第八章『道化師哄笑す』2
「駆けっこでございますか。なるほどなるほど、冷えぬよう準備運動は必要ですな」
元きた方へと全速で走り抜ける楓に、道化師の声だけが追いかけてくる。
実際に彼女を追いはじめたのは〈喜び〉だった。
かちきん、かちきん……
坂下は市谷と合流せよといった。しかし仮面の男を前にして、楓と体躯の
間もなく三つ目の角に差しかかる。
走れども走れども、不気味なほど通行人とすれ違わない。
巨大な帝都の中にあって、皆が神隠しにでもあったかのようだった。
――いや、隠されたのは私の方で……
ひょっとすると市谷も消えているのではないだろうか。
気を揉ませる静寂の中、歯車の音だけがビルの谷間にしつこくこだまする。
音は後ろからも前からも聞こえてくるようで、相手との距離がつかみづらい。
――おそらく向こうのほうが早い。どこかで引き離さないと
楓が対策を講じはじめた矢先、前方の角に人の気配を感じた。
このままではぶつかると、いち早く気づいてとっさに身をひねった楓であるが、あまりにも突然で足さばきが追いつかず、足首に鈍い痛みを覚えた。それでも構わず、駆けてきた勢いをいくらか殺すため強引に受け身を取り、半ば転がるようにして路地に倒れこんで走るのを止めた。
対する先方も楓と逆にさっと身をかわし、すんで衝突は避けられた。
「ちょっ、姉ちゃん!」
角から飛び出してきたのは市谷だ。二人は図らずも行き会った。
姉ちゃんと呼ばれるたびむず痒くなる楓だが、いまはそれどころではない。
「立てる?」
目の前に差しだされた市谷の手を借りて立ち上がるが、足首が槌で打たれたようにずきずきと痛む。
「あ、ありがとうございます。仮面の一味に追われていて……」
「それ俺もだ!」
かちきん、かちきん
と、市谷がいた路地を仮面の男が一人こちらに向かって疾駆してくる。
「逃げよう!」
言うが早いか駆けだす市谷に楓も続こうとする。
が、足首の痛みが支配的すぎて思うように動かせない。
「何してんだよ! 早く!」
「わ、私のことはいいですから、市谷さんだけでも……」
「まさかさっきので足を? んなの放ってけるか」
楓の横に立った市谷は手にしていた小さな拳銃を、自分が来た路地に向けて構える。
続けて乾いた音が二回、不気味な歯車の音を一瞬だけかき消した。
直後、相手が倒れこむ。
「な、な、何を?」
「見りゃわかんだろ。時間稼ぎだ。いまのうちに早く逃げて」
「ひ、人を撃つなんて――」
楓は自分の置かれている状況も忘れて抗議の声をあげる。たとえ仮面の男がこちらに危害を加えようとしているのだとしても、銃で撃つのはやりすぎではないか。目の前であっさりと人が死ぬ光景は何度見ても慣れるものではない。
ところがなんと、撃たれたはずの仮面の男はむくりと起き上がって、再びこちらに向かって走りはじめたのだ。
「見たろ、この距離からの一発二発でどうにかなる相手じゃねぇんだよ! 姉ちゃんは自分を心配しな! でないと足手まといだよ。ほら、早く!」
と、さらに二発撃ちこむ。
はっきり足手まといと告げられ、楓はぐうの音も出ない。痛みをおして市谷より先に進まざるをえなかった。
「その足でどれだけ逃げられそうだ?」
「そ、そう長くはもちそうにないです……」
こういうときは気おくれせず、正直に申告するのがよいのを楓は知っていた。
左足首の痛みは一向に引かず、長時間逃げ回るのは厳しいだろう。
「早く兄貴と合流しないとまずいな」
「坂下さんも同じ状況で――」
「《軍団卿》閣下は現在お人形とお戯れで御座います」
楓の言葉がすぐ間近で発せられた高い声に打ち消される。隣に
「出やがったな!」
市谷が楓の前に立って拳銃を向ける。
「おぉ! 丸腰の者に向かって物騒なものを向けてくださいますな!」
浮世離れした格好の男は、おどけながら人差し指と親指を打ち鳴らす。
するとその背後から二人の男が現れた。仮面に浮かぶ表情は〈困り〉と〈悲しみ〉。
「もっともここまで放った弾丸は六発。替えの弾倉も先ほど一体を止めるのに使いきってございましょう?」
「替えくらい持ってらぁ!」
単なる強がりだった。そういうもので彼らの動揺は誘えない。
いきなり〈困り〉が突進し、体当たりを食らった少年が数歩分転がるが、これは先の楓と同じくいくらか受け流したからで、痛みは見た目の印象ほどではない。
「市谷さん!」
「ご安心を、お嬢さん。お命は頂戴いたしませんので」
奇妙な男の口の端が歪められ、形の良い歯型がくっきりと見える。
「なんであっても止めてください! なんでこんなことを……」
呼びかけられた仮面男たちが一斉に楓を見た。そこに先まで楓を追っていた〈喜び〉も追いついてきて、彼女を取り囲む輪に加わる。聞く耳をもたないらしい。
前に立ちはだかったのは〈喜び〉と〈困り〉だった。じりじりと迫る二人と一定の距離を保って
――前も後ろも挟まれた。かくなる上は……
足首の痛みを押し退けて、楓はゆっくりと腰を下ろして身構える。進んで傷つけたくはないが、なおもって相手が暴力に訴えるというのならば、自衛の力を
市谷はすでに〈悲しみ〉と衝突していた。少年助手は小柄な体躯を生かし、すばしっこく攻撃をよけながら、相手の攻撃の隙を見ては銃床で
「本当に止めていただけないのですね?」
「人形に話しかけても無駄でございます」
仮面の男に代わって道化師が口をはさむ。
「人形とは彼らのことですか?」
どう見ても人間ではないか。楓の疑問に道化師は口元に手を当てて、
「左様、彼らは哀れな人形。黄金の幻影、あるいは〈混沌なる黄金〉の輝きによって生じる〝暗黒〟に沈んだ者の末路なのです」
「まったく理解できません」
きっぱりと告げる。
そもそも彼女はこの《無銘道化師》なる男についてはおろか、〈黄金の幻影の結社〉についても何も知らないのだ。さらにこれ以上何かを付け加えられたところで、頭に入ろうはずがない。《無銘道化師》なる名は、碩学位が名乗る号を真似たのだろう、というわずかな推測くらいしか立たぬ。
「この方たちが人形だというのならば、あなたは一体なんなのですか?」
「この場では《名優》に与える試練の主、または
「そいつは極悪人だぜ! 構わなくていい!」
坂下と似たことを市谷が叫ぶ。
「準備運動はすでに済みましてございましょう、お嬢さん」
道化師の言葉に誘発されるようにして〈喜び〉が突進する。
楓はとっさに相手と自分の体の間に腕を交差させて差し挟み、衝突を和らげる。それでも後ろへ数歩押されこんでしまった。背後の壁にぶつかる寸前で壁を叩いて受け身を取るが、畳へのそれとまるで違う壁の固さに、眉も口も苦悶にゆがむ。手のひらの痛みが意識を冴えさせ、足首の痛みも少しばかり和らぐが、それでごまかしきれるほど甘いものでもなかった。
続けざまに〈困り〉が突進してくる。
――右か、いや、左か
どちらに避けるか少しためらったが、足首の負担を考えて右斜め前に跳ぼうとする。
しかしその判断のためらいが仇となり、〈困り〉がもう迫っていた。
あ、と思った時にはもう遅く、突き出された肩がまともに胸元にぶつかり、かっと熱い衝撃が走った。それが痛みだと気づく間もなく、楓の軽い体が後方へ倒れこむ。
反射的な受け身を取るが、胸や突いた手のひら、さらには足首から、たちまち全身に痛みが広がっていく。喘ぎこそしないものの表情は歪み、漏れる息で鼻の穴が大きくふくらむ。
そんな中でも楓はさらなる追撃を恐れ、すぐに何度か横に転がってから立ち上がる。
慌てて振り返れば、〈困り〉も同じように振り返るところであった。もう一人、〈喜び〉は背を丸めて顔を傾げたまま止まっている。まるで動力が切れた装置のようだ。
かちきん、かちきん、かちきん……
いつまでたっても耳障りな歯車の音が近くで聞こえる。
――この人たち、動きだしたら無駄がない……
人形と呼ばれる一味はなにかしらの戦闘訓練を積んでいると見てよいだろう。得物を手にしていないのと、どういうわけか連続で攻撃してこないのが
「姉ちゃん!」
「だ、大丈夫ですよ」
相手が繰り出す拳を避けながら叫ぶ市谷に応える。こんな時でも姉ちゃんと呼ばれるむず痒さがあった。むろんそんな感覚にかかずらっている時ではない。
――ここを切り抜けるには、相手の攻撃の合間をよく見ないと……
足の痛みがあるので、自ら積極的に仕掛けるのは得策ではない。
切り抜けるには防戦を軸にするのが妥当だ。
そう考え、先ほど自分が背にした壁の位置をはかってよろよろ動く。
逃げ場をふさぐ壁を、逆にひとつの盾に見立てようというのである。
「ほう、お嬢さんはなかなかよい感覚をお持ちで」
左手をゆったりと動かしながら道化師。全てを察しているかのような口ぶりであるが、「さて、なんのことでしょうか」と楓はしらをきった。
――仮面の男たちに気取られた?
道化師が彼らに楓の思惑を伝えてしまえば、窮地の彼女には他に打てる手がない。
「わたくしはお嬢さんを素直に褒めているのでございます。ただ、物は試し、成長は経験と感得の子と申しますからな。実地に試してみなければ何物の経験も積まれません」
楓の杞憂をよそに〈喜び〉と〈困り〉が再び前に立つ。
かちきん、かちきん……
――神経に触るような不気味な音は彼らからしているのだろうか
相手の出方をうかがう間、些細な考えがよぎる。
もとより確かめるすべはない。
〈困り〉が体当たりを仕掛けてくる。
さすがに三度目の攻撃では距離を詰めて、拳なり足なりに出方を変えてくるものと想定していた楓は、相手の愚直なまでに同じ攻撃方法に疑問をいだく。
――だって、体当たりを避けられれば壁に……
壁を軸にして右にかわす。
すると相手は楓の危惧した通り、速度を保ったまま正面から壁にぶち当たった。
続く〈喜び〉も同じように突進をはじめていた。正面に視線を据えたままの楓は、やはりこれを適度な距離を保って再び右にかわす。〈喜び〉はまるで〈困り〉と同じ状況を再現するかのように壁にぶつかり、勢いのあまり反動で弾き返されて尻餅をついた。
倒れこみ、
相手がかわせば壁があるという状況では、たとえ自分たちが優位に立っていようとも、いや、優位に立っているからこそ、失敗した時の痛手を恐れて体当たりなどしないはずだ。つい今しがたの場面は、じわじわと距離を縮めて同時に飛びかかれば最小の労力で済むところであった。
だからこそ楓は窮地と覚悟したわけである。
にもかかわらず、相手はこれまでと同じ方法に固執した。理由として考えられるのは、絶対に失敗しないという揺るがぬ自信があるか、はたまたこの者たちが普通ではないのか、だ。
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