(3)

「化粧ならしてあげるし、私の大きめの服を着ればいいよ! 使えるかもと思って持ってきたんだ」

 シャロンは嬉々としてトランクから薄紫色のワンピースを引っ張り出した。フランツは青ざめた。何故こうなる! ワンピースにはレースやフリルはなく、体型が出にくいデザインだったが、首まわりが見えてしまう。それだと、さすがに男だとバレるだろう。

「ちょっと無理がありますよね」

「えー……じゃあ服はフランツが持ってきたやつでボーイッシュな感じでいくとして、髪型を可愛くしてあげる。編み込みなんてどうかな」

 シャロンの目はキラキラと輝いている。

「何で、そんなに嬉しそうなんですか」

「私、一人っ子だから、小さい頃はお姉さんか妹が欲しかったんだ。髪の編みあいっことか憧れてて。フランツの髪って綺麗だよね」

 相変わらずの距離感のなさで髪に触られ、フランツは後ろに身を引いた。

「あの……近いです」

 シャロンは不服そうな様子でフランツの目を見上げた。

「誰がデートしようって誘ってきたの?」

「俺ですけど、これはデートじゃなくて」

「やっぱりフランツって、めちゃくちゃ奥手だな?」

 そう言いつつシャロンは体を寄せてくる。そのせいで体温が急激に上がる。アルコールは一滴も摂取していないから、言い訳にはできない。

「そんなんじゃ、私の頭からあの人を追い出せないよ」

 フランツは怖いくらいに澄んだ翠色の瞳から目を逸らした。が、今度は別のものが目に入ってしまい、目のやり場に困って視線を彷徨わせた。彼女はティタンの若い女性がよく着る、襟ぐりが深いシャツを着ている。そのせいで、ふとした拍子に中が見えそうになるのだ。

「あー、えっと、俺はこのソファで寝ますが、明日に備えてあちらのベッドへどうぞ」

 だいたい今は、呑気にこんなことをやっている場合ではない。もし気楽に旅行している状況なら、願ったり叶ったりなのだが。

 しかしシャロンは引き下がらなかった。エスメラルダで一口二口酒を舐めただけなのに、酔っているのだろうか。

「ほう? 何を考えてるの? あ、分かった。私のことが好きなら、夜は私をオカズにしたりするわけ? ん?」

 危険な単語が飛び出したので、フランツは顔を赤くしつつ手で制した。

「いや……あの、そういう話はちょっと」

「正直に答えなさい」

「ノーコメントです」

「それってイエスじゃん」

「ノーコメントです」

 シャロンは可笑しそうに声を上げて笑い出した。

「フランツって、いじめ甲斐があるなあ」

「師匠みたいなこと言わないでください、あと下品な話はやめてください!」

 シャロンはそれでも笑っていた。それから急に真顔に戻ると、「私にキスしてみてよ」と囁いた。

「あの人のこと、忘れさせてくれないの?」

 その声色があまりにも切実で、フランツは翠色の瞳を見つめ返してしまった。孤独の闇の底から月を探しているような瞳。それから、血色のよい頬と唇。細い首と鎖骨と、その下の少し日に焼けた滑らかな肌。

 何か言おうとして唾を飲み込んだ。が、言葉が出てこない。

 俺は君を救えない。そう悟ってしまった。

「変な顔!」

 シャロンはいつもの表情に戻ると、吹き出した。

「キスくらい、さっと出来ないかな。したいと思わないの?」

 緊張感から解放され、フランツはため息をついた。

「したこと、あるんですか? ……そのくらい、ありますよね」

「内緒。そっちはどうなの」

「ありますよ」

 アメリーの小悪魔的な微笑みが思い出され、フランツは目を逸らした。

「ふうん? じゃあ尚更、怖がる必要ないじゃない」

「キスしたくらいで好きな人を忘れられるとは思えません。余計に傷付くだけですよ。そういうことはしたくないんです」

 シャロンは、いきなりフランツの鼻先に指を突きつけた。何事かと思って注視すると、彼女は人差し指と親指で輪を作り、勢いよく弾いた。

「いって!」

「来るならグイグイ来てくれるほうがいいのに!」

「な、何で怒ってるんですか」

「怒るよ! お膳立てしてもこれだもん。奪ってやろうって思わないの!? ばか! もう知らない」

 子どもが癇癪を起こして今にも泣き出しそうな時のような表情を目にした途端、堰き止めていた感情が心を支配した。

 シャロンの腕を掴むと、そのままソファに押し倒す。勢いに任せたせいで高級なソファは軋み、彼女は抵抗すらできずにソファに沈み込んでしまった。あと一センチもない距離で彼女は目をいっぱいに開いている。

「ちょ、ちょっと待って」

「じゃあ五秒だけ待ちます」

 触れそうなほど長い睫毛が落ち着かなさげに上下する。この瞳が自分だけを捉えているという事実を理解すると、痺れるような甘い痛みが胸の奥から湧いてくる。

 頭の片隅では、こんな時にこんなことをしていていいのかという声がガンガン鳴り響いていた。だが、今できることなど何もない。自分にはどうしようもないことを忘れてしまいたいのは、フランツも同じだった。

「目を閉じて」

 噛み付くようにキスをした。

 きっと彼女は、あの男からこうされることを夢見る少女だった。そして今もずっと、その想いに囚われている。

 二人が共に過ごしてきた時間には敵わないし、彼の代わりにだってなれない。だからといって、ただ待っているだけなんて、やってられるか。

 君のいいところに気付いてもいないあいつなんか、くだらない恋に溺れてゲームだの何だの抜かしてるバカのことなんか、さっさと忘れろよ。

 ――あなた、腹が立つほど綺麗な顔ね。むかつくわ。その涼しい表情もむかつく。全部壊してやるわ。聖人みたいな生き方はさせてやらない。たとえば……そう、あなたは嗜虐趣味がお似合いよ。知ってるわよ、隠れて野生動物を捕まえては殺してる貴方の表情――

 ああ、そうだったっけ。他に発散方法がなかったんだよ。追い詰められて絶望した時に見せる表情は、動物も人間も変わらない。

 美しくて愛おしい。

 唇を離すとシャロンは荒く息をつきながら、肉食獣を前にした草食動物のように震えていた。そんな彼女は、壊してしまいたいほど可愛かった。

「ね、ねえ、やっぱりキスだけじゃ済まない?」

「これで終わりですよ」

「でも、私逃げられないじゃない」

「逃げたければどうぞ」

 フランツは笑いながら、掴んでいた手を離した。

 逃げられるはずがない。

 時に人は、支配されることに快感を覚えるものだ。

 愛なんて知らない。自分が知っているのは、支配し支配される関係だけだ。父とも、アメリーとも。

「頭からあの人を追い出したいんですよね。それには刺激がないと。こういうのは平気ですか?」

「え……あ、」

 開いた唇に舌を沿わせる。はじめのうちは強張っていたシャロンの身体からだんだん力が抜けていった。

 息をつきながらシャロンは悔しそうに「いいよ」と言った。

「何がですか?」

「言わせないでよ」

「本当にいいんですか?」

「だって、フランツが……そういうキスするから」

 シャロンは両手で顔を覆った。

「やっぱりバーテンダーは3Bだったんだ」

「何ですか、それ?」

「遊び人が多いから付き合っちゃいけない職業の頭文字!」

「俺は女性で遊んだりしませんよ。だいたい師匠からお前はダメだってずっと言われてますし、ちゃんと女性とお付き合いしたこともありません」

 事実を言ったのに、シャロンは疑わしそうな顔でフランツを見上げた。

「奥手なフリして、相手が気を許したら襲いかかる感じじゃん。聞いてない」

「煽ったのは、あなたなんですが。もう寝ましょう。明日は忙しくなるので疲れが残ると良くありません」

「なっ……ここまでしといてやめるの?」

「はい」

 シャロンは唇を噛んだ。悔しそうな表情を見ていると、くらい悦びが込み上げてくる。蓋をしていた感情を引きずり出した罰は受けてもらわないと困る。

 クズだ、俺は。洞察力に優れた師匠は、そのことに気付いているのだろうか。

「分かった……私が思ってたより、フランツが上手うわてだってことが」

「上手?」

 シャロンはフランツの襟元を掴んで引き寄せた。

「私のほうから降参するように計算してる」

 その瞳の中に微かに、けれど確かに劣情がちらついているのを見て取り、フランツは彼女の両脚の間に膝を入れた。

「いえ。計算外です」

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