第一章『東部市中央駅』2

 改札を抜けた楓はふいに巨大な音に包まれた。

 比喩ではなく、実際に五臓をも震わせる重厚な響きが、耳ばかりか肉体すべてに刻みこまれていく。悠遠に響きわたろうかというそれは、地の底に潜むといわれるりゅうが、九天全てにその存在を轟かせるべく発するうなりのようだ。

 楓は己の体が戦慄わなないているのに気づいた。

 巨大な響きに同調しているだけではない。先ほどまでの単純な緊張によるものとは質を異にした、厳かな震えがその身を駆けめぐっていく。まるで何者かに所作を見つめられているかのように気が張り詰めてしまっていた。職業柄そういうものには敏感だ。

 周囲を見回しても怪しい視線は見当たらない。

 漠然と見られているように感じるが、考えすぎか思い過ごしだろう。

 やはり初めての帝都という状況に気疲れしているだけなのかもしれない。


 ――こんなことでは先が思いやられる。気分を切り換えなければ


 と天井を見上げる。駅舎内広場の屋根は半球状になっている。どこに鐘が据え付けられているのだろう。目を凝らしても、天頂部にはまど がぽっかりと口を開けているばかりだ。煤に傷めつけられた頼りない光の筋が、周囲に設置された五枚のステンドグラスを薄明るく染めながらゆっくりと降っている。

 ステンドグラスには楓が知っている図柄が表されていた。

 一枚目の『開闢かいびゃく』にはじまり『てんかくじょう』、『神人カミ、ヒト宰領さいりょうス』、『宝ヲ賜フ』と続く、いわゆる中央神話の主要な場面で、『神代じんだい』から『人代じんだい』への変遷を示すものだ。

 しかし五枚目の図柄だけは、楓の知識に思い当たる箇所がなかった。

 なにやら巨大な目を持つ柱が伸びて、その頂から光のようなものが発されている。

 いったいどの場面を描いたものだろうか。しかつめらしい顔で中央神話を最初から思い返していると、嚠喨りゅうりょう たる鐘の音がもうひとつ、ふたつと鳴った。まるでじっくり聞かせるかのように落ちてくる。

 楓の意識が再び音の出所に向く。音は確かに頭上から聞こえてくる。

 鐘は一体いずこにあるのか。

「表へ出てみるとようわかります」

 にらむように屋根を見つめる女に声をかける者がある。待ち合いの椅子に深々と腰をかけたルンペン帽のお年寄りであった。楓は人のよさそうな老人に黙礼をしてから、言われた通りに駅舎から一歩を踏みだす。

 するとどうか、先まで全身で感じられていた響きがぎゅっと一点に凝集し、楓の眼前に迫ってくるではないか。

 鐘がどこにあるのか。

 どこから聞こえているのか。


 楓はその出所をはっきりと見据える。

 駅の西方、はるかかなたに巨大な塔がそびえ立っていた。


 ――噂には聞いていた、あれが帝都の象徴……


 塔は煤煙まみれの空にあってなお目立つ青々しい錐体をいただき、すぐ下には大鐘楼を蔵した、四方を向いたやや黄味がかった象牙色の時計盤を抱えこんでいる。さらには下部へ向かって延びる赤焦げた煉瓦レンガ塔と、楓からは見えないが基部となる元宮城きゅうじょうがつづく。

 下部へ向かって、というのはおかしな表現だが、この塔は上へいくほど太くなっていくように錯覚する造りをしていた。そのためまるで塔が屋根にあたる錐体を核として発生し、あたかも天から地へ根をおろしたように感じられるのだ。

 塔からは何本もの煙突や蒸気管が生えており、そのすべてから絶え間なく煤煙と蒸気を濛々もうもうと吐きだして帝都の空を曇天に染めあげている。


 この威容こそ〈蒸気都市〉帝都の象徴、豪然と立つ巨大思考機関《時計塔》であった。


 その姿を間近で初めての当たりにする来訪者は、突き出した何本もの管のために、端厳な塔の輪郭が損なわれていると感じるだろう。

 楓も似たような感慨をいだいていた。槍やら剣やらを突き刺され、大地に突き立てられた生贄のようなその姿に少しだけ寒気を覚える。

 同時に天を貫かんとするその姿を見て、楓の脳裡のうりでステンドグラスの五枚目の絵柄が重ねられた。もしやあれは時計塔を神話風に描いたものなのだろうか。ただステンドグラスでは棒状であったのが気にかかった。

 もっともそれは絵柄として落とし込むための省略でもあるし、東部市中央駅のような遠方から見れば、《時計塔》から突きだす煙突や蒸気管などとても目に入らない。


 そう、遠方から見れば《時計塔》の細かな外見までわかりはしないのだ。

 なのに彼女はその姿をしっかり観察してしまっている。

 そもそも初めて帝都を訪れる彼女は知らなかった。

 通常ならばここ、東部市の中央駅から《時計塔》など見えないことを。

 とまれ楓は、蒸気煤煙のかなたにしるく浮かぶ《時計塔》を認めた。

 認めてしまった。

 それが自分の人生を変えていくとも知らずに。


 午後三時に鳴る都合十五度の鐘の音はすでに打ち止められていたが、《時計塔》の姿と共になお楓の心身を捉えて離さなかった。響きの余韻がいまだ揺曳ようえいし、つま先から頭の先まで体の内外うちそとを問わず伝い、駆けめぐる。

「《時計塔》の響きはいかがでしたかいのう」

 そんな楓にすっと語りかけたのは、外へ出るといいとの助言を与えた老人だった。いつのまにか隣に立って共に《時計塔》を見ている。

 くすんだつなぎを着た老人に楓は、「はい、ですが――」と問いかけようとした。

 しかしすぐにお礼を言っていないのに気付き、慌てて、

「すいません。あのような壮大な響きは初めて耳にしました。それに時計塔も見られました。ご助言をいただきありがとうございます」

「あれぐらい構わんよ。それよりもどうぞ言いかけた先を続けてくれるかの」

「はい。ですが、なぜ駅舎の内と外では聞こえる位置が違っているのでしょうか」

「駅舎の頂に穴が開いているのはおわかりになりましたかの」

「はい。天頂のステンドグラスに囲まれた部分ですね」

 老人はぼさぼさに伸びた黒いあごひげを撫でながら、「うむ」と短くうなずいて、

「その部分が風穴となっておりましての、そこから時計塔の鐘の音が入ってくるわけじゃ。で、屋根は下へ向かって裾野が広がっておってな、それが拡声器のごとき役目を果たして音を増幅させておる。じゃから駅舎内では頭上から音がぐわぁぉん! と、落ちてくる。ステンドグラスも鐘の響きに共振する構造になっておりますよって、鐘の振動はますます増幅されるという具合でな」

 老人の説明に感心しきった楓は、「へぇ」と間の抜けた声をあげてしまう。

「もっと先進的な機械の仕組み、たとえばなんらかの装置を用いて巨大な音を生みだして送りこんでいるのかと考えていました」とまで口にしてから、楓は言いすぎたと思って、

「ぁ、その、けしてちゃちだとか、そういうつもりではないのですが……」

「帝都は世界でもっとも蒸気機関による発展を遂げた都市と謳われておるからの、細かい仕組みにまで蒸気機関が絡んでおると思っても無理はない。もっとも鐘そのものは定圧の蒸気仕込みで鳴っておるから、けして蒸気機関を用いておらぬというわけでもない」

 説明する口調にはまったく気にした素振りもなく、ありのままに事象を明かしているというふうである。

 そんな老人の態度が楓には意想外であった。


 彼女は祖父母も含めて、概してお年寄りに苦手意識を持っている。

 というのもお年寄りは自分の最盛期を基準に物事をはかる傾向が多かれ少なかれあって、その基準が世の道理であるかのごとく説く一面を持っているからだ。ややもすると若者を乏しめかねないこの側面は、つまるところ「いまの若い者は」、「俺たちが若いころは」という紋切型の言説に凝縮されていよう。たといそれが世の習いであったとしても、いつの世も若い世代は老人のこうした言葉を口うるさいと感じてしまう。

 ところが楓は、横に並び立つ老人からそういった嫌らしさをまるで感じなかった。

 初めての帝都は彼女に容赦なく煤を吹きかけたが、それをぬぐう際に老人への苦手意識をも払わせたのかもしれない。

「ふむ、年寄りが長々と時間を取らせてすまなかったのう」

 と去ろうとするその背に名残惜しさを覚えた楓は、

「もし……、そつ ながらお待ちの汽車まで時間はおありでしょうか。もう少し帝都の話をお聞かせ願いたいのですが」

 約束の時間までどうしよう、という意識もそぞろに声をかけていた。

 彼女にしては非常に珍しい行動であった。

 自ら人を誘うなどこれまでに片手で数えるほどしかない彼女であるが、この老人とはなんだかすっかり打ち解けた気になっていたのである。もしも普段の楓を知る者が見れば熱病を疑ったやもしれぬ。

 老人は快く誘いに応じた。


    *


 かっちきん、かっちきん

 奇妙な音が路地裏に響く。それに混ざっていくらかの怒声がする。

「そっちに五体行ったぞ!」

「迎え撃ちます!」

 続いて、ぱん、ぱん、と乾いた銃声が鳴り、奇妙な音が遠ざかっていく。

 帝都で暗躍する者と、それを阻む者。

 両者の攻防は時間にしてものの一分にも満たなかった。

「三体取り逃がしました!」

「ばか野郎! 取り逃がしたじゃすまねえぞ!」

 男の報告に怒号が飛ぶ。

「怒ってる場合じゃないよ! 俺が追うからあとから追跡かけてくれ」

「おい、待て市谷いちがや!」

「あいつらが逃げてる間に人に出くわしたらなにがあるかわかんねぇ!」

 別の声がそういって奇妙な音が遠ざかったほうへ駆けて行く。

 この取り逃がしが楓を引きずりこんでいくとは、誰も知りはしなかった。


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