第8話

 その明日が、やってきました。


 昨日程ではないにしろ、今日も嫌がらせのように「事務手続き」を課され、私は辟易としながらも、黙々とそれに取り組みました。これを終えさえすれば、妹に会えるのです。


 しかし、会ってしまえば、それきりになる。


 手続きを早く終わらせたいような、終わらせたくないような、何とも言えぬ心持ちのまま、作業を続けました。けれど、今日という時間は待ってはくれません。だとすれば、こんな意味のない作業はさっさと終わらせて然るべきです。


 例のごとく、事務員からの質問を終え、ついに妹に会う時が来ました。


 妹の部屋の前。


 私は目を閉じ、息を整えました。


 三日目の更生プログラムを終えた妹。プログラムの内容を、私は知りません。


 部屋の向こうには、一日目のような幼い妹が待っているのでしょうか。それとも二日目の、空虚に宙を見つめる妹でしょうか。はたまた……


 部屋に入ると、しかし、妹は元気に───そして忙しなく立ち回っていました。


 あちこちに本を広げ、ひたすら読みふけっています。一冊に釘付けになっていたかと思えば、弾かれたように立ち上がり、こんどは向こうに広げた本を読み始める、そんなふうです。


 私は驚きのあまり、声をかけることを忘れていました。

 妹が生前、本を読んでいる姿など見かけたことがなかったのです。


 いまここにいる彼女は、一体誰なのでしょう。


 すべての自信を失いかけたそのとき、彼女が私に気が付きました。


「お姉ちゃん」


 しっかりとした口調でした。良く知っている、口調でした。


 私はほっと胸をなでおろしました。


 けれど、妹はそれきり、こちらを向こうとしません。また、本を読み始めます。その姿は、それはもう熱心なものでした。


「何の、勉強をしてるの?」


 そう、妹はまさに「勉強」をしている風なのです。


「うん……」

 妹は、私の質問に上の空です。


 いつの間にそこにあったのか、真っ白い壁にかけられた真っ白な時計が11時半の鐘を鳴らしました。


 妹がぱっと姿勢を正します。


「急がなきゃ」


 そう言うなり、さらにスピードを上げて本を物色し始めます。右手で本を漁り、選んだ本を左手に収めます。すでに、持ちきれんばかりです。


「ねえ、ちょっと」


 声をかける私には見向きもしません。


 向こうに、何かゲートのようなものがあるのが見えました。それは、空港で目にする金属探知ゲートを思わせました。


 あれがあの世への入口なのだと、直感しました。


 ゲートの枠が光り出し、妹はさらに慌てます。


「急がなきゃ、急がなきゃ」


 何を、そんなに急ぐことがあるのでしょう。

 私が、あなたが去ることを嘆く姉がここにいるというのに。

 妹は私に背を向け、こちらを見ようともしません。


「やめて、嫌だ」


 駄々っ子のように喚いたのは私です。


 感情の波が、思いが、理性のダムを超えました。


「やだ、やだ、やだ」


 私が叫んでも、妹は動きを止めません。

 私は助けを求め、事務員に縋りつきました。


「どうして、どうしてあの子なの! 私が死にます。代わりに死にます。だから、どうかあの子を生かしてください。どうか、どうか、お願いします」


 しかし、事務員は言うのでした。


「できません、これが天の意思なのです」


「天の意思がなによ! そんなの知らない! 妹を返して! すぐに返してよ!」


 事務員の目は、うつろなものでした。私は今初めて、この事務員の目をまともに見たのだと思い当たりました。それは昨日見た妹の目と、何も映そうとしないあの目と同じでした。


 それに、と事務員は吐き捨てました。


「死を受け入れたのは彼女自身です」


 私は、ぴしゃりと雷に打たれたように静止しました。


 神社仏閣を営む者の血族だけに許された、よみがえりのための四箇条。


①その者が、誰かをかばって、あるいは、その者に全くの非なくして命を落とした場合。

②その者が、よみがえりに値するだけの価値を、今後、この世で見いだせることが決まっている場合。

③その者が、生きる意欲を手放していない場合。

④その者が死んで1日と半日以内に、『よみがえりの議』が天に受け入れられた場合。


 妹は私と同じ寺の孫です。よみがえりの資格を有します。


 交通事故は、飲酒運転のサラリーマンにより引き起こされました。自殺ではありません。妹の死は、妹のせいではありません。①の条件を満たします。


 妹は将来有望なコピーライターでした。妹が紡ぐ言葉は人々の心を癒やします。妹はこの世に価値のある人間です。②の条件も満たすはずです。


 母は妹が死んですぐ、『よみがえりの議』を唱えました。④の条件も満たします。


 しかし……


③『その者が、生きる意欲を手放していない場合』


 この条件が、満たされていませんでした。


 妹は、どうやらもう、この世で生きるつもりはないらしいのです。次のステップへ進むのだと、妹は事務員に言いました。

 死ぬのに次のステップへ進むとはどういう意味でしょう。それは『転生』を意味しているのでしょうか。


 一日目にここへ来た時に知った事実でした。けれど、私はその事実を受け止められませんでした。知らぬふりをし、母にも伝えなかった………


 頬を、涙が伝いました。

 妹が死んで、初めて泣きました。 

 妹は、私を置いていってしまう。

 私は小さな子供のように声をあげて泣きました。


「嫌だ、嫌だ、お願いだから行かないで」


 へたり込んだ私に、しかし、妹は曇り一つない晴天のような笑顔で私に笑いかけるのでした。


「じゃあね、お姉ちゃん」


 妹はゲートの向こうへと消えていきました。


 一度も、こちらを振り返らずに。

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