第4話:雅典女学園大炎上

 翌日、自分は大きな門の前で突っ立っている。

 ダンテの地獄の門かと思わんばかりの威容を放っており、屈強な警備員の人が脇を固めて万全の体制である。


「……お待たせしました、荒野 歩さん。アポイントの確認が取れましたので警備棟にお入りください」


 あ、門の前にある大きな建物って雅典女学園じゃなくてただの詰め所だったんですね。

 いやーすごいなー、何人くらいいるんだろうなー。

 ……やましいことはないけど超怖い。


「こちらでは持ち物などの検査を行わせていただきます。危険物やこちらが持ち込み不可と判断したものは預からせていただきます」


 そう言って持ってきた仕事道具が入れてあるトランクケースを開け、一つ一つを確認していく。

 そしてその全てが"不可"と書かれた箱に入れられていく。

 ゴミ袋やダクトテープもダメらしい。

 そしてその間に自分は金属探知機で他に何か持っていないかチェックされている。

 お嬢様学校と言われるだけあって、荷物の持ち込みすら厳しい。


「持ち込まれた手荷物につきましてはこちらで預からせていただき、お帰りの際にお返しいたします。それでは臨時IDカードを発行いたしましたので、必ずこれを身に付けておいてください」


 わーい、ぼくIDカード見るのはじめてー。

 ……ホテルとかじゃないのに必要なんだね、ほんとここセキュリティ意識高すぎじゃない?


「IDカードを紛失された場合は扉が開かなくなります。それと、カードが見つかるまで詰め所で待機してもらう場合もございます。何か質問は?」

「もしもカードが見つからなかった場合は……?」

「…………」


 無言の返答と厳しめの視線が返って来た。

 失くしたら一生帰れなくなるまであるぞこれ。


「荒野さぁーん! 迎えにきましたー!!」


 この石の監獄に差し込む陽光のように明るい声が聞こえた。

 ガラス張りの扉の向こう側で未来ちゃんが手を振っている、かわいい。


 そしてその様子をツララのように冷えた目で見ている強面(こわおもて)の看守…ではなく、警備員さん。

 まだ話は終わっていないと言わんばかりの空気が送られてきている。


「分かっているかと思われますが、不用意に学園生との接触があった場合は拘束することもございますのでご注意ください」


 ですよね!

 それについては外の世界でも同じことですもんね!


「それとIDカードの紛失が心配なようでしたので、こちらのストラップをお使いください」


 そう言ってヒモで首からかけられるストラップを渡してくれた。

 なんだ、警備員さん優しい人じゃん!


 警備員さんにお礼を言って外に出ると、久しぶりのシャバの空気を吸う。

 今、俺は雅典女学園の空気を吸ってる……たぶん、山の上の綺麗な空気よりも美味い空気を堪能してる世界一贅沢な男が俺だ。


「生きててよかっ――――たぁッ!」

「あはは、大袈裟ですよ荒野さん」

「いや、ほんとに天国を実感してるよ今」


 秘密の花園を闊歩しつつ、綺麗な華と一緒に歩いている今が極楽ではなくて何が天上の世界かと。

 まぁここでそれを説明したら絶対にヒかれるので黙っていることにする。


「それで未来ちゃん…ちゃんでいい?」

「"ちゃん"ちょっと恥ずかしいし、呼び捨ての方が」


 呼び捨ての方が親しみが表れてて恥ずかしいと思うけど、本人がそういうならそうしよう。


「じゃあ未来……ンンッ! 未来、これから俺はどうすればいいのかな?」

「夢の内容は断片的なので詳しいことまでは分からないですけど、理事長とお話することになります」

「ああ、事件について説明する感じでいいのかな?」

「それもありますが、荒野さんには学園と契約してもらって、ここで外来異種の駆除をお願いするとかなんとか……」

「分かった、いくら払えばいい?」

「んもぉ、なに言ってるんですか。荒野さんはむしろお給料を貰う側ですよ」


 道を歩きながらも可愛い女学生と何人もすれ違っている。

 こんな場所で働くというのなら、むしろお金を払わないといけないのでは?

 そんな馬鹿なことを考えていたら、二人の女子生徒がこちらに近づいてきた。


「御機嫌よう、未来さん。お客様のご案内ですか?」

「御機嫌よう、九条さん。とても大事な御方ですので、今から理事長様にご挨拶に向かうところです」


 ご…御機嫌よう……?

 まさかこの現代日本で本当にその挨拶を交わす地域があったなんて…!

 この女学園は重要文化地域として保護すべきではなかろうか。


「ところで九条さん、そのお荷物はどうしたのですか?」

「旧校舎の方で少し務めがありましたので、その為の道具ですわ」


 九条と呼ばれた女子生徒は大きな木造建築の建物を指差す。

 古風な校舎だなぁと思っていたがどうやらアレとは別に新しい校舎があるらしい。

 

「そうですか、お気をつけて」

「はい、未来さんもお気をつけて」


 そう言って九条さんともう一人の女子生徒は旧校舎の方へを向かっていった。


「旧校舎かぁ…やっぱり人が多いと建物が足りないのかな?」

「いいえ、あちらの校舎は使われていないですよ。ただ、伝統を残す為ということで今でも保全されているんです。私達も奉仕活動として、たまに掃除などをしていますね」


 伝統を残す為にわざわざあのデカいものをそのままにしておくとは、本当にお嬢様学園だ。

 ウチの学校だったら邪魔だからぶっ壊してそのままグラウンドにしてたことだろう。


 そのまましばらく歩くと、魔法使いの映画に出てくるような石造りの建造物に到着した。

 わぁファンタジーと思いたいところだが、所々に監視カメラや電子ロックが見えるせいでそんな感想は粉々に砕かれた。

 うん、いいんだけどね。

 大切なお子さんを預かってるわけだから警備は万全にしないといけませんよね。

 だからおかしなことを考えているわけではないので、女性警備員さんはこちらを睨まないでください。

 怪しい者ですけど不法侵入者ではないんです信じてください。


 そんなこんなで校舎に入る。

 入る際にIDカードを電子端末にかざしてロックを解除しつつその記録をとられたり、ついでに手荷物検査もされたが問題はなかった。

 ただ、道行くお嬢様方の目がちょっとアレだった。

 "下賎な輩がどうしてここにこんなところにいますの"みたいなことを言われて紅茶をかけられて"ありがとうございます!"みたいな展開はなかった。

 ただの珍しいもの見たさの視線だったり、好奇心の目線だったのだが、自分が異物であるかのような錯覚をおぼえてしまう。

 例えるならエルフの集落に迷い込んだゴブリンの気持ちだった。

 ……周囲には綺麗なエルフの子供ばかりとか、中々にそそるシチュエーションではなかろうか?


 そんなアホなことを考えつつ未来の後をついていき、理事長室とプレートが掲げられている部屋に入る。

 室内には警備員だと思われる女性が二名、その間にスーツを着た初老の女性が佇んでいた。


「ここまでの案内、ありがとうございました未来さん。そして荒野さん、初めまして。わたくしがこの雅典女学園の理事長である北小路 摂です」

「初めまして、外来異種駆除をやってる荒野 歩です。え~っと、未来さんとは…まぁ、色々ありまして……」


 事件の説明をしなければと思っているのだが、どこからどこまで話せばいいのかさっぱり分からない。

 ここに来るまでに色々と考えてはみたのだが、警察の失態について報告すべきかどうかも分からない。

 そんな自分の不安を察したのか、理事長である北小路さんが穏やかな声をかけてくれる。


「ご安心ください、概ねの推移は警察の方からも聞いております。ですので、表側で報道されている内容のままでいいですよ」


 それ、言外に裏側も知ってるってことですよね。

 つまり警察側のやらかしも知ってるってことは…うん、ここから先は考えない方が身の為ですね!


「我々は細かい経緯について聞き、その内容が警察側と矛盾していないかを確認したいのです。それでは未来さん、事件の日についてお聞きしても大丈夫かしら?」

「はい! それではお話させていただきます」


 こうして事件当日の説明会が始まった。

 といっても大体のことは未来が喋り、自分はたまに補足する程度でさっくりと終わってしまった。

 普通ならここでお疲れ様でしたサヨウナラとなるのだが、今はちょっとモメている。


「ですので理事長、荒野さんをこちらの学園で働かせてもらえないでしょうか?」

「未来さんのお話はよく分かりました。ですが、その件につきましては検討…いえ、はっきり言っておいた方がいいでしょうね。荒野さんをお雇いすることはできかねます」

「どうしてですか!?」


 まぁそれもそうだろう。

 いくら自分の所の生徒を助けたとはいえ、いきなり第三者を雇うというのは経営者としても学園の責任者としても頷けない話だろう。


「ですが理事長、あたしは新世代です。夢の中で色々なモンスター…外来異種がこの学園に出てくることを知ってます。なら、その為に荒野さんの力が必要になるはずです!」

「貴方の夢についてはわたくしも把握しております。本当の夢と、予知夢の区別がつかないということも」


 理事長の言葉で、未来が気まずそうに俯いてしまう。

 そうか…夢という不確かなものなのだ、夢にラベルが貼ってないのなら間違えることだってあるだろう。


「その他にも三つほど大きな課題があります。先ずは人柄と信用ですね。我が学園の生徒を助けてくださったとはいえ、それだけで無条件に人柄が保障されるわけではありません」

「確かにそのとおりです!」

「荒野さん!?」


 あまりの正論につい頷いてしまい、未来はどういうことかと咎めるようにこちらに掴みかかって揺すってくる。

 ただ力が足りないので可愛いアピールにしかならない。


「だってこんな綺麗どころが多かったら手ぇ出しちゃうよ!」


 その言葉を聞いた警備員さんから冷ややかな視線で射抜かれる。


「絶対に手だけは出しません!!」


 大声で誓うも、未来はポカーンとした顔になっており、警備員さんからは心底あきれるかのような目で見られてしまう

 唯一、理事長だけは笑ってくれた。


「荒野さんは正直な御方ですね。ですが、その通りです。ここに務められている方々は様々な信用と実力を示したことで雇われているのです。残念ながら、荒野さんにはそれらが不足しております」


 こんな現代においてなお、お嬢様という超希少なお子さんを育てているのだ。

 ここで働くまでに色々な努力と関門を突破してきた人たちを思えば、いきなりここで雇ってもらうというのは虫がよすぎる話だ。


「二つ目は実績です。外来異種が発生するというのであれば、相応の会社に依頼するべきでしょう。失礼ですが、荒野さんの免許はどの程度のものですか?」

「一番下の丁種免許ですねぇ……」

「それに、お一人なのでしょう? 学園の治安を考慮するならば、実績のある駆除業者に依頼すべきではなくて?」

「全くをもってその通りです!」

「だから荒野さん!?」


 いくら揺すってもどうしようもないので、今度はポコポコと自分のお腹をたたき出した。

 小刻みに揺れる俺の腹を見て警備員さん達が笑いを我慢している。

 理事長のように笑えばいいのに。


「そして最後となる三つ目、それは説得力です。例えばわたくしが未来さんのように荒野さんを信頼していたとしましょう。ですが、それを皆様のご両親が納得されるでしょうか?」

「無理ですね。むしろ大事な子供を預かっていたというこれまでの信頼に傷をつけることになります」

「荒野さんは誰の味方なんですか!?」

「今この場においては女性の味方だよ」


 というか女性と男性の比率が9:1なのだ、イヤでも女性側に肩入れするか俺も女の子にならないと生きて帰れないですわよ。


「荒野さんも理解されている通り、以上の理由がある限りはこちら側も―――――」

「すみません、ちょっといいですか」


 無礼を承知して理事長の言葉を遮る。

 理事長室は高い位置にあるので窓から遠くの風景が見えるのだが、旧校舎の方から何か明かりが見えた。

 それだけならまだいいのが、その光を見た瞬間に背筋から冷たい何かが這い上がってきた。

 これまで生きてきた経験上、この予感が裏切ったことはない。


「今日、旧校舎で何か作業の予定とかはありましたか?」

「いえ、特にそのようなことはありませんが…それが何か?」


 気のせいというはずはない。

 何か見落としているはずだ。


「あの、そういえばここに来る前に九条さんが旧校舎に向かいましたけれど、それのことでは?」

「なら確認いたしましょう。少々お待ちを」


 そう言って理事長は手元の端末を操作し、少ししたら返信がきたかのような音が鳴った。


「分かりました。どうやら外来異種の"糸籤"(いとくじ)がいたようなので、それの駆除をしたいと九条さんが先生方から許可を貰っていったようですね」


 糸籤、文字通り糸のような見た目をした虫の外来異種であり、スカイフィッシュの正体はこいつではないかとも言われていた。

 危険を察知すると触手のような針を刺してくるのだが、毒性などはない。

 それどころか長袖と軍手をつけていればその針も通らないほどに害がない生物だ。


「インターネットで駆除方法を調べつつ、動画でも実演されていた危険が少ない方法を使うそうですよ」


 旧校舎でまた光が見えた。

 俺は反射的に扉を強引に開け、走り出した。

 廊下にいる女子生徒達からは奇異の目で見られているが、気にしている場合ではない。


「ど…どうしたんですか、急に走って!?」


 後ろから未来が一生懸命に走ってついてきているけれど、答える余裕すらない。

 それだけ事態は逼迫している状態だ。

 とはいえ、このままクソ長い廊下を走って玄関から出て旧校舎に向かっていては間に合わない可能性もある。


 何とかショートカットがないかと探していたところ、柵で囲まれている池が窓から見えたので助走をつけてそこへ飛び込んだ。


「えええぇぇ!?」


 校舎からは驚きの声が聞こえたが気にしていられない。

 目測通りに水が深かったので足を痛めるほどではなかった。

 周囲からは制止するような声も聞こえてたが、聞こえないフリをして俺は池からあがって旧校舎へ再び走り出した。


 旧校舎に近づくといくつかの部屋から黒煙が出ており、周囲に九条と呼ばれた子ともう一人の女子生徒が見えないことを確認して問題の大きさを把握した。


 糸籤は一般人でも簡単に駆除できる危険性の少ない外来異種であり、丁種とされている。

 素手で殺すこともできるが、虫のような生態なのでかなり細かく千切らないと死なない。

 ただし、こいつは特殊な油の皮膜で空をフラフラと浮遊しているので、火を近づければ簡単に燃える。

 自分が見た動画でも、捕まえた糸籤をテープなどで纏めてから燃やすという処理を施していた。

 だがその動画に説明されていないことがある、自切だ。

 一部の昆虫に見られる自らの身体の部位を切り離す行為。

 まぁ自切したところで油の皮膜のせいで一瞬で火達磨になるから必ず死ぬことになる、意味のない行為だ。

 ただし、それは糸籤に関してだけのことであって、それ以外の問題がある……それが延焼だ。


 糸籤が発生していたということは、その皮膜の油が各所に付着していたことだろう。

 そして糸籤を集めて焼き、自切して暴れだしたらどうなるか?

 その結果が旧校舎の火災というわけだ。


 旧校舎に到着した時点で息も絶え絶えな状態なのだが、中にいる子たちはもっと危険な状況だ。

 けれども火の勢いがまだ弱い今ならまだ無事なはずだ。

 一度深く深呼吸をして、姿勢を低くしながら旧校舎の中へ突っ込む。


 白と黒の煙が混ざり合う、昔の会社で覚えた教訓を思い出す。

 煙を吸うので声を出さない、そして相手にも出させないこと。

 煙で目を痛めないように姿勢は低くすること。

 他にも色々あったが、この二つを厳守するように自分に言い聞かせながら小走りで煙を掻き分けて進む。

 すると、火事で起きるような音とは違う音が聞こえた。

 音のした部屋に向かうと、そこには倒れた女子生徒と必死に火を消そうと衣服で火を叩いている女子生徒がいた。


「あ、あ、あ、あの! 違くて! わたし、調べたとおりの方法をやって…そしたら……!」


 突然のアクシデントで動転しているのだろう、周囲がどうなっているかも分かっていない様子だった。

 そして失敗することにも慣れてないのだろう。

 必死で間違いを挽回しようとして、それでも上手くいかなくて、ここまで来てしまったといったところか。

 責任感が強い子ほど陥ってしまうパニックだ。


 俺は煙を吸わないようにする為に、ずぶ濡れになった上着を倒れている子に、重ね着していた服も脱いでもう一人の子の口に押し当てた。

 意識のある子は必死に何かを喋ろうとしているが、強引に手で押さえつけ、人差し指を立てて何も喋らないようにとジェスチャーする。

 それを理解した子は涙目になりながらも必死に頷いた。


 さて、ここまできたら後は脱出するだけだ。

 今まできた道を戻ってもいいが、煙の量がさっきよりも増えている。

 幸いにもこの部屋は一階で窓ガラスもあるのでそこから出ればいいだろう。

 そして窓ガラスの鍵を開けようと手をかけ、すぐに手を引っ込めることになった。

 どうやら素手で触れないくらいに火で加熱されていたようだ。

 こうなると窓枠も歪んで開かないかもしれない。


 後で弁償する覚悟を決め、思いっきり窓ガラスのフレームを蹴る。

 窓ガラスそのものをぶち破ってもいいのだが、割れた窓をくぐり抜けたらこの子達が怪我をする恐れがある。

 二発目の蹴りで窓ガラスの一部が割れながらもフレームが外れかけ、三発目の蹴りで完全に外れた。

 外への出口が出来たので倒れた子を片手で抱えつつ、もう一人の子を手で引きながら窓から外へ出る。

 外には消火活動の準備をした警備員の人や先生方がいたので、救助した子を預けることにした。


 「ゼェ…ゼェ……この子達……コヒュゥ……すみません………ちょっと…待ってください……」

 「あ、あの、大丈夫ですか…?」

 「だ…大丈夫っす……ゼェ…これ、ただの…息切れなんで……」


 息が止まるくらいの全力疾走で旧校舎まで走ってきたのだ、正直なところもう限界である。

 っていうか遠いよ!

 なんであんなに無駄に遠いんだよ旧校舎!!


「荒野さん! 大丈夫ですか!?」


 自分を追ってきた未来が小走りでこっちに駆け寄ってくるのが見えた。

 自分と同じようにゼェハァと息を切らせながら、涙目になっている。

 ヤバイ、今の現場を見られたら留置所RTAが開始されてしまう。


「ごめん、ちょっとヤバイから離れてて」

「怪我したんですか!? どこですか、どうしたんですか!?」

「お願い止めてトドメを刺さないで!」


 未来は純粋に心配して身体を触っているのだろうけど、今の姿を他の人に見られたら死ぬ、トドメに頭に銃弾を撃ち込まれる位に死ぬことが確定する。

 どうやって止めようかと思案していたのだが、ふと違和感を感じた。


「あれ……あれ?」

「ど、どうしたんですか?」

「無い…IDカードが……ない!!」


 まずいぞ、アレがないと帰してもらえない。

 下手すると数日くらいは拘束されるぞ!

 ……いや、いいのか?

 そうすれば合法的にここにいられるのか?

 

 ああでも紛失したIDカードで何か不祥事が起きたらこっちにも責任が飛んでくる!

 そしたら帰るどころか別の塀の中が俺の家になってしまう!!

 どこだ、どこで失くした?

 失くす原因があるとしたら上着を脱いだ場所……つまり、絶賛大炎上中の旧校舎の中!?


 まだあの教室の中は大丈夫なはずだ、今からダッシュで取りに戻れば間に合うはず!

 さぁ走るぞと構えたのだが、未来がシャツを掴んで離してくれない。


「どこにいくんですか、危ないですよ!」

「知ってる! だけど俺はあの中に戻らないといけないんだ!!」


 何とかして未来を引き剥がそうとするも、粘り強い抵抗のせいで一向に離れる気配がない。


「すみませーん! 皆さん、この人を止めてくださーい!!」


 しかもこの子ったら周りの人も巻き込みましたよ奥さん!?

 

「キミ、中は煙で充満してるんだぞ! 止まりなさい!!」


 知ってるよ!

 ついさっきまでその中にいたんだもん!!


「お願いだから離してくれ!あの中には……大事なモノが!!」


 そんな俺の訴えも虚しく、数多くの大人の力によって屈した矮小な大人の姿がそこにあった。

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