2 幼馴染の死、盛られた設定、それとロックバンドの生演奏
どうして恋川県恋川町の白樺城を最初の目的地としたのかというと、それは恋川駅からバスが出ているからだ。恋川駅までの道中は歩くつもりだけれど、恋川駅から先はバスで向かう予定である――その予定があるからこそ歩き続けることができるのだ、ともいえる。ずっと歩き続ける訳ではない、という事実は、僕をここまで歩かせることができる。似たようなことは他の疲れる行為にもある。終わりがあるという心地よさは、いつだって僕達の背中を押してくれる。
翌朝、起こされない。十時頃に自分で起きた僕は、親からのバースデーメッセージに返信しながら状況整理をする。整理した状況の無茶苦茶さに驚きながらとりあえず歯を磨く。パジャマから着替えた外行き姿の山間さんにおはようをする。食パンとジャムを使わせてもらう。朝のシャワーも貸してもらう。その代わりに山間さんと一緒に旅を再開することになる。
太陽の下で見る山間さんは少しだけ新鮮に見える――出会って間もないので全てが新鮮である。
恋川町のある方角を地図アプリで確認して、五月の風のなかを歩き始める。その間に僕は山間さんに旅の発端を教えてみる。山間さんに灰田さんの歌を聴かせると、上手いね、とだけ言った。僕のように滅茶苦茶響いたという訳ではなさそうだった、今のところ何か詞は浮かびそうかと訊かれた。まだわかりません、と答えた。まだわからない。現状からして普段の日常からは離れたところにいるけれど、それをどうやって作詞に取り入れて活かすかはイメージすら湧いていない。別にこの旅だけで書けるようになるとも思っていない。よしんば書けたとしてもすぐにネタ切れを起こすことだろう。
とにかく色々なことをして様々な経験を積むのが、夏休みまでの目標だ。
「ふぅん。うちをモデルに詞を書いてみる?」
「面白そうですけど、それって灰田さんに歌わせていいものなんでしょうかね」
「それもそうかな。せめて共通の友達でもないと」
「そうですね」
「書けるといいね、灰田さんに気に入られる詞。というか、灰田さんの好きなアーティストに寄せれば中身があると勘違いしてくれるって可能性はないの?」
「うぅん……」
好みにドンピシャだったら中身がある詞だと判定してくれるかもしれない。それは逆に、本当は中身と厚みのある詞ができていたとしても、灰田さんの好きなアーティストとは全然違う方向性だったら駄目かもしれない、という可能性も示している。それは前々から考えていたことだ。役立つかわからない経験を得るために奔走するよりも、灰田さんの好みをリサーチしたほうが効率的で確実的なんじゃないか?
「でも、チャンスは一度きりなんですよ。だからそれをやって、薄っぺらい劣化コピーにしかならなかった場合、駄目な上に嫌われるかもしれないと思うと」
「ああ、そっか。そうだね。じゃあ頑張って経験値稼ぐしかないね。ファイト」
それから山間さんの高校時代の話になる。聞けばすごいと思えるくらいの、有名進学校を卒業したそうだ。勉強に友情に恋に、青春らしいことをやってきたらしい。
幼馴染の男の子と付き合っていたのだけれど三年目に別れてしまって……という話題を掘り下げていくとなんだか凄まじいストーリーになっていく。
敢えて先に要約を述べるのならば、山間さんと幼馴染の児島(こじま)さんの別れは死別とセットのことだったのだ。児島さんは自殺してしまったのだ。高校三年生の夏に。
「児島くんがうちのせいで死んだんだとは思わないけれど、うちのせいで生きられなかったんだとは思う。正義感の強い人だったから。出会いだって、いじめられてたうちを助けてくれたことからだし。
付き合い始めたのは高校一年生の夏で、でもその前から両想いみたいなものだった。正式に付き合えて本当に嬉しかった。ねえ、彼氏と彼女になるのなんて理由づけのためでしかないと思わない? 付き合うことで、堂々と言えるようになる意見も、堂々とできるようになる行為もあるから。立場に付随する権利の獲得。
だから『ただの幼馴染み』だったら手を出さないような部分にまで手を出せるようになるでしょ? 児島くんは彼氏になったことで、山間家の深いところに口を出す権利もできたと思った。児島くんが山間家の問題に気づいたのは、その高校三年生の夏のことだった。むしろそのときまでよく隠し通せたと自分を褒めたいくらいだよね。まあ、隠せないくらい大きくなっちゃっただけなんだけれども。
児島くんは山間家の問題に切り込んだ。その結果どうなったと思う?
児島くんはうちのお兄ちゃんに三日間、暗い部屋のなかで否定され続けることになった。七十二時間、ずっと。うちのお兄ちゃんは読書家だからか想像力も語彙量もすごくて、そんなにやってもネタが尽きなかったって言ってた。具体的にどんなことをしてどんなことを言ったのかはよく知らないよ? でもね、児島くんはそれで折れてしまった。
遺書に書いてあったんだ。君を助けられないから別れようって。死に別れるまでしなくてもよかったのにね。
別に助けてくれなくても一緒にいてくれたらよかったんだけどね。
児島くんを殺したのは山間家だけど、児島くんが生きられなかったのは、うちと付き合ったから。正義感の強い人は、それを上回る悪意とか地獄とかに近づいちゃいけないんだよ。勝てないし、勝てなかったことをずっと引きずらなきゃいけないから」
山間さんは山間家の事情の具体的なところには触れてくれなかった――それはそうだ、昨晩会ったばかりの人間に、普通そこまで心は開かない。
「そんなことがあって、結局うちは受験勉強とか就職とかする心の余裕もなくて。山間家にいるのも嫌で、家出して。フリーターやってるときに、元夫と出会ったんだ。今の話とは別のことがあって別れてしまったけれど、死に別れるよりはよかったって、今は思う」
「……そうですか」
「詞の参考になる? こういう嫌なお話なら、うちは幾らでも提供できるよ」
と山間さんは笑った。
坂を登った。下った。歩道橋を渡った。長い横断歩道を駆け抜けた。小学校の前を通過した。大学病院の前を通過した。喫茶店をいくつか通過した。
恋川駅に着いた。十八時過ぎ。バスターミナルに向かおうとしたそのとき、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。お腹も空いていたのもあって、駅前の喫茶店のひとつに駆け込んだ。
普段の外食はファストフードが多いから、喫茶店で食べるのはとても久しぶりだった。僕はパンケーキとパフェとローストビーフを注文した。山間さんも同じものを頼んだ。店内には疎らに客がいて、スピーカーから流行りのポップスが流れていた。
食事中に山間さんが話してくれたのは夫との離婚の理由で、でもそれは児島さんの件のように濃いものではなかった。極限まであっさりとしていた。そしてだからこそ、山間さんにとってショッキングだった。
ある朝に突然、君のことが好きじゃなくなった――と告げられた。結婚から一年も経っていないのに、と目に涙を溜めながら山間さんは言った。浮気ではなかった。興信所まで使って調べても何もなかった。山間さんが妻として何か問題がある訳でもなかった。ただ、突然に『好きじゃなくなった』のだと、夫だった人は言った。それだけで、結婚生活は終わった。関係は終わった。夫は出ていってしまった。
結婚しなかったらずっと好きでいてくれたのかな、と山間さんは言った。『ゴールイン』をしたことによる満足感が妻への興味の喪失につながったという解釈をしているらしい。そんなことはしかし、有り得るのだろうか。まるで車のガソリンを使い切ってしまったから捨てていくみたいに? と僕は考えるけれども、有り得ないようなことが起こるのも人生なのだろうし、それに『そうしたことも起こってしまう』と飲み込むことこそが、世界観の拡張、経験への昇華になるのではないか。
なんて、他人の悲劇すら自分の経験値にしようなんて間違っているのではないか?
と僕が少し自己嫌悪を抱いたことを見透かすように、
「ラブソング書くときに参考にしな。リスナーに共感されなかったとしても責任は取らないけどね」
と山間さんは言ってくれた。
ありがたい。
それから彼女は僕に訊いた。
「ねえ、ところで、白樺城に着いたら何をする予定?」
「そうですね。とりあえず観光として城内の展示を見て、一番上から景色を見て……でも、そうしたら今日はやめたほうがよさそうですね」
「ああ、そうだね。予報では明日は快晴みたい」
「それじゃあ今日はどうしようか」
ということで検索などを使いつつ話し合って、最終的にカラオケに行くことが決まる。カラオケでオールってそういえばやったことがないから楽しみだ。
でもそれは叶わない。喫茶店を出て、カラオケボックスに持ち込むお菓子をスーパーで買い終わってまた外に出たとき、山間さんは男の人に声を掛けられる。
「姉さん、どうしてこんなところに」
「……悠陽(ゆうひ)こそ、どうして」
と問い返す山間さんの声音は明らかに震えている。顔も血の気が引いて青白い。服の裾を握りしめている。僕は児島さんの話を思い出す。問題のある山間家。折角脱することができたのに、今こうしてばったりと……弟? に鉢合わせてしまった。
ここは山間さんの手を引いて逃げるべきじゃないのか――そう思って手を伸ばしたとき、
「俺が帰れない間はマンションでじっと留守番をしていてくれって言ってたのに!」
と悠陽と呼ばれた男が言ったのを聞いて、理解に数秒かかる。
山間さんはこちらを見る。焦りの色。違うの、と言いたげな口元。
男は僕に言う。「えっと、君は? どうして姉さんと一緒に?」
「あの、僕は旅をしていて。それで、昨日の夜に山間さんと知り合って、家に泊めてもらって……そのお礼に一緒に旅をすることになって」
「……姉さん」山間さんの弟は山間さんを訝し気に見る。「この人の前で、どんな風に自分のことを言った?」
「関係ないでしょ!」と山間さんは怒鳴った。ずっとフラットだった彼女が、初めて腹立たしそうな表情を見せた。苛立ちと、焦り。「もういいよ、石見くん、行こう!」
「えっと……嫌です」僕は言う。「悠陽さん、ですか? あなたの話を聞いてみたいんですが」
「だってさ、姉さん。今逃げたらマンションから追い出すよ」
山間さんは怒りで爆発しそうな表情と、悲しみで砕け散りそうな表情をいっぺんにした。
僕と山間さんと悠陽さんはさっきとは別の喫茶店に入って、めいめいの好みのドリンクを頼んで、飲みながら話をした。
「えーっと、まず石見くん……でいいのかな」
「はい」
「君が泊まったあの家は俺と姉さんのふたり暮らしの家だ」
のっけからびっくりだ。山間さんのほうを見るとうつむいたまま目を合わせようとしない。
「じゃあ、夫に出ていかれたというのは」
「そんなことを言っていたんだ。嘘だよ」
「どうしてこの人はそんな嘘を?」
「ここにいる俺の姉、山間妃奈子(ひなこ)はね」山間悠陽さんは言う。「自分の設定を盛る癖があるんだ」
「設定を……盛る?」
「うん。石見くんが姉さんと出会ったとき、どんな風だった?」
「夜の公園のベンチの下で眠ってました。酔って寝ちゃったみたいです」
「その状況について、姉さんはなんて説明した?」
「ええと……酔っ払い過ぎて、離婚前と同じ行動をしてしまった、みたいな……前は夫と夜にパジャマデートをすることがあって、ゾンビのようにそれを再現した、というようなことを」
「姉さん」悠陽さんは山間さんに強い声で言った。「そもそも彼氏すらいたことないクセに何言ってんだよ」
「えっ?」と驚くのはまた僕だ。彼氏すらいたことがない? じゃあ、児島さんは?
児島さんのエピソードについて確認すると、悠陽さんは頭を抱えて、深く深く溜め息をついた。
「そんなこと起こってないよ。姉さんの幼馴染に児島なんて人はいない――高校時代の姉さんから、そんな名前を聞いたことは一度もない。山間家に兄もいないし、問題もない。いや、問題ならあるか。思い付きで設定をどんどん盛って、自分をなんだか物語を抱えた中身の濃い人間であるかのように思わせようとする長女の存在はたしかに問題だ」
「え、ええ……?」
と僕は困惑するばかりだ。騙されていたのに怒りが湧いてこないのは初めてだ。それはそれで面白い人間だとすら感じている自分がいる……まあ、案外そういう人って色んな世界にいるらしいけれど。
『こういう嫌なお話なら、うちは幾らでも提供できるよ』なんて言っていたけれど、あれは冗談でもなく、幾らでも提供できるのだろう。すぐに捏造することができるのだろう。
「姉さん。嘘ばっかりついてごめんなさいって謝りな」
「…………」
「姉さん!」
なんだか山間さんが可哀想に思えてきた。「いいですよ。謝らなくても。怒ってませんから」
「駄目なんだよ。甘やかしちゃ」
「いいですいいです。ファーストキスもらってくれましたから」
と言いながら、僕は考える。
山間さんが自分の設定を嘘で盛ろうとするのは、他人を騙してからかおうとか、同情させて優しさを搾り取ろうとか、そういう悪意からなるものではないのだろう。そんな人間が見ず知らずの未成年をマンションに泊めてくれるだろうか? 荷物も別に盗られていない。山間さんは僕から何かを奪おうとはしていない。奪ったものはファーストキスだけだ。どうしてファーストキスを奪った? 決まっている。設定を盛るためだ。彼女の言葉を借りるならば、『十八歳になった瞬間の男子高校生の唇奪った女』になるためだ。
彼女もまた自分に中身を求めている。悲しいことも辛いことも色っぽいことも抱えた、中身のある人間でありたいと思っている。でもそれは、なかなかすぐには埋まらない。空っぽの青春時代や、空っぽの現状という隙間は、嘘でもつかないとどうにもならない。そのための嘘設定なのだ。
でもそれでも、嘘をつくことは――多くの場合――間違いだ。だから山間さんはこうして悠陽さんに叱られている。結局暴かれて無意味になってしまう。仮初めの中身はなくなってしまう。
だからこそ僕は本物の経験を積んでいかないといけない。なくならない中身をこれから獲得していかないといけない。嘘の皮なんて必要のないくらいに厚い人間にならないといけない。本当になりたい自分があるのなら。
一晩中降り続けた雨が白樺城の傍の常緑樹を煌めかせていて、天守閣の展望台から眺めると素敵な宝石のように見える。予報通りに快晴の朝。雲ひとつない五月の青空はシャンデリアに例えてもいいくらいに明るい気持ちを寄越してくれる。少し肌寒いくらいの風を浴びながらあくびをしていると、背後から短い悲鳴が聞こえる。
振り向くと、城内に老婆がへたり込んでいた。僕と警備員が同時に駆け寄る。そのすぐ横を小さな黒い虫が這いまわっているのが見えた。老婆はそれを指差して、「あれ、どっかにやって」と言った。警備員はポケットティッシュを使って虫を拾い外に放った。僕は老婆が起き上がれるようにサポートした。「ありがとうございます。お兄さんも、警備員さんも」と、本当に救われたような声で言った。僕は、虫にここまでのリアクションを取る老人を初めて見た、と思った。
「もう平気ですか、おばあさん」
「ええ、ええ、おかげさまで。全く、外に行くからには気をつけないとね」
「あはは。ここが自然に囲まれている以上、しょうがないことですから。ところで、おばあさんはこれからどうされる予定ですか」
「これから? 天守閣から出て、すぐのとこにあるでしょ、お茶飲むところ、そこに行くよ」
「よければご一緒させていただけませんか。あなたともっとお話ししてみたい」
「あらお兄さん、ナンパしてるの?」
「そうでない風に聞こえましたか?」
ちなみにこれが人生初ナンパだった。
観光地としても長い白樺城の傍には、これまた歴史の長い和菓子店が食事処を提供している。こしあんの入った焼き菓子を幾つかと抹茶とみたらし団子をテーブルの中央に置いて、僕とおばあさんは向かいあって座る。
「実は僕は作詞をしているんです」と僕は切り出した。「それで最近、僕の詞には中身というか、厚みというか、そういうものがないと指摘されて。夏までにそれを獲得しないといけないので、色んな場所に行ったり多くの人と出会ったり、経験を積むためにそういった試みをしているんです」
「へえ、歌詞書いてるの。すごいね。将来は作詞家さん?」
「ありがとうございます。目指していますが、技術ばかり拡げていたら、広く浅くになっちゃったので、深めようと思ってます」
「どんなもの書いてるのかちょっと見せてもらえる?」
「ああ、はい」
僕はスマホの電源を入れて、メモ帳アプリを開いておばあさんに渡した。
「たくさんあるね」
「去年のと今年のだけでも百は超えてますから」
「じゃあその、去年のと今年のを読んでいいかな」
おばあさんが詞を読んでいる間、僕は黙々と抹茶を啜っていた。他人に目の前で自分の作品を読んでもらうのっていつも緊張する。いつか慣れたいと思う。自分のぶんの焼き菓子を食べ、抹茶を飲み切ったとき、おばあさんは僕に言った。
「読み終わった」
「え。早いですね」
「文字を読むのには慣れてるから。ねえ、このなかに恋愛がテーマの詞、二十何個かあったね。幸せだったり不幸せだったりしてるけど、お兄さん、これは自分の経験から?」
「いいえ。恋愛はそもそもちゃんとしたことがないです」
「じゃあどうやって書いたの」
「恋愛をしたことがなくても、過去に出た多くの恋愛曲、まあ千と何個か聴けば、よくある感情の流れはだいたい理解できますから」
「へえ……じゃあ、もっと多かった、前向きな……JPOPだっけ、そういうのも? 反抗期な歌詞とか、少ないけどあった、怖い童話みたいなのとかもかな」
「はい」僕は答える。「現時点で詞というものは国内のみでも数え切れないほど生まれています。歌詞のサイトや権利団体に登録されていないインディーズの曲も含めれば、想像できる数字の一桁うえくらいはあるでしょうか。そのなかの一割でも聴けば、分析して練習すれば、多様な歌詞を書くことができます」
「お兄さん、ロボットみたいだねえ。そんなの誰でもはできないよ」
とおばあさんは笑っている。引いている様子はない。
「ありがとうございます。でも、それだけじゃ駄目みたいなんです」
「まあねえ。お兄さん、たくさん詞を書いているけれど、一貫したものがないからね」
「一貫したもの?」
「うん。たくさん書くためにたくさん書いてるでしょ?」
「そうなんだと思います。粗製乱造にならないように気をつけてはいますが」
「粗製乱造ではないよ。ただ多作なだけ」
おばあさんはそこでスマホを僕に返し、抹茶に手をつけた。焼き菓子をふたつ食べて、飲みこんでから、また口を開いた。
「ねえお兄さん、あたしは思うんだけど」
「はい」
「自分で書いたもの、なんの詞か、どんな詞か、は言えるけれど……なんのために書いた詞か、どんなことを考えて書いた詞かは言えないんじゃないの?」
「それは……ええっと、高校の文芸部の季刊誌などに寄稿するために書いたり、勉強したことを身につけるために書いたりしてます。部員に出されたお題に応えるために書いたことも何度かありますね」
と答えつつ、なんだか違う気がすると僕は思う。そういう話ではない気がする。実際におばあさんは、そうじゃない、と言う。
「あたしが言いたいのはね、違うの。なんのために、どんなことを考えて……って言うのは、動機じゃないの。存在意義の話。読んでる人にどう思ってもらうために? 世界にどう変わってもらうために? 誰かに提供する詞だったら、その詞によってボーカルのどういう面を押し出すために、書いたのかって話。あるの?」
「それは、まだそこまで広い層を相手取ってませんから」
「だからこそ、今のうちからそこまで考えて書けたほうが素敵だと思うけど」
「それも……そうですけれど」
「あたしは、そこが詰まっていないのなら、たしかに、中身のある作品ではないと思うよ。きついこと、言うようだけど」
「……もしかして、おばあさん、何か作品を創ってらっしゃる方なんですか」
と発言してすぐ、なんだか嫌な感じになってるんじゃないかと焦る。あまりにも的確に『きついこと』を言われているせいで、知らず気が立っているのだろうか。だとしたら自分のメンタリティの幼さに落ち込む。もう十八歳になったのに。
「いえ、違うんです。創作者じゃないと説得力がないとか言いたいんじゃなくて」
「わかってるよ。お兄さんは優しいから、そんな意味が含まれてないのはわかる」おばあさんは、朗らかに笑う。「もう引退したけど、昔、作家だったの。木倉(きくら)昨日子(きのこ)って名前でね」
それは僕でも知っている名前だった。中学生の頃、国語の教科書で短編を読んだことがあった――本屋の文庫コーナーで、ずらっと棚差しにされているのを見た覚えもある。著者近影に興味を持てる人間だったら、顔を見ればわかったのかもしれない。
「木倉先生……だったんですか」
「筆を折った身で先生と呼ばれるのは、恥ずかしいからよしてね。おばあさんでいい」
焼き菓子はなくなった。おばあさんがみたらし団子に手を付けたので、僕も食べ始めた。食べ終わった頃、僕は言った。
「あの。筆を折ったと言うことは、もう文章を書いていないのですか」
「一応、書いていると言えば書いているよ。文章って書かなくていいときのほうがいいの浮かんじゃったりするでしょう。だからノートに書き留めたり、たまにバンドの子に見せたり」
「え、バンド? やってるんですか」
「それがね、やってるの。暇だなあって思って公園で歌ってたら、樫奈ちゃん、ああ近所の同い年の子ね、ドラム担当、その子にバンドやらないかって言われて。それで、ボーカルと、作詞のアドバイスやってるの。作詞と作曲は文恵さんっていうベースギターの子が担当なんだけれど、伝えたいことはあっても文章力に自信がないからって、校正を頼まれちゃって大変なのこれが。そのままやっちゃえばいいのにってあたしなんかは思うけれど、見せてもらったら毎回熱量はあるのに漢字を間違えたりしてて。漢字ドリル渡してもやらないから困ったものだわ本当。国語が大の苦手な老人がいるなんて実際にこの歳にならないとわからないもんだね! ってエレキギターの雪さんと苦笑いしっぱなしなんだから」
「はあー……エレキギター……」
「そう。シニアガールズ・ロック・バンド」
老婆とロックバンドという概念が上手く結びつかないのも僕の人生経験の少なさゆえのものだろうか?
韻は踏めているけれども。
詳細。『Cynical Rolling Bar(略、シニロバ)』はボーカル/ギター/ベース/ドラムの四人組からなるシニアガールズ・ロック・バンドだ。動画サイトへの投稿はしていないが、恋川県の喜井黙三丁目にあるライブハウスでは年に四回のライブを開催しており、近辺のロック好きをその度に熱狂させている。たまに町を越えて県内の小学校や公園でのイベントでも呼ばれて演奏をすることもある。むろん、その需要はそれだけの技術力と安定感があってこそ生まれるものだ。
ボーカル/昨日子(六十九歳)の声量と静と動の歌い分け、熟年だからこそのシナは、恋川を渡る絶世のディーヴァと呼ばれるほどである。そしてその魅力を感性任せの作詞曲において十全に引き出し、ライブではメロディを手堅く力強く支えるのがベース/文恵(ふみえ)(七十歳)。彼女の速弾きに追いつけるベーシストは恋川県のどこにもいない。ベース文恵の作ったトラックをなぞりつつも破壊的にアレンジするギター/雪(せつ)(六十六歳)は、最年少ではあるものの楽器経験は誰よりも長い五十六年であり、掻き鳴らすソロはさながら稲光である。そんな三人を町内からスカウトしていき『シニロバ』を結成、的確で無駄のないスティック捌きでまとめ上げているのがドラム/樫奈(かしな)(六十九歳)だ。ジャズもメタルもアコースティックライブもなんでもござれの技術力によって文恵と共にサウンドを支えている。
そして――とさらに息巻いて解説を続けようとする熱狂的ファンのおじいさんを、僕は諌める。あとのことは自分で聴いて知るので大丈夫です。
ファンかつ音楽スタジオの受付のおじいさんから解放され入室したとき、広いスタジオには四人の老婆が立ち、こちらを見据えていた。めいめいのオーラと担当楽器が呼応しているような、何も始まっていないのに少しわくわくしてしまうような、そんな空気があった。
「みんな。このお兄さんが作詞してる子」
「あらそうなのー! 頭良さそうな子ね」とひとりが言った。ベースギターを持っているから、文恵さんだろう。「昨日子ちゃんから聞いたよ、作詞を勉強してるんだってね。でも作詞なんて芸術なんだから勉強だけじゃそりゃ駄目に決まってるでしょ。感性よ感性。勉強不足でも独り善がりでも、感性の通りに書いてれば大丈夫なのよ。正義なの」
「文恵さん。あなたはもっと勉強しなさいよ」とギターの……雪さん? が言った。「いい歳して、咀嚼を咀噛とか書いてちゃ恥ずかしいんだから」
「勉強だけじゃ駄目って話よお。ねえ?」
「あはは、そうですね……」
と相槌を打ちながら僕は、『僕の感性』ってなんだ? と思う。それらしきものはあるにはあるのだけれど、勉強の過程で磨かれ削られたものだ。それだけだから、灰田さんには認められなかったのだ。むろん、感性だけでも駄目なのだが。
もしかして、僕はどこかでちょうどいい塩梅の地点まで行っていたのだけれど、そこを通り越してしまった結果が現状なのだろうか。だとしたら、そこに戻っていくというのは未到達よりも難儀だ……。
「そんな暗い顔しちゃ駄目」と横からドラムスティックで腰を叩いてきたのはまた別の老婆。ドラムの樫奈さん。「兄ちゃんかっこいいんだから気張りなさいな。前見て進みなさい。難しいことだってね、しっかりやり方を考えて取り組めばどうにかなるの。そればっかりで息詰まったなら、そのときはドラムを叩けばいいから」
「ありがとうございます。僕、ドラム叩けませんけど」
「そう。なら、目を瞑ってわたしのドラム聴いて、叩いてる気になればいいの。自己投影で陶酔するの。ロックってそういうものよ」
樫奈さんがそう言う頃には他のメンバーは各々の所定位置らしきところに立っている。
ドラムも準備完了。スリーカウント。からの四連シンバル。
僕はライブ的なものに行ったことがない。ライブ映像も視聴したことがない。当たり前だ、僕は歌詞を知るために曲を漁っているのだ。CDなどの音源のほうが、何を言っているか聴き取りやすいに決まっている。ライブ映像を視聴する時間で別の曲を聴いたほうが得だ。
だから、昨日子さんに「お兄さん、暇ならこれからスタジオだからちょっと聴きにこない?」と言われたとき、喜んでついていくフリをしていた。目の前で演奏されるよりは、作っているらしいCDを買わせてもらって繰り返し聴いて歌詞を頭に入れたほうがいい――なんて、内心では思っていた。
でも、実際に『シニロバ』のプレイが始まり、ボーカル/昨日子の歌が始まったとき、自分の認識の間違いを知った。
生演奏。生の歌唱。データ越しではない、肉と骨を持った目の前の存在がこちらを向けて歌う、ドーパミンと人生をリアルタイムで乗せて詠う、そうして直に届けてくれる言葉達。メッセージ、それに寄り添うのではなく同時に駆け寄るサウンド。サラウンド。文恵さんが感性の通りに書き、昨日子さんがより正しく届くように手を添え、こちらに向けてがなる正義のリリック。
こんなの、技術だとか文法だとか、冷静にロジカルに分析するなんて、できやしない。そんな冷静な過程をすっ飛ばして、胸に直接飛び込んでくる。
僕は理解する。どうして昨日子さんは僕をスタジオに連れてきて、『シニロバ』のライブのようなものをやってくれたのか。
歌詞はメッセージなのだ。系統や傾向に沿ってさらっと書いたり、学習と練習を重ねて上手く書いたりするものではないのだ。伝えたいこともないのに書くものではないのだ。くしゃくしゃな笑顔で顔を真っ赤にして叫んでしまうほどに伝えたい・届けたい・響かせたいメッセージが先にあって、それを発信する手段が作詞なのだ。そのメッセージこそが中身であり、厚みなのだ。だから、そのメッセージを伝えたい衝動のままに、感性のままに書くことは正義だ。そして勉強は、それをより正しくわかりやすく伝えるためにするものだ。歌詞のために勉強があるのではなくメッセージのために勉強があるのだ。
『表面は綺麗で上手ですが厚みがないんです。作業的なんですよ』と灰田さんは言った。作業的な作詞。メッセージのない歌詞。昨日子さんの声と共に届けられる文恵さんの詞はメッセージに溢れていて、作業的に書いた詞だとはとても思えない。そこには文恵さんの想いと祈りがある。怒りも叫びもある。悲しみと愛だってある。
いやさ、僕が勉強のために聴いてきた数多のアーティストたちの詞もきっとそうだったのだ。メッセージに溢れていたはずなのだ。でも僕はそれをただの作例として消費してしまった。『お兄さん、ロボットみたいだねえ』と言った昨日子さんは正しかった。僕の作詞なんて人工知能に同じだけの歌詞をインプットさせればできるだろう。
そんなことじゃあ、『シニロバ』どころか、無難なだけの言葉が介在しないヴォカリーズとハミングにすら太刀打ちできない!
僕は伝えたいことを見つけないといけない。それは経験から手に入るものなのだろうか?
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