのだと思い知らされる。

 市谷はなお黙ったままで、知っているとも知らないとも答えない。

 明瞭に答えたくないのか。そうだとしても、

「知っているのならば、教えていただけませんか?」

 これは楓にしてはひどく珍しい、正面きっての『お願い』だった。駅で出会った誰かのように、打ち解けた気になったのではない。普段の彼女ならば市谷の曖昧な態度を前にすれば、きっと言いたくない事情でもあるのだろう、と忖度そんたくしてたださなかっただろう。

 しかし今は自分もその事情に浸かっていると見なせる状態だ。たとえ市谷が答えたくないのだとしても、この件についてつまびらかな事情を知っておくべきだと抱懐ほうかいしていた。


 最初は駅でのとの出会いだった。

 むろんそれはきっかけで、原因ではない。

 ただ、その一件を契機に路地裏での一事につながり、そのために特高による聴取につながり、坂下と市谷との出会いにつながり、さらには彼らとの同行と協力が結社なる謎の一団の襲撃につながり……、なんとも錯雑としているではないか。

 最初の事態がたとえ巻き込まれたであったにせよ、その内情を不明瞭なまま没却ぼっきゃくしたために現在の状態に進展したのだろう。この上なお事態を仕方なしに受け入れていれば、次はいかなる場所へ放り込まれるかわかったものではない。

 そしていま、あの時にこうしていれば、この時にこうしていれば、という仮定にもはや意味はない。喫緊の問いかけは次にどうすべきかである。

 そのためにも〈黄金の幻影の結社〉なる一味を措定そていしなければならない。

「知っているのならば、教えてほしいのです」

 再びのお願いを受けても、市谷は黙したまま腕を組んでいる。

 無視しているようにも、何と言おうか彽徊ていかいしているようにも見えた。

「ここから出る方法を考えるにあたって、何か情報があれば私にも手伝えるかもしれません。何も知らないままでは、あまりにも打つ手が――」

「ここから出るですって?」

 楓の言葉を遮り、その背後からしわがれ声が投げかけられた。

 同時にあたりが薄明るくなる。

 もう一人近くにいたのだろうか。

 楓が振り返ると燭台を持った男が立っていた。

「現実的でないことは口にするものではありませんよ」

 すわ《無銘道化師》かと身構えた楓であるが、目の前の男からは道化師のような狂った調子が感じられない。ぼんやりと照らされる灯りの範囲で彼女が目にしたのは、白衣に袖を通さずに羽織り、鼻から上を覆う大仰な仮面をしている男であった。

 彼は片手を大きく広げる。


「ようこそ我が〈地下炉〉へ!」


 おそらく言いきったのであろうが、男のはっきりしない滑舌がそうは思わせなかった。またその声音も、汚水を滴らせたようなえもいわれぬ不快さを伴っていた。腐った池の臭気のような、まとわりつく気持ちの悪さだ。

「《猟奇博士》!」

 と市谷が飛びかかるが、間に檻がある安心感から相手はいっかな動じない。

「ふん、探偵付きの生意気なだけの小童こわっぱに、面倒な道化を介入させた招かれざる女め」

 吐き捨てるように言って、博士は燭台を掲げて二人を無遠慮に見回す。

「お前たちは本当に運がいい」

 灯りが掲げられた短い時間のうちに楓は手近な範囲を確認する。

 市谷が腰かけていたのは、壁面に横板を突き出させただけの簡易な長椅子だ。

 男の前には鉄の棒が等間隔ではめられており、市谷が両手でつかんでいる。横の間隔は三、四寸ほど、縦に七尺ほどの鉄格子は牢といって差し支えないだろう。先ほど楓は座敷牢を想見したが、当たらずとも遠からずといったところだ。

 ――そういえばこの蝙蝠コウモリ仮面の人は地下牢と言っていた

 と、これは『炉』を『牢』と聞き違えた楓の誤り。もっとも男の滑舌ではそう聞こえてしまっても無理はない。

 その蝙蝠をかたどった仮面の男――《猟奇博士》の鼻から上の顔はわからない。

 燭台の火が鼻息で不規則に揺れている。

「我ら黄金の幻影がお前たちの命を奪い去るなど造作もないのですが……、今宵は特別に趣向を変えて、この〈地下炉〉に招かれたことを光栄に思うのですね」

 その語調には恩着せがましさがありありと浮かんでいた。博士自身も無銘道化師からの一方的な計画変更はまだ受け入れがたいのであるが、それをどうにか呑もうと彼なりに努力した結果の言い方である。

「あなたも黄金の幻影の……」

「そう! いかにも!」

 楓の言葉尻をとらえた博士が嬉々としてうなずく。


「帝都の真なる闇、人々の恐怖の源泉にしてひれ伏すべき存在、〈黄金の幻影の結社〉が一柱《猟奇博士》とは我が名にして我が――」


「っるせぇ! 地下牢ってので何をする気なんだよ」

「人の名乗りを邪魔するな! 子供は礼儀を弁えんから困る! 黙っておれ」

 機嫌を損ねた博士は燭台を傾け、鉄格子をつかむ市谷の手に融けた蝋を垂らす。

 わずかに呻き声を漏らす市谷であったが、檻から手を離すどころか、その隙間からぬうっと伸ばして博士の袖を握って引き寄せようとするではないか。

「きええい! なぜ熱がらんのだ! 離さんか!」

 猟奇博士が市谷の手を払い落とそうとやっきになる。が、片手に燭台を持っているうえに格子が邪魔をして、博士自身も上手くこれをあしらえない。そればかりか逆に牢の側へ引きずり込まれようとしている有様だ。

「なにをするかって聞いてんだよおっさん!」

 激しく食い掛かる市谷の態度は尋常でない。楓が慌てて近寄るも、なんと声をかければよいのかがわからず、近くでおろおろするばかりであった。

「自分の立場もわからんのか小童め! 離せ、離さんか!」

「わからないから聞いてんだろうが! 地下牢ってのはなんだよ!」

 話がまるでかみ合わない。

 博士は相手の手を乱暴に殴ったりつねったりしているが、食いついたまま一行に離れようとしない。それどころか博士は確実に引き寄せられていた。腕力は市谷のほうが勝っていた。

「誰か! 誰かおらんのかぁ!」

 博士がとうとう悲痛な叫びを上げた。すると黒い詰襟の仮面男がどこからともなく飛んできて、さっと素早く市谷の手首をひねりあげた。

「うぅ」と小さく漏らして、その手がようやく博士から離れる。

「理性のない下劣なけだもの! 低能! 愚物!」

 博士が思いつく限りの罵詈を浴びせる。

 よほど強く握られているのか、それとも手首のつぼを的確におさえられているか、市谷の顔が苦痛にゆがんでいた。それでも瞳はなお猟奇博士を射抜いている。

「そ、そんな目でこのわたしが恐れると思うたか。無能道化師の筋書きさえなければ即刻〈地下炉〉にくべてやるものを!」

 憎々しげな言葉と共に市谷めがけて唾を吐く。

 唾液は少年の頬に不快な音を立てて命中した。

 各々の間には囚われた者、捕らえた者という絶対的な距離が檻という形で存在しているが、その実この距離は猟奇博士にとっても不本意なものといえた。

 ――檻さえなければ、いますぐにでも煮て焼いて捨てられるというのに!

 人形が市谷の手首を放すと、彼はその場に尻餅をつく。それを見て博士は少しだけ溜飲を下げ、「飢えた小猿め」と口調にいまひとつの落ち着きを取り戻す。

「地下牢ではなく〈地下炉〉、地下にある炉のことだ。あらゆるものを燃やす巨大な炎の口だよ。牢と炉の違いもわからんとは所詮しょせん探偵の助手だな。人間社会のごみ漁りめ」

 己の滑舌の悪さを棚に上げてたっぷり悪罵する。

「まあ、そう焦らんでもよい。すぐにでもいやというほど目に焼き付けさせてやるわ、《時計塔》の演算をも狂わせる偉大なる我が〈地下炉〉の姿をな。それまでは大人しくしておけ……、わたしは計測準備と〝薪〟の加工に忙しいのだ」

 ぶつくさ言いながら博士が近くの燭台に炎を分け与える。

「大丈夫だとは思うが、念のためこいつらが出ないように見ておけ。人形でもそれくらいできましょうね? ……はん、だんまりか。返事を期待したわたしが愚かだったわ。まったく、忙しいなか顔を見せに来てやったというにとんだ骨折り損だ」

 人形に二人を見張るよう暴言混じりに命じた博士が去って行く。

 指示にうんともすんとも言わなかった人形だけが牢の前に残った。


 かっちきん、かっちきん……


 ――この音はやはり仮面の人から?

 噛みあわない不快な歯車の音が牢の外から聞こえてくる。先ほど博士が来る前までは聞こえなかったもので、彼が去って仮面男が残ってから聞こえだしたものだ。

「くそ、あの野郎……」

「だ、大丈夫ですか。どこが痛むのですか」

 呻くように悪態をつく市谷に楓が寄り添い、腰をかがめて腕を取ろうとする。

「おれの事はいいんだよ、放っといてくれ」

 伸ばされた手を払いのけるように手首を軽く振って、

「安っぽい同情だろ、そういう気遣いなんて。かえって迷惑だぜ」

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