16(2)

 黒い刃は、その火花すらも糧にしているのか、纏う闇を一層濃くしていた。刃渡りと幅に釣り合わない、空気抵抗すら無視しているかのような疾さ。

『言いたいこと遠慮しないで言っていいのって、家族くらいだから、ちゃんと言えばいいじゃん。あんたが嫌いだったって、ふつうに愛してくれなかったくせにって怒っていいんだよ』

『打ち負かしてやるがいい。あいつはそれをずっと待っておる』

 シャロンの惑わせるような剣舞とも、先生の知略に満ちた剣捌きとも違う。フェイントや誘いを必要としない。ただ純粋に疾く、鋭く、リーチが長い。

 一瞬でも集中が途切れたら終わりだ。

 この男と自分は、こんな形でしか対話ができないのだろうか。対話ですらない。思想と感情のぶつけ合いだ。

 ひとつだけ、わかってしまった。わかりたくなかった。この男と自分が似ているのは、言葉や表情では何ひとつうまく伝えることができない所。どうせ誰とも分かり合えないからと、伝える努力を諦めている。そして間違った方法で自分も他人も傷つけてしまう。

「俺は、あんたを殺すために命までかけて帰国したわけじゃない。顔を見に帰ってきたんだ!」

 わずか一瞬でいいから隙を作れないかと思って叫んだが、虚しい期待に終わる。相手は聳え立つアルプスの山々のように動じない。届かない。何を言っても。

 それは、幼い頃に抱いた絶望と同じだった。泣こうが叫ぼうが無駄で、一層事態が悪くなるだけ。

 雪に足を取られた時も手を差し伸べてはくれず、母を喪った時も甘えを許されず。自分が出来損ないだから、つらく当たられているのだと思っていた。

 勝てない。呼吸が合わなくなってくる。

 この屈強な男を捻じ伏せられるのは病魔だけなのかもしれない。

 でもそういえば、たった一人だけ、父を負かした人物がいたという。先生がそう言っていた。

 後ろに飛んで間合いを取る。右手で髪留めを解いた。黒い炎の舌先が、広がったフランツの髪を獲物と勘違いしたかのように喰らいつく。髪が焦げる嫌な臭いがした。

「父上を負かした方がいたそうですね。それは誰ですか」

「なぜ今それを聞く。聞いてどうする」

 冷徹な軌跡に微かに乱れが生じた。

 そのひとに心当たりがあった。が剣豪だったのかどうか、フランツは知らない。だからこれは半分ハッタリだ。 けれども、父が自分にだけ過酷な訓練を与えて『死なない』ように育てた本当の理由は、もしかすると……この顔と同じ顔を持つひとなのではないか。この男だって、父である以前に、弱く、脆く、道に迷い、時には過ちを犯す人間の一人のはずだ。

「母上なんですね」

 黒い炎が意志を持つ生物のようにゆらゆらと揺れ、父の顔に光と影を投げかけた。

 その口から、ふっと息が漏れた。

「私は名誉も華々しい功績も望んでいなかった。あれさえいれば、何もかも、どうでも良かった」

 魔剣が纏う炎が濃くなる。父が発する魔力を、生命の源を吸っているのだ。

 それが四大元素とは異なる力で、父が抱えてきた闇が生み出す魔力なのだと気付いてしまった瞬間、目に入ったのは冷たいアイスブルーの瞳。夕闇に呑まれる前のアルプスの雪の影の色。二度と溶けることのない氷の色の瞳は、母が居なくなる前には、もしかすると豊かな感情を宿していたのだろうか。

 まだ若いうちに己の手で妻の命を奪うことになった日から――それは一体どれほどの苦痛だったろう――この男は己と感情を捨てたのだ、きっと。

「私自身がどんな人間であるかは誰も……マリー以外は誰も知らぬ。誰とも分かり合えぬ。それでいい。私は求められた役を演じる役者に過ぎない。次の世代へ繋ぐための繋ぎでしかない。それでいいのだ」

 己に言い聞かせるように呟く父の瞳に、さざなみのように感情が揺れる。しかし、それはすぐに儚く消えて無くなってしまった。

『シャルル様はマリー様に生き写しです。忘れ形見なのですよ。旦那様がシャルル様のことを嫌いなのではありません。マリー様のことを思い出してしまわれるのです』

 乳母はフランツが泣きつくたびにそう言って慰めた。けれども、父は母のことを一言も口にしなかった。母がまるで最初から居なかったかのように振る舞っていた。回忌にも仕事で現れない時すらあったくらいだから、乳母は適当なことを言っているだけだと思っていた。

 もしかすると父は、番人を継ぐ子どもに現実の厳しさを教えるために、敢えて差別したのか。自ら悪になることを選んで。

 結果的にフランツは、何があっても死なないと言われるまでになった。父を憎んでさえいれば他の誰かを憎まずにいられたし、怒りは生き延びるための原動力だった。

 だとしても。このやり方以外になかったのか。

「父上は、俺に殺されることになるとわかっていたから酷く扱ったとでもいうのですか? 俺が恨みを抱けば、母上を手に掛けた時と同じ苦しみを味わわずに済むと」

 父は何も答えなかった。

「答えてください。俺を見ろ!」

「私は二十年前に既に死んでいるようなものだ。いい加減――」

「神は自らの命を絶つことをお許しになりません。もうやめてください。病院に行きましょう」

「番人は自死できん。魔剣の呪いは医師にどうこうできるものではない」

 父はフランツの手を跳ね除けると、魔剣を支えにして体をくの字に折った。

「父上」

「お前は……、そんな甘さでは、これから先、生きてゆけない。お前が簡単に死なないのは、いつも誰かに守られていたからだ。何があっても死ぬな」

「甘さ? いいから早く――」

 手を差し伸べようとしたとき、用具室の扉が軋みながら開いた。

 咄嗟に、髪留めに隠していたナイフを抜いた。

 現れたのは、スーツケースに詰めて流した鳥打帽の男だった。

 男は、フランツが男の脳天に向けて放ったナイフを見切って避けてみせる。

「相変わらずおっかねえだよ。いくら何でもスーツケースに大の男を詰めるのは、ねぇぜ。大事なお話中悪いんだが、こっちも大事な用があってね」

 男の手の中には、王国内で所持を禁じられているはずの拳銃が握られており、その暗い銃口は父のほうに向けられていた。

 フランツは父を横に突き飛ばしつつ、一足飛びで男の懐に飛び込んだ。

「おっと、」

 男は見た目に反した軽やかなバク転で水路脇の通路に下がる。態勢を立て直す隙は与えない――切っ先が男の首に突き刺さる、その一寸手前でフランツは踏みとどまる。そうせざるを得ないことに気付いたからだ。

 視界の端で、新手が通路側から父を狙っていた。武器はわからないが、おそらく手の甲に装着するアクセサリー型の魔術増幅器。

「賢明だな。あんたと将軍相手に一人で挑むバカはいねえ。あの状態の親父さんを置いてくのはまずいよな? とりあえず武器は仕舞ってくれよ。でないと、こっちも仕舞えねえ」

 自分と父の顔も、関係も割れている。フランツは男の首に剣先を突きつけたまま、接近してくる女に警告した。

「あなた方が、父上を追い回している連中ですか。友好的な態度だとは思えませんが?」

 目元しか見えない全身黒ずくめの、体型が出る衣装を纏った新手の女は、男に指示を出した。

「『鼬鼠』、貴方は将軍を見張って。手出しはしないでください。私からお話しします」

「シャルル、その連中の話を聞く必要はない」

 父が遮るが、鼬鼠と呼ばれた男は鼻で笑った。

「将軍さんよ、あんただって本当は息子さんを呪われた運命に縛り付けられちまう番人にしたくないでしょ? 機密局も辞めさせたいはずだ。うちらは、選択肢を提示しにきたんだよ。ちょっと黙っててもらおうか」

 父は男を睨みつけるが、武器を向けられている以上、黙るしかない。

「まったく話が見えないのですが、どういうことなんです」

 女は頭部を覆っていたマスクを外した。

 二十代後半だろうか。年齢の割に幼さを残す小さく丸い顔。欠点を一切見出だせない、美術品の天使像のようだった。しかし、身体に密着した衣装のせいで浮かび上がる扇情的な稜線と、唇の下にある黒子――貴族がつけたがる流行の偽物ではないようだ――が、優しげで理知的な空色の瞳を裏切っている。

「このような場所で申し訳ありません。私はエレーヌ・ドートリッシュ。神に誓って、あなたに危害を加えるつもりはありません」

 思わず、剣を握る手に力がこもった。目の前に、自分を追い詰めた張本人がいる。しかも、第一王位継承者の母として宮廷を牛耳る人物。

「身構えてしまうお気持ちは分かりますが、まずは貴方個人を政治的な理由で身の危険に晒したことをお詫びします。部下の教育が行き届いておらず、暴力的な手段に訴えたことも。結果として、戸籍上はお亡くなりになったことにされてしまったと伺いました。申し訳ありません」

 心から申し訳なさそうに、彼女は目を伏せた。

 すべては部下の勝手な行動だとシラを切るつもりか。フランツは内心で舌打ちしつつ、彼女のペースに呑まれないよう気を引き締めた。

 国の頂点近くに上り詰めてもなお、傲慢さを持たない。敵への手段は選ばないが、味方に対しては篤い、人望で人を動かすタイプのリーダーだと噂されている政治家だ。

「それは、今は脇に置いておきます。父上を監禁していたのは貴女方なんですか」

「監禁……というよりは保護ですわ、何せ『鮫』がお父様を付け狙っておりましたから。貴方を呼び出す方法が他になかったとはいえ、申し訳ありませんでした」

 信用できるだろうか? 物は言いようだ。

 鮫、とフランツは呟いた。ルピナスが口にしていたコードネームだ。番人の一人で、私利私欲のために番人の力を欲する裏切者。

「シャロンは貴女の手下ですか?」

「彼女は身内と言いますか……私たちを利用していると言うほうが正しいでしょうね」

 どこまで眼前の女を信用すべきか測りかねた。その目に悪意は欠片も浮かんでいない。純粋すぎる正義だ。

「彼女が私と手を組んだ理由は、宰相が謀って紛争を起こし、父アーサー・フラクスを亡き者にしたからです。宰相は国益しか考えていません。私は番人の力を正しい形で、神のお望みの形で千年伝説を実現させたいと思っているのです」

「紛争の件が事実だとしたら大変な話ですが、あいにく私は一切関知しておりません」

 フランツは真実を知らない。なぜ局長がアーサー・フラクスと妻を捕らえたのか。自分に彼を殺させたのか。それに、機密局については、どう返事してもまずい。

 ドートリッシュ公夫人は、曇りのない目で見つめてくる。

「忠心の篤い方なのですね。ですが貴方は、神学を志していたはず。汝、殺す勿れ……人の命を奪うことに何ら抵抗がないのですか」

「従軍した時のことですか? 私は一介の兵士として成すべきことを成しただけです。では貴女は、直接手を下さなければ人を殺めても罪にならないと思っておいでなのですか」

「いいえ。母の手は子を守るために汚れるものです。全てはこの国の未来のため。私は貴方がこれ以上、宰相の私設組織で手を汚さずに済む選択肢を提示したいのです。それが貴方へのせめてもの償いになればと」

 フランツは黙って続きを促した。

 この人は、相手がつい話を聞いてしまうような何かを持っている。もしかすると王宮で彼女にひれ伏す人々も、そうなのだろうか。

「貴方は、お父さまのために身の危険を呈して戻ってくるような方です。宰相に与えられた仕事について後悔しているのではありませんか? 貴方は、宰相が税金を私物化して動かしている違法組織の存在を暴けるのです。今まで従ってきたのも、あの男に家族を危険な目に遭わせないためでしょう? 解放されるよう尽力しますわ」

 彼女のように、局長を悪だと片付けられれば、楽だったのかもしれない。しかし彼女は正しい道を歩いている振りをして、堂々と正義を語れる人だ。そんな人に、自ら泥をかぶって身を擦り減らしながら生きる男を悪だと決めつけられたくはなかった。全力で擁護するほど慕ってはいないけれども、彼を裏切ることは、女王に仕えるという矜持も、自分のやってきたことも否定することになる。

「貴方が宰相に従う理由はなんですか? 大義や受けた恩があるのですか? 私も国を守るために働いています。彼のような独断的で犠牲を強いるやり方とは違いますわ。

 番人を継げば、貴方はこれまで以上に罪を重ねなければなりません。貴方はもう、国のために十分尽くしてこられました。その役目は私共に託してみませんか」

 フランツは首を傾げ、見つめ返した。彼女は演技が上手い。それは、口に乗せている言葉が真実だと、自分自身さえも騙すことが出来るからだろう。

 フランツには到底出来ない芸当だ。

「どうでしょう。私からすれば、貴女も宰相も同じに見えます。違いがあるとすれば……私は旧時代的な価値観を持った男で、貴女が新しい時代の女性だということかもしれませんね。貴女のお申し出はお受けできません。自分の責任を捨てて番人をどなたかに譲る話も。父上を解放していただけますか? 女性をいたぶる趣味はありません」

「……貴方の美しさには、女の私でさえ惑わされそうになります。利己的な人々に、その美しさをいいように使われる人形のままで構わないと仰るのですね。過ちに気付き、やり直すことを主はお赦しくださいますわ。どうか、主が正しき道に導かれますよう」

 ドートリッシュ公夫人は、残念そうな顔をしてみせた割に、瞳は落胆の色を見せない――何かあると、勘が告げる。フランツは神経を研ぎ澄ませた。

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