ABT9. ultramarine blue

(1)

 珍しく雪が降っていない、比較的暖かい夜。ふらりと現れた男性客は微かに硝煙の香りをまとっていた。

 見覚えがある――いや、忘れようがない。どこかくたびれた風の赤毛の男性の姿を認めたフランツは、「ルメリ、艦長さん」と挨拶しつつ一番奥の席を勧めた。彼は横目でフランツをとらえると口元に笑みを浮かべ、お気に入りのすみっこの席についた。

 裏の部屋で何か作業をしていたルピナスは、カウンターに戻ってきて彼の姿を認めると、笑顔で遠慮なく辛辣な言葉を浴びせた。

「あら、レオンさん。お一人ですか? それにしても今日は汚い艦長さんですね! なんだか髪が普段以上にボサボサですよ。硝煙臭いし、帰ったら、ちゃんとシャワーを浴びてくださいね」

 親愛と皮肉が入り混じった歓迎の言葉に、彼は口元を歪めて笑った。

「気が向いたらね」

 少女は、お決まりの両手を腰に当てるポーズで彼に詰め寄った。

「ダメですよ、そんなんじゃモテません! まあ、あなたはそんな格好でも引き寄せ体質ですけどね。どちらかというとメンヘラ製造機ですが」

「何それ?」

「いいえ、なんでもありません。それより出張前にわざわざ来てくださったんですね? 明日出発なのに大丈夫なんですか?」

「常連のつもりだし、挨拶がてらね。ま、寝てても誰か叩き起こしてくれるんじゃないかな」

 どこか投げやりな調子は相変わらずだ。まだ三十代前半なのに擦り切れた感じが、一部の女性の母性本能をくすぐるのかもしれない。

「部下を使用人扱いしちゃダメです」

「知ってる」

 ルピナスは大げさに溜め息をついた。フランツは二人の会話に割って入ることにした。この二人を放っておけば、延々と同じ調子で続きそうだからだ。

「何になさいますか?」

 艦長は日によって飲むものが違うと師匠が言っていた。彼は悩む素振りを見せつつ、メニューに目を落とした。

「パラダイス・ロスト」

 これはまた強いカクテルだ。フランツは冷蔵庫からスピリタスとアップルジュースの瓶を取り出した。

「レオンさん、最初から飛ばしすぎないでくださいね。すぐ寝られたら、私たちヒマになっちゃいます」

「いつもそんなに話してないだろ?」

「グダグダと失恋の恨みを話してらっしゃいますよ? あと出張前に、いつものお仕事をお願いしたいんです、図書係さん」

 ルピナスは裏に引っ込むと、よろめきながら重そうな段ボール箱を抱えて運んできて、カウンター入口の床に置いた。フランツは顔をしかめた。

「重いものを運ぶときは俺に言ってください。その歳でギックリ腰になりますよ」

 てっきり怒るか反論するかと思ったが、彼女は上目遣いで得意気に「ふふん」と笑った。上目遣いだけなら結構良かったのだが、残念ながら彼女にそういった可愛さを期待することはできない。

「膝をちゃんと使えば大丈夫なんですよ。それよりカクテルを作る途中で手を止めないでください。レオンさん、寝る前に来月のオススメ棚を作ってください。お礼は最初の一杯です」

 フランツは箱の中を横目でちらりと見た。中古と思われる、少し日ヤケしたペーパーバックが大量に詰まっている。艦長のすぐ脇の壁際にある本棚のオススメコーナーには、どうやら彼が選んだ本が並んでいるらしい。ここに来た頃は、バーに来て本を読む客はいるのかと気になっていたのだが、意外と棚を眺める客は多い。シャロンもその一人だ。

「いいけど。テーマは?」

「そうですねえ、十二月ですから心が温まるもので!」

 フランツは会話を邪魔しないように、そっと金色のカクテルを差し出した。艦長は礼を言いつつグラスを受け取ると、ほんの少しだけ口に含んだ。

「心温まる、か……それなら童話にでもすればいいんじゃないかな。流行はやってはすぐに消える、当世風の軽いラブストーリーなんか僕は読まないしね」

 そう言いつつも、彼は箱の中から数冊を抜き取ってカウンターに積み上げた。

「どれも読んだことがないけど、みんなハッピーエンドが好きだろ?」

「あらまあ……今日は随分とご機嫌斜めですねえ」

 小さな師匠は少し背伸びして、積まれた一番上にあった本を手に取るとパラパラとめくった。古本特有の匂いがフランツのところにまで広がってくる。

「そうかな。いつもこうだろ」

「それでは、帰り際にまで射撃場でストレス発散した理由をお聞かせくださいな」

 艦長は数秒間ルピナスを見上げていたが、黙ってカクテルを飲み干した。

「そうだ、私よりもフランツさんのほうが話し相手としては適しているかもしれませんね?」

 急に話を振られたフランツは面食らった。

「いや、お悩み相談は師匠に。俺はそういうの、得意じゃないんで」

「男性同士のほうが話が通じるのでは? 女性がらみのお話なら、特に。お二人とも失恋のプロですからね」

 彼女はニヤニヤ笑いを隠そうとしているようだが、全くもって隠せていない。フランツは無言で眉間に皺を寄せた。効果はない。

「言ってくれるなあ」

 艦長は自嘲気味な半笑いを浮かべつつ、またメニューを眺めている。

「クーブラ・カーンにしよう。ルピナスに問い詰められる前に寝たほうがよさそうだ」

 フランツはラムとオレンジジュースの瓶を取り出し、大きめの氷を入れたグラスに注いだ。

「そもそも、俺よりもブレンさんのほうが、いい聞き手ではありませんか?」

「いや、あいつはリア充だから。僕の話はバカにするよ。いい加減諦めろって」

 リア充? と首を傾げたフランツに、ルピナスが意味を説明してくれた。広義には、現実社会で充実した人付き合いや、趣味の活動をしている活発な人のことで、狭義には恋人がいる人のことを指すらしい。

 艦長は琥珀色アンバーの海に浮かぶ氷山を、つまらなさそうに見つめた。

「諦めなんか、とうに通り過ぎたんだよ。僕は、あの人を好きでいる以外に生きてる理由が見つからないだけだ。それ以外に長く続いたものはないし、ほかに取り柄も何もない」




***


今回のBGMは ブラームス/ヴィオラソナタ第一番ヘ短調 作品120-1 第一楽章です。

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