第八章『道化師哄笑す』3

「壁にぶつかるかもしれないと分かっていて、どうして仕掛けたのですか? 私が辛うじて体当たりを避けられるというのは、すでにわかっていたはずです」

 物言わぬ相手であるが、それでも語りかけずにはいられなかった。

 相手が人である以上、言葉が通じる可能性を捨ててはならない。

「洋の東西を問わず、魂なき人形はただただ黙して語らずでございます。腹話術を通じて語ることもございますが、それも主の手による寂しい独り芝居」

 代わって語るのはやはり道化師。

 当の仮面男たちはいまだひくひくと小刻みに震えている。

「貴方の指示にしか従わないということですか」

 人形というのは悪質な喩えにすぎないと楓。

「その通りでございます。刻まれた表情と体の動きで感じるところを精妙に伝えられる、巧みな人形もありますが、出来が悪いのはそれさえもまっとうできません」

 道化師が左腕を振ると仮面の男たちが黙々と立ち上がり、今度は壁伝いに楓を挟む位置に陣取った。おそらく道化師は腕の動きを合図として、男たちに指示を与えているのだろう。その姿は彼自身も口にしたように、和州古来の傀儡師を連想させた。

 男たちは彼女に向かって左右から真っ直ぐ突進してくる。何も変わっていない。

「どうしてこう、同じことばかり――」

 繰り返すのですか、と口に出す前に壁を離れ前へ。

 余裕をもって距離をとれたのは、四度目で相手の速さに慣れたからだ。肩越しに見返すと〈喜び〉と〈困り〉が勢いよく衝突し、抱きつくようにして手足を纏綿てんめんさせて倒れこんでいた。

 その確認に気を取られてしまった楓は、思わず両足を使って着地してしまい、痛みに耐えかねてその場で膝を折った。

「壁を背にして後ろから攻撃されるのを防ぐ。同時にご自身が動ける方向も絞って避ける方向を限定、その分相手の出方に集中して後手に回っても対応できるようにする。機転はそれなりに効くようでございますが――」

 やはり道化師は楓が壁を背にした行動の意味するところを見抜いていたのだ。にもかかわらず、仮面の男たちに何も伝えず指示を飛ばしたのは一体いかな思惑であろうか。

「いや、実に見事に奏功いたしましたな。おめでとうございます」

 すぐ隣に、と意識した時にはすでに遅かった。

 道化師が屈んだ楓の鼻先で手をかざす。

 甘い芳香が鼻に付きまとい、意識の急激な狭まりが彼女を襲った。


 道化師はくずおれた楓を支えながら器用に手を打つ。

 閉幕を告げる乾いた拍手だ。

「姉ちゃん!」

 強制的に薄れゆく意識の中で、楓は辛うじて姉ちゃんと呼ばれるむず痒さを感じ取り、それを最後に気を失ってしまった。

「市谷様におかれましても、この場はお諦めくださいませ」

 楓が倒れて手の空いた二人の人形が市谷の包囲に加わる。

 弾倉を取り換える余裕などなかった。


   *


 坂下が到着したのは人形が楓と市谷を担ぎあげた直後だった。


「おや、《軍団卿》閣下。あちらのお相手はもうよろしいのですか?」

「ああ、君だって自分が操るのを止めた人形で僕を足止めできるなんて思っていないだろう。そんなことより彼女を巻き込むわけにはいかないんだ。市谷くんも返してもらう」

「一歩遅うございましたな。お嬢さんと市谷様はもうお預かりしました」

「君の退屈しのぎに付き合う気はない」

 進み出る坂下の前に〈困り〉〈悲しみ〉〈喜び〉が立ちはだかった。道化師が指を鳴らすと、〈悲しみ〉が屈んで飛びこみ、坂下の足首をつかんで引き留めようとする。

「離さないか!」

 と坂下が強引に胴を思い切り蹴飛ばす。

 その衝撃の強さといったら、〈悲しみ〉の手首が引き千切れるにとどまらず、勢い余った弾みで転がっていって壁に激突するほどであった。

 相当な痛み、いや、痛みどころの話ではあるまいに、相手はやはり叫ぶどころか、苦悶の声さえ上げず、なおもよろめきながら立ち上がろうとする。


 が、ついに痛みが限界に達したのか、すぐに膝をついた。


 すると、どうしたことか、その顔が硬質に見えた仮面もろとも風船のようにゆっくりと膨れあがり、あるところで、ぼふっ、と分厚い布団に鉄の棒を打ち付けるような鈍い音を立てて消し飛んだではないか。


 先ほどまで〈悲しみ〉だったものは首から上がなくなっていた。


 黒く焼け焦げた首の断面からは血が流れておらず、焼き切ったかのようだ。

 これはなにも〈悲しみ〉に限らない。先ほどまで坂下を足止めしていた人形たちも、いまでは同じように頭部がきれいに消し飛んで、首から上がなくなっている。

「さすがは《機関卿》閣下の好敵手! なんたる馬力でありましょうか」

 人形と呼ばれる詰襟姿の仮面男たちは、受けた痛みが一定の閾値いきちを超えると頭部が消し飛ぶよう、作り手に設定されているのであった。いかなる仕組みなのかは作り手しか把握していないが、その目的は機密保持のためといわれている。

「残り二体ですと、三十秒ほど足止めできれば上等でございましょうか」

「十秒だ」

 言いきる坂下に、道化師は冷笑を浮かべて背を向けた。


 かちきんかちきんかちきんかちきん……


 先ほどまではややゆったりしていた歯車の音が忙しない。楓が聞いていたそれよりも拍の間隔はずっと短くなっていた。わざとかみ合わないように仕組まれた歯車は、人形の動きを制御する機関の駆動音だ。音が早ければ早いほど人形の動きも機敏になる仕掛けなのである。

 坂下はいきなり〈喜び〉の首根っこをつかんで持ち上げ、〈困り〉に向かってぶん投げる。

 しかし〈困り〉はとっさにしゃがんで、飛んできた〈喜び〉をかわし、立ち上がる勢いを利用してあっという間に坂下に迫ってその胴にしがみついた。投げ飛ばされた〈困り〉も体をひねり、地についた両腕をバネのようにして飛び、もんどりをうって立ち直る。

 いずれも歯車の制御によって、楓を相手にしていた時とは異なり、動きに格段のきれがある。

「お嬢さんにはお嬢さんの、市谷様には市谷様の、そして《軍団卿》閣下には《軍団卿》閣下の、それぞれの難易度というものがございますからな」

 指を左右に振る道化師の背後、建物の暗がりからまた新たな人形が出てくる。彼らは仲間に加勢せず、転がされている楓と市谷を肩に抱えた。運搬役のようだ。


 坂下は両手を組み合わせて〈喜び〉に叩き下ろす。わずかに緩んだ拘束を振りほどこうとするが、すぐに駆け付けた〈困り〉が空いた側から胴にしがみつく。完全に足止めに徹していた。

 そして三人ともその場で止まってしまう。前へ出ようとする坂下と、押しとどめる人形の力が奇跡的な釣り合いを生みだしたのだ。

「くっ! 押して駄目なら引いてみろ、だ」

 力の均衡を崩され、人形たちが盛大につんのめる。

 坂下は人形と胴の間に生じた隙間に手を差し挟み、〈喜び〉と〈困り〉の体に腕を回して、左右それぞれにこれを持ち上げてしまった。

 俵のように抱えられた人形たちであるが、その手足がにわかに熱を帯びはじめる。そのわずかな温度の変化に坂下は気付かなかった。

「待ってもらうよ道化師」

「仰せのとおり十秒は待ちました」

 道化師は振り向きもせず、

「が、ここまでで十三秒、すでに時間切れでございます。わたくしの申し上げた三十秒であれば間に合いましたものを……、これ以上待ちはしませぬ」

 道化師が指を鳴らすと、坂下に抱えられた人形の手から、足から、体から、黒く染まった液体がどっと湧き出た。人形たちは手足をじたばたさせていたので、黒い液が飛び散って坂下に降りかかり、たちまち、しゅう、しゅう、と白煙を吹きはじめた。

 危険を感じた坂下がすぐに手を放とうする。


 が、黒い液体はすでに固まりはじめていて、人形が手から離れなかった。


「くっ、これは接着剤か」

「特製のにかわでございます。体温が高く、鼻の効かない《軍団卿》閣下におかれましては、煤煙を含んだ廃液や冷却水に見えたことでございましょう。身体に害は与えませんのでどうかご安心を。時間が経てば剥がれます」

「こんな小細工――」

 言いかけて、坂下が急にきこんだ。ごほごほと数度繰り返したあと、さらにしわぶきを詰まらせて、がはっ、とひときわ苦しそうに空気をこぼす。

「そのお身体と引き換えに《機関卿》閣下を退けたのでございましたな。いまの《軍団卿》閣下にとっては人形といえど軽い負担ではないのですから、無理は禁物でございます」

 その間にも人形は異様な量の白煙を上げて坂下の視界を染めていく。

「先ほども申しましたようにお二人はわたくしが責任を持ってお預かりします。どうかご安心のほどを。それでは、また遠からずお会いしましょう。くれぐれもご自愛くださいませ」

 譏笑きしょうの道化師は煙幕に閉ざされた舞台を降りた。


「困ったな」

 すでに動かない人形を引き離す坂下の声は、悠然としたものに戻っていた。

 先ほどまでの切迫した緊張はとっくにないが、むろん市谷や楓の救出を諦めたわけではない。《無銘道化師》の後を追うのが不可能に近いいま、頭を切り替えて他の手段を探るのが建設的だと断じたのだ。

 また、道化師は口にした約束は破らないことでも知られていた。

 もっとも彼は犯罪結社の一員。探偵がそれを過信するのも禁物である。


 坂下の顔は笑っておらず、くたびれ果てていた。

 ひとり思案しながら、煙草を取り出して咥える。

 連中はどこに潜んでいるのか。

 救出を第一に考えるならばどうするのがよいか。

 坂下は自分が取れる全ての権限と手段を検討していく。

 その上で、

「〈軍団〉を使うにしても、坂上さんに頼むしかないか……」

 人質がいる件ではあまり頼りたくない相棒の名をつぶやき、肩を落とす彼の足元で、


 かっち、きん、かっち、きん


 噛み合わせの悪い歯車がまだ鳴っていた。

〈喜び〉と〈困り〉の頭部からだ。


 かっち、きん……、かっち……きん


 次第に音は間隔を開けてゆっくりとしたものに変わっていき、


 かっち……きん、かっち――き――


 それも完全に止むと、人形の頭部が、ぼふっ、と消し飛んだ。

 夜の帳が下りる午後七時を告げる《時計塔》の鐘が、折よく鈍い音をかき消す。

 坂下の大きな咳もまた鐘の音に呑まれた。

 口を抑えた手のひらには黒いしぶきが散っている。

 随分がたがきたもんだ、と彼はしばらくそれをうれたげに見つめていた。

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