ABT16. Neige des Alpes

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 水底からふわりと浮かび上がるようにして意識が戻り、最初に感じたのは微かな黴臭さを含む冷たい空気だった。次に、少し離れたところを流れていく水の音。それから手の平に擦り減った石の、ひやりとした感触。

 目を開けると、薄暗い部屋で石壁にもたれかかって座り込んでいることがわかる。正面には床から天井まで届く鉄格子が嵌まっており、その向こうは用水路だった。エスメラルダが入っているビルの屋上くらいの広さだが、どうやら地下水路の用具室であるらしく、壁際には掃除用具などが並んでいた。

 目を上げると、一定の間隔ごとに設けられた壁の窪みの石灯――王国で広く使われている、魔力を蓄積させ発光するように加工された貴石だ――の青白い光が寂しげに明滅した。

 部屋の隅に何者かがいる。

 身構えようとすると、右手に激痛が走った。包帯がきつく巻かれており、血が滲んでいる。

 それで今までの記憶が一気に戻った。そして、石灯の頼りない光に照らされた人物の顔を見て、立ち上がる必要はないと分かった。

 恵まれた屈強な体格。それに慢心することなく鍛え上げられた体躯。一分の隙もなく着込んだコート。軍人らしく短く刈り込まれた髪は、真冬の田園地帯を彩る灰色と茶色。自分との唯一の共通点は、アイスブルーの瞳だけ。

 父の姿を見るのは七、八年ぶりだった。その容貌には、年月による変化はあれど、この世に生まれ落ちた時に笑顔を置き忘れてきてしまったかのような顔つきは、そのままだ。

「父上、ご無事だったんですね。窮地を救っていただき、ありがとうございました」

 絞り出せたのは、自分でも信じられないほど冷たい声だった。そして、自分を見下ろす男の瞳は、それ以上に冷たい。

「礼なら、サンド家のあの……アメリーと言ったか、あの娘に言え。私を捕らえていた連中から解放して、この抜け道を教えてくれたうえ、お前の居所を突き止めた」

 予想外の人物の名を耳にして、フランツは驚きを隠せなかった。

「アメリーが? 今どこに?」

「応援を呼びに行くと言っていた」

「シャロン……俺と一緒にいた女性はどうなったんですか。姉さんは?」

「フラクスは、あの場に置いてきた。手足を縛っておいたから、ここまで追って来ることはできないだろう」

 父は事務的な口調で返答した。

「奴らが何者かは分からん。私は古い邸宅か何かに監禁されて、サビーヌを騙してお前も呼び寄せるよう脅迫された。サビーヌは昨日病院に来たようだが……安否はわからん。連中は医師も買収できるらしい」

 父を捕らえた連中がドートリッシュ公夫人の手先で、シャロンがその部下という可能性は十分に有り得る。

「とにかく、ここを離れましょう。安全な場所はわかりますので」

「いや、今はここで身を隠していたほうがいい。出入りできるのは限られた人間だけなのだろう? の」

 フランツは顔を上げた。機械人形のように感情のない瞳と視線がぶつかる。

「陛下から、お前が組織の一員だと聞いて、やめさせるようにとお願いした。宰相がお前を引き入れたそうだが、陛下はそんなつもりをしておられなかったそうだ」

 フランツは眉を潜めた。機密局は女王に身を捧げる組織とはいえ、名目上のことだ。フランツ自身は直接目通ったことがない。

「陛下はマリーと親しいご友人であられた。お前が国を追われることになって心を痛めてくださっている」

 初めて聞く話だった。父の口から母に関する話を聞くこと自体も、記憶の限りでは初めてだ。

「……そうでしたか。ですが、俺はドートリッシュ公夫人から狙われているんです。あの方は機密局の尻尾を掴みたいんですよ。いまさら抜けたところで追っ手は振り切れませんし、局員でなくなるのは実質、死んだ時です」

「陛下が認めるとおっしゃっているのだ。少なくともゴドフロアに、こき使われずに済むだろう。あの成り上がりなんぞに」

 侮蔑を含んだ口調にも、父から介入を受けることにも反発心が湧いてきて、フランツは顔を背けた。

「俺の問題です。自分でなんとかしますし、生まれで人を差別しないでください」

 父は押し黙った。感情らしい感情の乏しいアイスブルーの瞳に、微かに怒りがちらつくのが見えた。

「自分で何とかできる? 親族にも危険が及ばないと言い切れるのか? あのバーに居ることも危険だ。手伝いをやっているらしいが、貴族の自覚はあるのか。水商売に就くなど……」

 好きで機密局に入ったわけではない。存在を知った時点で引き返せないのに、今さらそんな話をされても、どうしようもない。

 しかし、一々言い返していては話が進まないので、睨みつけるだけに留めた。

「本題は番人の件ではないんですか? そのことを教えてください。そもそも機密局が番人である陛下の組織である以上、俺は必要な人員でしょう」

 父はため息をつき、室内にあったボロボロの木製の椅子を引き寄せて座った。

「サビーヌには、ああ嘘をつくことになったが、実際のところ私はもう長くないのだ。一年と保たないだろう」

 え、と間抜けな声が漏れた。

 父の髪色は金より銀のほうが圧倒的に多くなり、眉間に刻まれた皺は一層深く険しくなっていた。だが、あと一年も保たないというほどの病魔の影は見て取れない。

「来月に退職すると決まって以降、何者かに付け狙われている。おそらく、私の記憶を奪おうという輩だ。弱ったところが狙い目だとでも考えているのだろう」

「何の……病なんですか」

 父は返答せず、腰帯から剣を外した。鞘も柄も刀身も全てが黒い、あの魔剣だ。

「これは断罪の魔剣。千年伝説の実現に刃向かう者を排除する。この魔剣に選ばれたのは、お前だった」

 優秀な兄達ではなかった、期待外れだというニュアンスを隠そうともせずに、父は続けた。

「私の体力は『その時』まで保たない。今のままでは何者かに殺され、記憶を奪われるだろう。そうなる前に、お前は前任者である私にうち勝ち、剣に力を認めさせねばならない。お前は既に一度使っているようだが……資格があると認められたに過ぎん。主と認められるには私を負かす必要がある」

 どうやらゴドフロアが先に試させたようだな、勝手な真似をしておきながら事後報告で済ませおった、と父は悪態をついた。

 父は、機密局でどんな仕事をしてきたかは知らないが、と暗闇に目を遣りつつ呟くと、やはり感情の抜け落ちた瞳でフランツの目を見据えた。

「お前は、これまで迷いなく剣を振るうことができたか。紛争の時も、躊躇いなく敵を切り捨てられたか」

 即答できず、フランツは視線を返した。

「己の能力を発揮することに喜びを感じたか。主君と国のために役立てることを誇りに思ったか。それとも、己を責め苛んだか、仕事だからと割り切れたか。その格好をしているのは、自分を捨てて別人格になることで自分を守るため。違うか?」

 口の中が乾ききっていた。

 あんたに一体何が分かる。一方的に詮索するな。勝手に想像して分かった気になるな。

 今までなら腹を立てて言い返していた場面だったが、その気力は湧いてこなかった。余命を聞かされて動揺しているのかもしれない。

 この男は、何も見えていないのではなかった。見えていないフリをしていたのだ。なぜ?

「父上は、俺にどうしてほしいんですか」

「私は、お前がどうしたいのか聞いている。お前は、いつも私に褒められることを求めていた。そのことに嫌気が差したから家を出たのだろう? 或いは、比較されることに耐えられなかったからか。この世は不公平で理不尽だと認めたくなかったのだろう? 結論は出たか。大学や機密局に居て、承認欲は満たされたか」

 承認欲、とフランツは呟いた。そんなもののために研究したり剣を振るったりしていたつもりはない。

 自覚がなかっただけかもしれないが。

「この世は確かに理不尽です。でも俺は……、いや、もうどうだっていいことだ。すべて自分の選択の結果だと受け入れています。父上は俺に普通の軍人として真っ当に生きてほしかったのかもしれませんが、それは無理です。それにもう、死んだことになっているんですから」

 ティタンに行くことになった当時は、心のどこかで父のせいだと思っていた。機密局の仕事を受けたことも。

 父は自分のことをどう思っているのだろう。育て方を間違えたと思っているのだろうか。

 しかし父は聳え立つ巌谷の如く、フランツを見下ろすのみ。

「その魔剣と記憶を継ぐことが定めなのなら、俺は受け入れるつもりでいます。ほかの誰かに責任を押し付けたくはない。それは自分の意志です」

「私に押し付けられたから受け入れるわけではないのであれば、いい。受身ではこの剣に精神を喰われて早死にするだけだ。だから意志を確認した」

 父は椅子から立ち上がると、何かを伝えるか伝えまいか逡巡しているかのように、足元に視線を落として暫く押し黙った。それから、口を開いた。

「これは魔剣と呼ばれるだけあって、力の代償に使用者の魔力を大量に消費する。マリーは魔剣を使いすぎて消耗し、精神を喰われて錯乱したのだ。番人を継ぐ者の終わりは決まっている。役目の重さに耐えきれずに狂うか、次の者に託すか。いずれにせよ後継者によって葬られる。それが継承の方法だ」

 長い長い旅路のあとの疲労感を滲ませたような声だった。父の背後を流れる用水路の水の音が、やけに大きく聞こえる。

 全身の血の気が、すっと引いていくのを感じた。

「マリーを手に掛けたのは、私だ。この剣は使い手の命を喰らい、喰らい尽くせば次の使い手を求める。この病に名はない」

 父は、もう一本提げていた剣をフランツの足元に投げると、魔剣を抜いてみせた。

 灯りの届かない部屋の隅の暗闇よりも尚暗い、漆黒を重ねた色の刃の輪郭が、石灯の心許ない光を受けて浮かび上がる。

 傷ひとつ見つけられそうにないほど磨かれた刀身を、ゆらゆらと黒い炎が舐めていく。幻視ではない。魔法の炎だ。水の力が圧倒的に優勢なこの場所でさえも、火の元素をこれだけ集めるほどの力がある。

「死因は機密局の連中が取り繕ってくれるだろう。今日のために手筈を整えておいたのだ」

 フランツは首を横に振った。父の言っていることは、悪趣味な御伽話にしか聞こえない。

「そんな……、そんな話は聞いていません。馬鹿なことを言わないでください。後を継ぐとは言ったけれど、俺は父殺しになるんですか? ふざけるな! まだ余命が一年あるなら……」

 父は一瞬、口を歪めた。或いは、それが精一杯の笑みだったのかもしれない。

「私に怒ったところで何も変わらん。いつ死ぬかを指折り数えながら待つより、剣で死ぬほうがいい。立て、シャルル。番人の定めに刃向かうなら、この魔剣はお前の命を奪い取るだろう」

 黒い刃の切っ先が、ぴたりと喉元に迫った。

 黒い炎の向こうに、ちらちらと何かが蠢く。炎ならば熱いはずなのに、全身の血が凍りつきそうなほど寒気がした。耳を塞ぎたくなるような、嬌声と悲鳴が幾重にも重なって聞こえてくる。死霊の声だ……戦場でも機密局の仕事の時も、必ず纏わりついてくる幻聴が今は、はっきりと聞こえた。

『私達のもとへおいで。もう、しがみつかなくていい。手放すだけでいい。お前が私達をここに追いやった。お前には罰が必要だよ』

 闇の中で業火に焼かれるような、濁流に呑まれるような感覚に襲われた。

 反射的に立ち上がり、気付けば床に放り出された剣を左手で掴んでいた。抜きざまに、向けられた黒い刃を弾く。

 こんな禍々しい力を持つ祭具を使って実現する千年伝説とやらは正しいのか?

 神の恩寵なのか?

 人間には制御しきれない、得体の知れない力を与え、道を踏み外す姿を盗み見てほくそ笑むのは、悪魔なのではないか。

「番人の仕事について、何も教えてくださらないおつもりですか?」

「記憶を継げば分かることだ。他の連中も喜んで教えてくれる」

「話を聞く限りでは、皆が皆仲が良いわけではなさそうですが。その剣のことは父上からしか聞けませんよね」

「私とてマリーから何も聞いていない。受け継いだ記憶を頼りにしている」

「苦労なさったはずですよね? そんなに俺と話すのが嫌ですか? 追手が来るなら俺に守らせればいい」

「私を守りつづけられるほどお前に力があるとは思えん。もし、お前が死んだらどうする。命を無駄にするな」

「俺は死なないことで有名なんですよ。あなたが施してくださった教育のおかげで」

「ならば、その成果を見せてみろ」

 眼前に切っ先が突如現れる。微かな炎元素の揺れを感じて避けていなければ、額を切り裂かれていただろう。

「命を無駄にするなと言うなら、自分も生きようとしろ!」

 再度襲い来る刃の軌道を、受け流して逸らす。擦れ合った金属が耳障りな甲高い悲鳴を上げ、火花が散った。



***


ABT16のBGMは映画『ピアノ・レッスン』より、マイケル・ナイマン/THE HEART ASKS PLEASURE FIRST(楽しみを希う心) です。

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