第一章『東部市中央駅』1

 都市の冬空はどんよりと曇っている。

 ひとえにこの街が吐きだす呼気のためである。


 初めて帝都の地を踏んだかえでを歓迎したのは、〈蒸気都市〉を体現する煤煙すすけむりだった。

 よどんだ彼らの熱烈な出迎えに、肺どころか脳髄まで煤けてしまうのではないかしらんと、痛くなった目元をぬぐう。煤混じりの涙は薄い墨汁のようだ。

 もっともこれは歩廊に降り立ったいましがたついた汚れではない。

 十日余りの長路ながちですっかり沁みついた汽車の煤煙ばいえんだ。列車に長く揺られていると、窓を閉め切っていても顔や手足が薄汚れてしまう。


 まずは顔を洗い口をすすがなければならない。

 歩廊の洗面台を探す楓は、再び帝都の薄暗い空を見上げ、だけど、とも思う。

 一日汽車に乗っていて浴びる煤煙と、一日帝都に居て浴びる煤煙では、はたしてどちらが多いのだろうか。もし後者ならば顔など洗わなくてもよいのかもしれない。どうせすぐに汚れてしまうのだから。

 しかし汽車を降りた後の洗顔はある種の手水ちょうずのようなもの。ひとつの儀式である。それを考えるといつも通りに振る舞うのがよさそうである。


 洗面台は歩廊の中ほどにあった。

 しかし楓は最初それを洗面台と認識できず、通り過ぎそうになってしまう。

 歩廊の洗面台というのは通常、用途のみを果たさせるため質素を旨として作られている。ところがこの洗面台ときたらどうか。

 水受けの鉢には獅子の浮彫が、鉢の中心から伸びる五角形の支柱には天を目指し舞うおおとりが彫り抜かれているではないか。鏡の額縁も蔦の文様でしっかり装飾されている。突き出た蛇口も装飾こそないものの金色をしている。

 たかが駅の洗面台なのになんとも豪勢なこしらえであった。

 楓はそこに帝都の威風を感じ取り、これまで胸の奥で沸々とたぎっていた昂ぶりがにわかに励起してくるのを覚えた。しかし彼女はすぐそれに身を任せず、蛇口におそるおそる手を伸ばして、そっとひねる。

 すぐ透明な水が出てくる。


 ――これが帝都の水!


 抑えていた昂奮がどっと噴き出す。嘆声と荒い鼻息が同時に漏れた。

 見た目には故郷の清水となんら変わりがない上水であるのに、高調して手で受ける。まだ帝都らしいものを見ていないにもかかわらず、楓は帝都に来たという事実だけで、たかが蛇口の水ひとつに舞い上がってしまっているのだ。

 そうした気分を鎮めたのは、やはり目の前の水であった。

 浮つきを戒める謹厳な真冬の冷水が熱をたちどころに奪い、黒ずんだ顔と紅潮していた頬がさっぱりと洗われていく。

 柄にもなく浮かれていた己への気恥ずかしさだけが後に残った。

 ――仕事で来ているのに、洗面台ひとつでこんなにはしゃいでしまって……

 稀の長い汽車旅と帝都に来たという事実で、つい我を忘れてしまっていた。

 社会的にはもうそんな齢ではない、という自覚が彼女をいっそう恥じ入らせる。


 ちょうどその時、甲高い笛の音が歩廊に響いた。

 楓をはるか東の地より運んできた汽車がいましも発車するところであった。

 極東地方の中原なかはらよりここ、帝都の東部市中央停車場まで楓を運んできた夜汽車の名は『旭』。朝の日は東の地より出ずる。帝都と東方を結ぶことに由来した愛称だ。

 もっとも帝都内にあって空は曇り、当のお日様は仰ぐべくもない。その輝かしい姿を楓が最後に見たのは国境となる〈城壁〉をくぐる前だ。


 笛を吹いた駅務助役がついで発車ベルを打ち鳴らす。

 終点の帝都中央停車場へ向けて、もうひと走りとばかりに汽車が激しく噴煙を上げた。

 十日あまりを共にした楓に名残を惜しむようにして、ゆっくりと走りだす。

 鉄輪から削れる鉄粉の臭いがかすかにたちこめる。

 牽引される客車が次々に引っ張られはじめ、おもむろに速力をあげて駆け去っていく。

 旭日が描かれた後尾板が遠ざかるのを見届けながら、楓は一抹の郷愁を覚えた。

 しばらくあのような夜汽車には乗れないだろう。帝都の滞在期間は短くないと聞いている。

 歩廊には次の列車を待つ人々がちらほらいた。一方で楓と同じ列車から降りた人々はとっくにいなくなっていた。列車が着いてすぐのうちは出迎えに来た人と談笑などしていたのだが、十分の停車時間のうちにとうに場所を変えてしまったようだ。

 世話になった列車が自分を置いて走り去る姿に旅情を覚えたりはしないのだろうか。

 楓は侘しくなるのであった。



 現在の時刻は午後三時ちょっと前。約束の午後五時にはまだ余裕がある。

 楓は約束の時間までの行動を特に思い定めていなかった。

 目的の場所は駅から遠くないと聞いている。ならばいくらか帝都を物見して時間を潰してみるのもいい。身軽なので行動の幅は広い。重荷となる大きな旅行鞄は事前の手配通り、列車の到着後に赤帽と運送業者によって一足先に目的地まで運ばれている。

 初めての街、しかも大都会であることを鑑みて、早めに出向いてみるのもよいかもしれない。遅刻をしてしまうよりはずっといい。

 そうした諸々を思案しつつ、構内を物珍しそうにきょろきょろと見回しながら改札に向かって歩く楓は、いかにもおのぼりさん然としている。

 そんな彼女は身長五尺ちょっとの背丈に、肩幅の広い大きな二重にじゅうまわしというちぐはぐな出で立ちをしていた。下に何を着ているのかほとんど見えず、まるで外套に着られているような恰好をしているので、人々がちらりと見てすぐに顔を逸らす。

 もっとも本人は周りを見てばかりでそれに気づいていない。

 ぶかぶかな二重廻しは、孫の門出の祝いにと祖父からの贈りものだ。年老いてなお魁偉かいい な祖父と楓との身長差は実に一尺以上となる。裾は大幅に切り詰めてあるものの、それでも着られているという印象はぬぐえない。

 もとは帝國ていこく陸軍で大佐まで務めあげた祖父が現役時代に着ていたもので、重ねられた当て布や荒い縫い跡が裏地のあちこちに残っていた。祖父の言によれば銃傷や刀傷、枝きれやつぶてによる裂け目などを縫い合わせた名誉の傷痕だという。

 こうした修繕の痕を抜きにすれば、六十年近い代物にしては着くずれせずがっしりしている。軍需品だからか、あるいは単に保存状態がよかっただけなのか。いずれにせよ心強い。


 歩廊の柱にはめられた姿見に、ふと楓の身が映る。

 鏡の中の彼女の口はしっかり閉ざされ、表情もやや強張っている。愛嬌とは縁遠いいつもの顔であるが、今はそれ以上に硬くなっていた。いっときばかり洗面台ではしゃぎはしたものの、初めての帝都という緊張と不安が心を占めているからだ。

 見知らぬ人。

 訪れたことのない場所。

 容赦のない煤煙。

 もともとは同じ国であったから言語こそ通じれども、汽車で十日もかかる遠い異国の地だ。異邦人としてこれから上手くやっていけるだろうか。

 短くても二年は赴任してもらう予定だと、そんな風聞を耳にしていた。

 ――不安よりも期待を強く持たなくちゃいけないのに

 これではいけないと、楓は清涼剤を口に含む。

 小さな銀色の粒からあふれる苦みが口中をすっきりとさせる。

 むろんそんなもので懸念など晴れないが、鈍くなり、いつしか止まっていた足が再び動きだす。

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