(2)
早足で下宿に向かいながら、冷たい夜風に当てられて頭が冷えてくると、姉からの電話には引っかかるところがあると思い至った。姉は演技で動転してみせられるような人ではないけれども、本当に父は危篤なのだろうか? ルピナスや艦長が、近いうちに父から連絡があるだろうと予言していたが、ルピナスがシャロンと共に王国に戻れるよう計画していた通りに事が運んでいる気がしてならない。
実は一昨日、電話とは別にガリウスから帰国を促す手紙も届いていた。
匿名の送り主からだったが、機密局のガリウス・ディアスからだとフランツには分かる暗号が使われており、年内に一度王都に戻ることはできないかと綴られていた。フランツの身を狙う公夫人派の目を誤魔化すための工作はできているということと、帰る際には偽造パスポートが入った封筒をティタン中央駅の忘れ物預かり所で受け取るようにと指示されていた。
ガリウスがルピナスを介さずに下宿に直接送ってきたので、彼女には相談すべきではないだろうと思い、黙っていたのだ。
彼はフランツの意思を尊重するような書き方をしているけれども、それは実質、命令だった。拒むつもりはないが、用件が一切書かれていないことに何やら嫌な予感がした。バーを出る前に、ガリウスに一度確認の電話を入れておけばよかったと後悔した。
電話と封書、どちらも自分を王国に連れ戻そうとしている。どちらかが罠だったりしないだろうか?
いやいや、とフランツはかぶりを振った。封書には機密局の透かし模様入りの便箋が使われていたし、あの乱雑な字は間違いなくガリウスのものだ。だから怪しいのは、やはり電話のほうだ。ならば、ガリウスの指示に従って一旦機密局に身を潜めつつ、父の容態についての真偽を確かめるほうが安全だろう。
フランツは下宿に戻ると、入管にバレずに持ち込める、靴に仕込めるナイフと髪止めを模した暗器を用意し、変装用の衣装を鞄の中に詰め込んだ。
万一の場合に備え、証拠らしい証拠が残らないよう、普段から下宿に物は置かないようにしている。だから、小さなトランクに所持品のほとんどが収まってしまった。この街には仮滞在しているだけのつもりだったのに、ここにいる証明がトランク一つぶんしか無い。そのことに、なぜか寂しさを感じている自分がいた。
本当に無事に王都まで帰れるだろうか?
父に会いたいわけではない。あの軍人の鑑のような屈強な男が、病室で生死をさまよっている姿が全く想像できないのだ。
ときおり鉄道駅の近くを歩くとき、線路が続く先のことを全く考えないわけではなかったが、二度と踏まないかもしれないと割り切っていた土地を再び歩く自分の姿もまた、うまく想像できなかった。
いつの間にか、ティタンという不思議な街に染まってしまっていたのかもしれない。
また戻ってこられるのだろうか。心残りなどないはずだ。なのに、後ろ髪をひかれるような気がするのは何故だろう。
この異郷の街への執着心が自分の中に生まれていたこと、そしてそれは主にこの街で出会った人々に対するものであると気づき、フランツは口元を歪めて笑った。人間なんて自分自身も含めて嫌いだった。俺は一体どうしてしまったんだ。
軋む扉を押し開け、再び冷たい夜の外気に紛れ込むようにして駅へ向かった。
「申し訳ございません、客室は一部屋しか残っておりませんで」
ティタン中央駅の窓口で駅員からそう言われ、フランツは青ざめた。主に迎賓が使う豪華な客室は、普通の部屋の約三倍の値段だ。料金は、あとで機密局から支給されるのだが、この金額を目にしたガリウスがどんな顔をするか。
「ほかのランクで空いていたりしませんか?」
「申し訳ございませんが、この便ではこちらの一室が最後です」
悩んだ末に隣のシャロンを横目で見ると彼女は頷いてみせ、「その部屋で」と短く答えると、乗客名簿に名前を記入した。
国境をまたぐ鉄道では、入管を問題なくクリアしていても、犯罪防止のために再度身元を確認される。身分証を要求されたので、フランツは先程忘れ物預かり所で手に入れた偽造パスポートを出した。特に問題もなくクリアすると、二人で急いで列車に乗り込んだ。
客室はさすがに豪華だった。実家を離れて随分と経つフランツにとっては、きらびやかな調度品に囲まれるのは久しぶりで、目が眩みそうになったほどだ。
だが、券を購入した時点では気付いていなかった重大な問題があった。ホテルの一室より少し狭いくらいの、快適そうな部屋の中央を陣取る家具に。
「ベッドが……一つしかない」
「ダブルだからね」
シャロンが硬い声で答えた。
「俺はソファで寝ます。慣れていますし」
「あ、うん。いいの? ありがとう」
鍵をしっかりと締め、荷物を置くと、二人はとりあえずソファに落ち着いた。なんだか、めちゃくちゃ気まずい。
「何か飲み物を入れますね」
フランツは据え置きのクーラーボックスを開けた。中にはワインやウイスキー、発泡酒や果実酒まで揃っている。
「さすが豪華客室だね」
覗き込んだシャロンが感嘆の声を漏らす。
「私はやっぱりサイダーかな」
「せっかくなんですが、何かあったときに備えてアルコールはやめておいたほうがいいかと。すみません」
「あ、うん。そうだね」
二人はジュースを飲みながら、王都から先の移動予定を考えることにした。
この列車の終点である王都の中央駅から機密局のある区域までは半刻ほどで、さほど遠くはない。だが、人目を気にするなら公共交通機関よりは馬車を使うべきだろう。従って、一時間ほどはかかると見ておいたほうがよい。
「駅に着くのが明日の正午過ぎなので、何か食べるものを買ったら駅のロータリーに行きましょう。目立たない服装も持ってきました」
トランクには、王都の中流市民が着るような服装を詰めてきた。
「ただ、難関が駅の入管です。いくらなんとかすると言って下さっていても、どこまで当てにできるか分かりません。人相で押さえられる可能性が高いです。微妙に髭でも生やしますかね……」
しばらく考えこんでいたシャロンは、パスポートの偽名は何なのかと訊いた。
「クリス・シュバルトですが」
彼女はパッと顔を輝かせた。
「クリスなら、男女どちらでもいるよね」
「……え?」
嫌な予感がした。
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