WCC9. 白雪の降る

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 ゼイラギエンから外に出ようとしたランスは、扉に手を掛けたまま周囲を見渡した。

 見渡す限り一面、大地は雪に覆われていて白い。空は墨で塗りこめたような黒だ。辺りを照らすのは、作り物のように丸く大きな月と、少し離れたところでぼんやりと白く光る桜の巨木だった。

 木の枝は以前に見たときより伸びているような気がする。

 少し離れたところに、見覚えのあるものを見つけた。最後に切った騎士見習いスクワイアの巡礼像だ。よく見ると、ほかにもランスが今まで切ってきたものが立っていたり倒れていたりしている。

 切られた物は、この空間に移動する。だから像があるのは当然だ。でも改めて、今までの旅の成果を目にすると不思議な気分になった。

 しかし、感傷に浸っている暇はない。

 外付けのタラップがないので、代わりに機体の側面についている取っ手を伝って地面に降りた。

「シロタエ、どこにいるんだよ!」

 巨木や巡礼像の間に隠れていないか探しまわったが、人の動く気配はなかった。物音ひとつしない。雪があらゆる音を吸い込んでしまうせいだろうか。それとも生き物がいないからか。

 あまりゼイラギエンから離れないほうがいいかもしれないと思って戻ろうとしたとき、百メートルほど離れたところに水辺が見えた。

 近づくと、それは広大な湖だった。風が吹いていないのに湖面は微かに波立っていて、月の光を受けてキラキラと光が反射している。

 畔には、村にあったような東洋風の小さな庵があった。

 恐る恐る中を覗いてみたが、やはり人の気配はない。しかし埃が溜まっている様子もなかった。用心しながら中に入り、土間から数段上がったところの襖を開くと、八畳ほどの畳部屋があった。

 そこには、まるで博物館の展示室のように着物が六枚飾られていた。男物も女物もあり、いずれも晴れ着というほど豪華ではないが、よそ行きの着物だ。

 ランスの目を引いたのは、それぞれの前に飾られた刀剣などの武器だった。いずれも年季が入っており、相当使い込まれていそうだ。

 ランスは薄紫色の女物の着物の前で足を止めた。見覚えがあるような気がしたのだ。全体に桜の花が描かれている。その前に飾られた刀剣は、柄の端に付けられた真紅の房飾りを除いて、柄も鍔も鞘もシンプルな黒一色だった。

 鞘には東洋の文字でハルタ・サクラと掘られていた。

 息を呑んだ。母の名だ。

 ほかの武器も調べてみたが、知っている人の名が入ったものは無かった。

 ランスは母の刀剣を手に取った。柄は手垢で汚れている。抜いてみると、少し刃こぼれしているのが見て取れた。

 母は幼い頃に祖父ジジイから剣を教わっていたようだが、真剣を手にしていたことがあるとは知らなかった。

 もしかすると両親は事故死ではなく、何者かに襲われたのだろうか? それこそ鮫のような番人に。母は父を守ろうとして剣を振るったりしたのだろうか……?

 刀を鞘に仕舞い、少しの間借りておくことにした。丸腰で歩き回るよりは良いはずだ。


 庵を出て、湖を覗き込む。澄んで透明だが底は見えない。魚もいないようだった。

 不意に、さざ波が止んだ。映り込んだ自分の顔の隣に青白い人の顔が映ったような気がして、驚いて離れた。

 周囲を見渡したが誰もいない。もう一度湖を覗き込むと、やはり隣で女が笑っている。長い黒髪が、さざ波に揺られていた。

 風が凪ぐ。先ほど湖面にぼんやりと映っていた顔は、水中にいる人間の顔だった。

 背筋が震えた。

 それは、よく見知った少女の顔だったからだ。

「まさか、アズサ?」

 手を伸ばすと顔に触れられそうだった。

「生きてるのか。なあ」

 溺水すれば体は膨れ上がるというから、この状態は不自然だ。

「死んでる、のか」

 声が震えた。

「魂が抜けているのよ。死んではいないわ」

 背後を振り返ると、髪も肌も唇も纏う着物にも、色のない少女が立っている。

「シロタエ、どこに行ってたんだよ。これはなんなんだ」

 ランスはシロタエの姿を認めて安堵したが、声は上擦ってしまっていた。

「私の身体よ」

 彼女は物を見下ろすように一瞥する。

「じゃあ、お前、やっぱりアズサなのか? そうなのか?」

 彼女の白く長い睫毛は微かに震えた。

「黙っていてごめんなさい。白桜の精霊だなんていうのは嘘。私の身体はもう、あの日に傷ついてしまって、この湖から出れば死んでしまう。だから魂だけでここに存在しているの。ここは特別な場所だから、それが可能みたい」

 彼女は物悲しい瞳でランスを見上げた。その瞳だけは色がある。暗い赤色だ。

 アズサとは容貌が違う。この空間にいたせいだろうか。

 けれど、今までにも彼女がアズサなのではないかと思わされることが何度もあった。だから、やはりという気持ちのほうが勝った。

 急に腹が立った。より正確に言うと、苛々するというか落ち着かないというか、思ってもいない乱暴な言葉が出てきてしまいそうだった。ランスは深呼吸した。

「生きててくれて、よかった。いや、生きてるってわけじゃないのかもだけど」

「そうね……」

「体を保存してるってことは、いつかは元に戻れるのか?」

 シロタエは首を振った。

「元には戻れない。でも、このほうがあなたのそばに居られるんだから、文句はないわ」

 シロタエは笑った。ランスは居心地が悪くなった。

 言いたいことは沢山あったのに、いざ本人を前にすると出てこない。不意に泣きそうになって、慌てて顔を背けた。

 シロタエは「あなた、怪我してる」と言ってランスの右腕に触れた。アーノルドの弾丸が掠めた跡だ。

 ひやりとした冷たい手だった。霊魂でありながら触れられるのは、この魔力空間のせいなのかもしれない。

 シロタエは着物の袂から布の切れ端を取り出し、ランスの傷跡に巻きつけた。「こういうのも放っておくと良くないの。もっと自分を大事にしなさい」

「わかってるって。こんなの、かすり傷だろ」

「わかってないわ、全然」

 目が合った。暗い赤味がかった瞳と雪よりも白い白目は、まるで貴石か宝石の類のようで、ぞっとするほど美しい。この世のものではない美しさだ。

 彼女の手が頬に伸びてくる。

 彼女の前ではいつも言葉がうまく出てこないし、振る舞い方もわからなくなる。

 冷たい唇だった。

「あなたをここから出すとき、別に何もしなくても良かったんだけれど、嘘をついていたの。ふつうに生きているときだって正直になれなかったのに、駄目ね」

 彼女は寂しそうに笑った。

 耳の奥で、血管がどっどっと打っていた。何か言わないといけないのに、口から出てきたのは全然違うことだった。

「あのさ、レベッカが鮫のいるところに連れていくって言ってたけど、鮫とお前には何の関係があるんだ? レベッカみたいに従わされてるのか?」

 シロタエは目を伏せるだけで、肯定も否定もしない。

「さっき、そこの建物で母さんの着物と刀を見つけた。母さんは事故死じゃなかったのかよ」

 シロタエはランスから離れると、月を見上げた。

「私も全部を知ってるわけじゃない。どこから話せばいいのかしら……知りたいことは他にも沢山あると思う。どうしてグレンが死んだはずのに、あなたは記憶を継いでいないのか。あなたの本当の敵は誰なのか……。でもね、先に言わせて。私はあなたの味方よ。それだけは確か」

 そう言うと彼女は、白桜とゼイラギエンのある方向に歩いて戻りはじめた。


 ランスは少し離れた後ろをついて歩いた。

「あの庵は、白桜刀を継いできた番人たちの遺物を集めている場所みたいね。番人は死ぬと、身体は残らない。次の番人に手渡した部分以外はね。だから、白桜刀を継ぐ人たちは多分、ああやって前任者の遺品を庵に残してきたんじゃないかしら」

 ランスは、先ほど借りた刀の鞘を握った。

「親父のじゃなくて母さんの遺品があったのはなんでだ?」

「きっとグレンが置いていったんだわ」

 白桜の根元には、虚ろな目で座り込んでいる男がいた。二十代後半くらいの金髪の男だ。ランスにも見覚えがあった。

「あいつ……!」

「あなたたちが鮫と呼んでいるのは、彼でしょう。大丈夫、今は何もできないわ」

 男は放心しきっているようにも、植物状態のようにも見える。自分たちを苦しめてきた人間だとは思えない。

「お前が捕まえておいてくれた……ってわけじゃ、なさそうだな」

 ランスはシロタエを完全に信用できないと思いはじめていた。彼女の物言いは、何かを隠しているようで歯切れが悪い。

「彼は鮫の片割れと言えばいいのかしら。体のほうね」

 男は表情らしい表情を浮かべないまま不意に立ち上がった。

 ランスは嫌な予感がして足を止めた。男には、生きた人間が持っている何かが欠けている。

 男の眼球がガラスのように光った。それでランスは確信した。これはアーノルド以上に精巧な、人間そっくりの機械人形だ。いや、人間そっくりなんじゃなくて、もしかすると人間を……?

 頭の中で警鐘が鳴っていた。鮫の実体が機械だとすると、別の場所にいる本体が操作しているはずだ。

 本当のことを聞かないといけない。でも聞きたくないと思った。たぶん、自分が望む答えは返ってこない気がしたからだ。

「鮫本人はどこにいるんだよ」

 シロタエは白桜の幹に手を伸ばした。細い枝を一本手折り、ランスのほうを振り返る。

「私よ」

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