(8)

 このままでは目的の住居まで辿り着けるかどうか怪しくなってきたので、二人は一旦、フランツの知り合いが近くの裏通りでやっている古書店に逃げ込むことにした。

 もともと、面倒事が起きたら当てにしてしまおうと考えてはいたが、駅で早速捕まるとは運がない。無関係な人を巻き込むことになるが、まあ、あの男なら大丈夫だろう。そう勝手に決めつけ、追っ手が来ていないことを確認すると、セーヌ川沿いの人気ひとけのない裏通りで馬車を降りた。気絶した鳥打帽の男とトランクを引きずりながら目的の店に向かった。

 その店は、山と積まれた本がガラス張りの大きなショーウィンドウまでも覆っていて、店内の様子は見えない。灯りすら漏れておらず、営業しているかどうかも怪しい店だ。しかし薄汚れた黒塗りの扉には『営業中』の札が掛かっている。

 店内に入ると、錆びた金属製のチャイムが気の抜けた音を立てた。そして、奥のほうから欠伸をするような声で、いらっしゃいと店主が言うのが聞こえた。

「アルフレド、久しぶりですね」

 フランツに名を呼ばれた男は、こちらが見える位置まで椅子に座ったまま後ろ向きに移動して、いま昼寝から目覚めたような顔でフランツを見上げた。

「……どちら様で?」

「旧友の顔、もう忘れたんですか? 酷いですね」

 彼は、フランツより一回りくらい老け込んで見える薄汚れた顔を掻くと、ずれた眼鏡を押し上げ、死霊を見たような顔つきになった。

「げっ! まさかシャルルじゃ……お前、ついに女に化けて出るようになったのかよ?」

「違います」

 フランツは鳥打帽の男を床に放り出し、電話を借りたいと頼んだ。アルフレドは立ち上がって男を覗き込むと、特に何も言わずに、埃まみれの手でレジの上の電話を指差した。

「ストラスブールで戦死したんじゃなかったのかよ。何やってんのか聞かねえけどさ、小説より奇なりってのはこういうことだぜ」

「死んだことになっていたとは思いませんでした。電話、借ります……助かります」

 天井まで積み上げられた本の山を見回していたシャロンは、鳥打帽が微かに呻き声を上げたのを認めて、どこからか出した縄で、手近にあった歪んだ椅子に縛り付けた。

「お姉さん、そのおんぼろ椅子じゃ意味ないかもよ」

「見張ってますから大丈夫」

 フランツは急いでダイヤルを回した。運良くガリウスが電話口に出た。

「いま王都に戻ってきました。ご迷惑をおかけしてすみませんが、さらにお手数をかけることになってしまいそうです」

『ああ、もう見つかったか。やっぱお前って目立つから、この仕事には向いてねえよな』

 彼は能天気な笑い声を上げた。

『で、どうする? 公夫人にとっ捕まってお縄になりたくないなら、局長から話があるんだが』

「やはりそういうことでしたか……タダで帰れるはずがないと思いました。ですが、俺が秘密をバラす可能性はお考えでないんですか? それと父は本当に危篤なんですか?」

『そう聞いてる。俺は見舞いに行けてないけどな。しかし、連れがあの子とはな、どこで拾ったんだ? 余計なことは教えてないだろうな?』

 フランツは声を潜め、ゲルマン語に切り替えた。

「……待ってください。彼女を王都に呼んだのは貴方ではないんですか?」

『あ? 局長が俺を通さずに引き込んだんなら知らねえが……局長はいま出張中で聞けねえ』

 フランツは数秒の間、黙り込んだ。

『本部までは連れてくるなよ。とりあえず地下へ回れ。誰か迎えに行かせる』

「ありがとうございます。犬を一匹捕まえましたが、連れて行きますか?」

『邪魔なら置いていけ。切るぞ』

 フランツが受話器を置くと、気絶した鳥打帽の頭をシャッター用の木の棒でつついていたアルフレドが顔を上げた。

「厄介事に俺を巻き込むなよ」

「ええ。これで用は済んだので、お暇します。ここから一番近い消火槽は何処か分かりますか?」

 アルフレドは頭を掻いた。

「んー……あー、道路を挟んだ向こう側の骨董品屋の前あたりじゃなかったかな。たぶん」

「すみませんが、念のために見てきてもらえますか?」

「はあ……いいけど、俺、殺されたりしないよな」

「大丈夫ですよ」

 彼は外出中の札を掛けると猫背のまま、のっそりと歩いて道路に出て行った。

 シャロンは外から見えない位置で彼の後ろ姿を見送った。

「どうするの?」

「別ルートを使います」

「ディアスさんのところに行くの?」

 フランツは頷き、道路の外の様子を伺った。アルフレドは向かいの古美術商の店主に呼び止められているらしい。そのすぐ近くにタバコを吸っている男がいる。この辺りの住民にしては身なりがいい。

「裏口から出ましょう。あそこにいるのは、たぶん覆面の警務官です」

「消火槽はやめるの?」

「諦めます。ここから五百メートルほど東に行けば、ポン・ヌフの橋桁の下に別の入口があります」

 レジの上にあったメモに『助かりました』と走り書きして電話代の硬貨を置くと、フランツは裏口から外を伺った。ここを抜けるのは問題ないが、橋桁の手前の通りで鳥打帽の男を抱えて走るのは、目立ちすぎる。

「どこで置いていくかな……シャロン、二人で歩くと目立ちます。少し後で来てください。俺が先に行きますね」

 そう言っている間にも、シャロンは自分のトランクをひっくり返し、そこに無理やり男を詰め込もうとしていた。

「詰め込んで川に流せばいいかなって」

 なかなかに、えげつない。どこで彼女を問いただすか思案しながら、フランツは半笑いを浮かべた。

「出した荷物は、また今度取りに来させてもらうって書き足しといてくれる?」

「わかりました。トランクは弁償します」

 どうしてもトランクの蓋が閉まらず足が出てしまうので、中途半端に開いたままでベルトを締めると、外套をぐるぐると巻きつけて誤魔化すことにした。

「いよいよ犯罪者みたいですね」

「裏社会の人が何言ってるの? 行こう」

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