79・悪質な宿屋

「グルセット。知り合い?」

「知り合いも何も、彼とは良きライバルであり、親友ですよ」


 私の言葉に男が仰々しい態度で答えてくれたけど、無視してグルセットの方に視線を向けなおした。


「奴はランジェス。高級宿街方面に近い場所に店を構えてる男だ。この町でもそれなりに大きな宿で、一般客から貴族まで、幅広く受け入れる事が出来る程の部屋を用意している」

「エールティア様。それは多分……」


 グルセットの言葉を聞いたジュールが私にだけ聞こえるように小声で話しかけてきた。

 私の方も少しは心当たりがある。それは多分――『魅惑の夢宿』って場所だと思う。中に入ったら、従業員が私達を下に見るような視線をしてきたから、非常に不愉快だったのを覚えてる。


 それを我慢しても満室だったのがまた尚更。


「ご紹介預かりました。ランジェス・シークと申します。お嬢様方。こんなあばら屋みたいな場所で泊まるのはお勧め出来ません。よろしかったら当宿をお使いいただければ、と」


 グルセットが反論しかけていたけど……余計な事を言う気力も起きないのか、睨むだけで留まっていた。


「それで、貴方は何故ここに?」


 皮肉で返してあげても良かったけれど、面倒だからここに来た理由だけを聞いてあげる事にした。


「ふむ。お嬢様方に聞かせる話では無いと思うのですが……まあ、良いでしょう。グルセットさん。以前お話しした事を覚えておいでですか?」


 つかつかとグルセットに歩み寄っていったランジェスは彼の耳元でぼそぼそと呟いて……また大げさに元いた位置に戻っていく。


「よおく考えておく事です。貴方の為に。そして……まだ幼い子供の為に、ね」


 出て行こうとするランジェスは、私達の方に視線を向けてきた。一応身なりはそれなりに良かったけど……世間知らずのお嬢様に見てたのだろう。その瞳には侮蔑と憐憫が浮かんでいた。


 ……間違ってないけれど、結構腹が立つものだ。


 ジュールの方もあの男が勘に触ったのか、久しぶりに鋭くきつい目で睨んでいるのを見た。


「貴女方も是非、当宿にお立ち寄りください。極上のおもてなしをさせていただきます」


 ランジェスは涼しげな顔でそれだけ言うと、この場所が立ち去っていく。

 後に残されたのは、忌々しげに扉の方を睨んでるグルセットと私達。後は不安げに視線を右往左往させているエーレンだけだった。


「……エールティア様。どうされますか?」


 ジュールのその言葉は『このままここにいては、厄介事に巻き込まれるんじゃ?』という思いが込められたものだった。

 ……適当な場所で一泊するだけの事だったのに、なんでこんな事になってるんだろう? 本当に疑問だけれど……首を突っ込んだ以上、中途半端で終わる訳にはいかない。


「グルセット。あの男はなんて言ってたの?」

「それは……」


 口籠もりながら私の方をちらちらと窺うような視線を向けてきているけれど、やがて観念したかのように話し出した。


「奴はこの宿を明け渡すように要求してきやがった。ルーナ――俺の妻と引き換えに、な。『娘さんには立派に育ってほ欲しいものですね。ですが、このままでは――』なんて大げさに言いやがって……あいつらがルーナを攫った事ぐらい……!」


 ぶるぶると拳を震わせて血を吐くように訴えかけるグルセットの目には、強い怒りが宿っている。だけどそれも……すぐに消沈してしまって、諦めが浮かび上がってきた。


「……この宿屋はな、俺がルーナと一緒に立ち上げて……ここまでにしてきたんだ。それを……!」

「戦わないんですか?」


 軽い疑問を向けたつもりなんだろうけど、グルセットには耐えられないものだったんだろう。怒りと共に思いっきり机を殴り飛ばして、自分を抑えようとしていた。


「……俺だって、戦って取り戻せるならそうしたい。当たり前だ! だけどよ、もし…….もし、俺とルーナが死んだら、残ったエーレンはどうなる? それだけは……避けなくちゃいけならねぇ。どんだけ怒りで全身が焼けそうでも、それだけは……!」


 グルセットは拳を震わせ、唇を噛み締めて……自分の感情を押し殺していた。


「……悪いな。こんな事、嬢ちゃん達に話すような事じゃなかったな」


 深呼吸して自分の気持ちを宥めたグルセットは、力無く笑った。その姿を見たジュールは、申し訳なさそうに俯いてしまう。


「いいえ。聞いたのはこちらなのだから、謝らないで」


 平和な世界でも……血を見る事の少ない場所でも、こういう賢しい連中が弱者を搾取する。知性のある生き物のなんと愚かしい事か。それを掲げ、自慢げに振り回す子供のような思考のなんて浅はかな事なのだろう。


 こういうのがいるから……私は……!


「ティアおねーちゃん? どうしたの?」


 ふと気づいたらエーレンに手を握られていて、その暖かさがじんわりと心に広がっていく。


「……なんでもないの。なんでも、ね」


 不安そうに見上げてくるエーレンの頭にそっと手を乗せて、優しく撫でてあげる。

 いつかの私が求めていたように、慈しみを込めて。

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