シーグラス、それと意義ある歌詞のこと

名南奈美

1 薄っぺらい僕の詞、後輩女子、それと十八歳のファーストキス





 僕は作詞家になりたい気がする。

 とりあえず手元のCDだとかウォークマンに入れている曲だとかの歌詞を読み漁って参考にして、スマホのメモ帳アプリを開いて数パターン書いてみる。中学二年生の夏休み。深夜二時、夜更かしのいよいよ眠気が引いてくる時間。両親はもう眠っている。宿題はもう終わっている。

 失恋ものと、前向きっぽいものと、男性アイドルが歌ってそうなキザなものを書き上げる。達成感がある。でも同時に、羞恥心もある。どちらかというと冷めた中学生だから、自分の書いた詞が商業どころか作品投稿サイトにもアップロードしてはいけないクオリティの代物であることをきちんと理解している。客観視ができる。どうすればよくなるかは、まだよくわからない。

 メモを端末に保存。スマホをスリープモードにして、充電コードに繋げる。眠れないのでDSで音を出さずにゲームをする。でもその間、さっき書いた恥ずかしい詞の、それでもなんだか素敵に書けたと思える一文が頭をぐるぐるしている。それはとても心地よい。自分以外の誰かが読んだらそれは、自分に酔っているような、カッコつけただけの意味不明な文章なのかもしれない。でも自分のなかでは名文なのだ。

 次の日からも作詞を続ける。色んな詞がメモ帳に書き溜まっていく。タイトルを考えたり考えなかったりする。たまに読み返して、思い立って推敲をしてみたりもする。歌詞カードのフォーマットに則って作っているけれど、メロディはつけていないから歌える訳ではない。よくよく考えたら、書いているそのときには脳内にメロディのようなものがあった気がするが、書き終わって保存をして数十分もすれば忘れてしまう。それならば詞というか詩を、リリックというよりポエムを書きたいんじゃないか? と思ってやってみるけれども上手くいかない。そもそも歌詞のまとめサイトは閲覧するが詩集などには興味がないのだ。インプット欲求の差。大人しく書き続ける。百作を目標にしてみる。

 物語詞、アンサーソング、詞を書くことについての詞、とどんどん色んな詞に挑戦しているうちに百二作。その間に時間は進んで中学三年生。高校受験があるから書く時間はなくなる……と思いきや、そんなことはない。そう何時間も勉強に集中できるタイプじゃないからこまめに休憩をはさむ。その休憩時間が作詞にあてられる。

 無事に高校に合格する。やったね。

 入学準備をしている春休み中に、いやそろそろ作詞とか卒業したほうがいいんじゃないの? と自問。高校デビューはとくに考えていない。恐らく友達ができにくい人間ではないはずだから、無駄に頑張る必要はない。でも詞についてはそろそろやめておいたら?

 なんでそう思ってしまうのかについて考える。すぐに答えは見つかる。

 つまり僕は自分の作詞活動を恥ずかしいものだと感じているのだ。スマホを見つめて文章をこねくり回して一銭にもならない詞を書いている自分のことを、そんな自分が好きな僕のことを、うっすらと恥じているのだ。

 たしかに、今のところはバレてはいないが、高校に入学したあとなんらかの拍子にこの趣味が発覚したらどうしようという気持ちはあって……そしてその気持ちの存在こそ、自分が作詞を恥じているという証拠だ。

 そんな恥ずかしい作詞行為を、卒業するべきだろうか?

 いや、卒業する必要はない。

 だって、世の中には作詞を生業としている人もたくさんいるのだ。作詞だけで食べていける人はほんの一握りらしいけれど、その『ほんの一握り』だってひとりひとりの人間だ。大人になっても中年になっても詞を書いて堂々と全国へ流通させている人間がいるのだ。

 いやさ、詞を書くことは別に作詞家の専売特許ではない。シンガーソングライター、アイドル、バンド音楽、演歌、オペラなど、色んな人から支持を受けているヒットソングにだってそこには作詞という行為が噛んでいるのだ。それらの曲について語られるときに、「でもこのミュージシャン、いい年して作詞なんてしちゃって、恥ずかしいよね」なんて笑われることは少ないだろう。

 ならば別に作詞は恥ずかしいことではない。

 じゃあどうして、詞を書いていることは周囲に広められたくない恥ずかしいことである、とつい思ってしまうのか? といえば、それはいわゆる、『あるあるな黒歴史』の範疇だからである訳で――そして黒歴史というのは、その時期から脱したあとに振り返ってみて初めて認識するものであって。

 ならばずっと、何歳になっても、大人になっても『その時期』から脱しなければ――黒歴史にはならないのではないか。

 そう考えると、むしろここで辞めるのは悪手だ。続けていくことこそが黒歴史ではなくさせるのだ。もしも大人になって作詞で生きていけるようになったら、去年から今まで書いてきた詞も長い軌跡のはじまりの記録となるかもしれない。

 気づくと作詞家になることを夢見ている自分がいるが、まあ、何も夢見ていないよりはずっといいんじゃないだろうか。そのほうが、高校時代にやるべきことも定まってくるだろうし。

 そんなこんなで僕は作詞を続けたまま、地元の公立高校に入学する。中学校時代に続いて帰宅部でいるのも暇なので、何か部活に入りたい。ひとまず軽音楽部の仮入部をしてみる。そこで僕は自分が楽器の演奏や編曲にあまり興味がないことに気がつく。本当に詞だけに興味津々なのだ。

「あの、作詞係とかありますか。作詞をやりたいんですが」

 と部長さんに訊いてみる。すると部長さんは少し困った顔で、

「ああ、ごめんね。うちの部、基本コピーバンドだから。オリジナルはたぶん、やっても卒業ライブで企画としてあるかないかじゃないかな? それに作詞だけの係だと、練習の日に暇だと思うよ?」

 と優しく答えてくれた。

 軽音楽部は向いていないとわかったので、じゃあどうしようと悩みながら他の文化部を巡る。いっそ趣味とは別に健康管理として運動部に入ってみるのもアリかな? とか思い始めてバスケ部に仮入部して突き指をする。こっちもダメみたいだ。

 最終的に文芸部に落ち着く。冊子に俳句やポエムも載せていたから、これはと思い作品を見せにいく。受け入れてもらえる。入部することに決める。

 それから一年間に四冊の冊子が刊行されて、毎回みっつの詞を載せてもらえる。一月、冬季号を刊行したあとに部長から言われる。

「石見(いしみ)くん」

「はい、どうしました?」

「君って作詞家を目指してるんだっけ」

「そうですけど」

「それならたぶん、もっと色んな詞に挑戦したほうがいいんじゃないかなと思う。広いジャンルの歌を聴いてインプットを増やしたらもっとよくなるんじゃないかな。ワンパターンではないけど、今まで出してくれた作品に、レベルアップしていく感じがなかったから。……おせっかいだったらごめんね」

「……いえ、ありがとうございます」

 停滞している、ということなのだろう。意外性とか、新境地とか、そういう受け手を惹きつけるような変化がないのだ。将来どういう立場で作詞をしていくことになるか判らない以上、インプットの幅をもっと拡張していくことは大切だ。今のレベルのままで作詞家になんてなれるはずがないのだから。

 ということで高校一年の春休み中、動画サイトやストリーミングサービスなどを駆使してなるべく広く歌を聴いていく。歌詞を読んでいく。ボーカロイド楽曲やキャラクターソングなども聴いてみる。ただ聴いてみるだけでは馬鹿みたいな歌だったりするけれど、じゃあそういう詞を書けるかというとなかなかに難しくて、俗に言う電波ソングの作詞にも高い技術・センスが求められるのだということを改めて認識する……!

 インディーズで投稿されている曲も聴いてみる。再生数が二、三桁くらいの曲でも、心に刻みつけてくるような詞があったりして侮れない。詞のよさに知名度は関係ない。匿名の自作歌詞投稿サイトにだって特異なセンスの持ち主はいる。

 春休み明けに部長に原稿を送る。今まで知らなかったアプローチを盛り込んだ詞。好評だったけれど、創作活動におけるそういう勉強に終わりはない。高校二年生になっても歌を聴き漁る。

 そんなある日、YouTubeでカバー動画とオリジナルソングをアップロードしている女性のチャンネルを見つける。曲名にセンスを感じてクリックをした。

 そしてすぐに、僕はただならぬ興奮と幾ばくかの落胆を同時に覚えた。

 その女性はとても耳に染みつくような歌声をしていた。トレーニングをしているのだろうか、歌としての基礎レベルも高かったけれど、そこに個性が差し色のように絡まって、忘れられない歌になっていた――もう少し端的に言うならば、すごく好きな歌声だった。

 しかし、その歌にはメロディと伴奏こそあれ、詞というものがなかった。母音唱法。メロディに沿って色んな母音で歌っていた。それだけだった。作詞として学べるものはとくになかった。それが落胆した点だった。

 だけれど、このとき僕は初めて、「この人に詞を贈りたい」と思える歌声に出会えたのである。この女性に自分の詞を唄ってもらいたい――と、心から思った。

 しかし、チャンネルの概要欄にはとくにメールアドレスなどの連絡先は存在しなかった。Twitterなどのアカウントがあるかどうかもわからなかった。

 コメント欄も閉鎖されていた――誰かとのコミュニケーションやコラボレーションは求めていないのだろう。

 そのことでがっかりしながらも忘れられないまま、僕は高校三年生になる。

 そして、新入部員の歓迎を兼ねたカラオケ会で、一年生の女の子が一曲歌ったとき、僕は彼女があのチャンネルの女性であると確信する。

 何十回も聴いているこの声を、聴き間違える訳がない。

 彼女とある程度打ち解けた四月末、部室にふたりしかいないときを見計らって、僕は自作のポートフォリオを渡しながら切り出した。

「君に僕の詞を提供させてくれないか」



 断られた。

「ごめんなさい。嫌です」

 椅子に座って謝る彼女――灰田(はいだ)さんを前に、失恋をしたような気持ちになりながらも、ここで引き下がる訳にはいかないと思った。はいそうですか残念です、と諦められるほどに一過性の感情ではなかった。ずっと夢見て、ずっと現実になってほしいと思っていたのだ。願っていたのだ。

 思いつきで変なことを言いだしたから断ったってだけの出来事にしてたまるか。

「どうして。僕は本気なんだ」

「先輩の言うことでも聞けません」

「どうして」

「い、言わせる気ですか」

 と灰田さんは気まずそうにする。その様子に疑問を抱きつつも、

「言ってくれ。言われないよりマシだ」

 と僕はあくまで譲らなかった。

 すると灰田さんは、少しの間、言葉を選ぶように唇を歪ませた。それから言った。

「……石見先輩の詞、薄っぺらいんですよ。そんなの歌いたくないです」

 一瞬、なんて言われたのかわからなかった。僕の詞が、薄っぺらい? 中二から高三まで、ずっと書き続けて、作風も拡がるように勉強したのに、薄っぺらな作詞しかできていないって言うのか?

 アイデンティティを傷つけられ、怒りそうになったが、なんとか堪えた――落ち着け。そういう気持ちになるだろうと思っていたからこそ、灰田さんは言い渋っていたのだ。

「う、薄っぺらいって」灰田さんから少し顔を離して、僕は訊く。「どういう風に」

「言わせる気ですか」灰田さんは僕が渡したポートフォリオを眺めながら、「石見先輩は、色んな人をテーマにして、色んなジャンルの詞を書いていると思います。私が『こういう詞を書いてください』って言ったら書いてくれるんだと思います。でも、石見先輩の詞からは広さは感じられても深さは感じられないんです。作風の広さは感じ取れますが感性の鋭さは感じ取れません」

「感性の、鋭さ」

「だから、薄いんです。表面は綺麗で上手ですが厚みがないんです。作業的なんですよ。少なくとも私はそう感じたんです。だからあなたの詞じゃあ楽しく歌えないんです」

「……厚み」

 駄目だ。おうむ返ししかできない。意見から的外れなポイントを探そうと思ったって、要するに灰田さんの感性と合わなかったという問題なのだから、僕が否定することはできない。

 それに、それは結局のところ、図星なのだ。僕は作詞家志望として詞をたくさん書けるようになること、色んな詞を書けるようになることを目標にしてきた。詞にしてまで言いたいこと、詞にするほど素敵だと思うことなんて気づけば二の次だった。それか二より後回しだった。それがきっと、厚みがないということなのだろう。

「……灰田さんの言うことはわかった」

「そうですか、だったら――」

「でも僕は諦めない、……夏休み前まで待ってほしい」

「えっ」

「それまでに僕が厚みのある詞を書けたら、灰田さんの感性に響くようなものが作れたら――そのときは歌ってほしい」

 灰田さんはきっと、いや絶対、戸惑っていたと思う。いいから諦めてほしいとか、大人しく受験勉強をしろよとか、思っていただろう。

 でも、灰田さんは。

「……わかりました。書けたと思ったときに渡してください。チャンスは一度だけです。それで判断します」

 と――優しさゆえか、同じ創作者ゆえの情けかわからないけれど――そう、言ってくれた。

 そして僕は翌週のゴールデンウィークから旅を始めた。



 さて厚みのある作品とはどういう風に書けばいいのだろう? とすぐにハウトゥーを考えてしまうのがまず駄目なのかもしれない。厚みのある歌詞の書き方がどこかのブログで紹介されていたとしても、それはあくまで誰かの思う『厚みのある歌詞』をなぞるだけなのだ。括弧つきでは駄目なのだ。そんなのは穴が空いているように見えるトリックアートみたいもので、近づいただけで看破される薄っぺらさだ。

 僕は量をこなすことに邁進しすぎた。色んな作品を書けるようになろうとしすぎた。そのことばかり考えすぎた。自分がどういう詞が好きで、どういう表現が好きで、どういう言葉で語りたいのかということを無視しすぎた。

 そのお蔭でなんでも書けるようになれた。綺麗に書けるようになれた、と思う。でも、自分の書いた詞にどんな気持ちを込めたかと訊かれたら、答えられなくなっていた。

 込めたものは技術だけだ。多くのリファレンスを元に各パートに適切な言葉を並べただけだ。

 それだけじゃあ好きになってくれない、魂を大切にする層がいるのは知っていたけれど、まさか、自分が思い焦がれたボーカルまでその層だとは思いもよらなかった。

 あのあと、灰田さんに、どうしてオリジナル曲に歌詞をつけずにメロディだけを歌うのかと訊いた。すると彼女は、

「今は語りたい言葉がある訳じゃないので」

 と答えた。

「何か歌詞にしたいことがあったら歌うつもりです。メロディと伴奏と歌を発表したい気持ちは抑えられないんですけれど、だからってそのために取り敢えずみたいな歌詞を付けちゃったら、後で絶対に後悔すると思うので」

 そんなことをするくらいなら、ヴォカリーズやハミングだけの歌を選ぶということか。

 だからこそ、僕の書くような『薄っぺらい詞』も自分の歌に乗せたくないのだろう。

 運命は意地が悪い。自分に欠けているものばかりが必要とされる。でも僕はその意地の悪さに勝たないといけない。そうしないと手に入らない未来がある。なんて、詞のような言葉は置いといて、じゃあ僕はどうすればいい? どうしないといけない?

 自分の本当に書きたい詞を書かないといけない。

 自分が表現したいものごとを見つけないといけない。

 それが中身で、厚みだろう。

「中身ってどうやって得るものなんでしょうか」

 僕は四月末、灰田さんと約束をした日の夜に、卒業した元部長に電話をかけた。僕に作風を拡げることを勧めた人。この人は小説を書く人だった。いつだって自分の衝動のままに表現したいことを書く人だった。たまにそのせいでストーリー展開が意味不明だったこともあったが、少なくとも僕の知り合いのなかでは、一番『中身』のあるものを書ける人間だった。

「中身? 人としての、って話?」

「はい。それがないから、作品にも中身が生まれなくて」

 そういうと、元部長は『僕の作品に中身が生まれていない』という話題に対して否定も肯定もせずに、

「君は今、そういう悩みを抱えてるんだね」

 と返してくれた。

「はい」

「中身は自分のなかから生まれるものだけど、たぶん君の場合はその材料が不足しているんだろうね」

「材料……」

 中身を作るための材料。無から有は生まれない。

「その材料はどこから仕入れてくるのかといえば、まあ内になかったら外にしかない。外に出て、色んな景色を見たり、もっと色んな人と出逢ったり、色んなことをやってみたりするのが大切」

「それは卒業旅行やクラス替えでは足りないんでしょうか」

「足りてないから困ってるんじゃないの?」

 その通りだ。そんなのじゃあちっとも足りなかったのだ――というより、僕は、目の前に材料にするべき景色や人間がいるとも思っていなかった。僕は、作詞をしているクセに世界に対して冷めすぎているのかもしれない。

「冷めているからこそ書ける詞もあるとは思うけれど、それも材料があって中身が作れてからの話だよね。はは。って別に面白くないか。とにかく、勉強も大事だけれど、知識だけでなくたくさん経験を積むのも大切だよ」

「経験を……わかりました」

「具体的にどうするかは知らないけど、頑張ってね。こっちも頑張ってるから」

「そういえば、小説は最近書いているんですか」

「書いているよ。課題と交互にやってる」

「そうですか。よかったです」

「はは。表現欲求のままに書くって本当に楽しいよ。君もきっとこうなれるよ」

 通話を終えた僕はカレンダーに目を遣った。その年のゴールデンウィークは七日間あった。僕の両親はふたりともサービス業に従事していた。それゆえにゴールデンウィークは忙しくて、家族旅行なんてとてもできなかった。

 つまり僕に予定はなかった。

 だから僕は旅に出ることにした。

 ひとり旅である。

 両親には、友達と一緒で、保護者も同伴であるということにしておいた。

 手をつけていなかったお年玉を数えると十万円くらいあった。これだけあれば七日間の旅行は済ませられるだろう。

 行き先はどうしよう?

 国内の名所とかを検索してみるけれども、どれもイメージが湧かない。旅をして経験を積みたいという気持ちだけがあって、荘厳な滝が見たいとか御朱印を集めたいとかあの名物料理が食べたいとかこの城に行きたいとか、そういう行き先を決める目的がないのだ。目的のない旅というのも楽しそうだと一瞬思うけれど、それをやって結局各地の住宅街と駅前と公園を無言で散歩してチェーン店でご飯を食べて安いホテルに泊まって寝て起きて……それだけで終わったら時間の無駄になるんじゃないか? 実際にそうなるかはわからないが、そうなりそうな気がする。

 目的地くらいは決めよう。

 行き先は関東地方、恋川県。

 恋川県の恋川町には白樺城という歴史的建造物があるから、そこを目標にしたい。列車で向かえば早い……けれど、早すぎるので、歩いて向かいたい。

 未成年だから夜道を歩いていたら補導されるかもしれないが、そうしたらそれも経験だ。むろん、そうならないように気をつけるつもりだけれども。

 嘘をついたことと補導されたことのダブルショックで親を悲しませたくない。

 前日、ゴールデンウィーク旅行の荷物を準備しているとき、父が言った。

「それじゃあ、明後日はいないんだな。十八歳の誕生日だっていうのに」

「ああ、そうだね。ごめん」

「いや、気にするなよ。楽しんでこい」

「うん」

 初めて屋外で迎える誕生日はどんな風になるんだろう。十八歳の誕生日をひとりで夜道を歩きながら迎える予定だなんて、僕以外の誰も知らないのだ。なんだか、それだけでわくわくする。

 願わくはそれが、警察とお喋りをしながらのハッピーバースデーでないといい。

 そんなことを思いながら、前夜の睡眠に沈んだ。



 ゴールデンウィーク当日の二十三時半、歩き疲れて公園のベンチに腰を下ろした僕は、隣のベンチの下からはみ出る頭部に気づいた。死んでいない。寝ている。女の人だ。僕よりも年上っぽい。経験を積む旅の一日目としては幸先がいいのかもしれない。とかそんな風に冷静でいられる訳がない。何しろ前フリも何もなかったのだ。

「うっわ」

 とまず悲鳴を上げて、それから思考に移行するまでに何秒か必要だった。この人をどうすればいいんだ? 春でも夜は冷えるから放置するのは酷いか? 警察に通報? いや、時間帯的に、もしかしたら色々と面倒臭いことになるかもしれない。声をかける? かけていいんだろうか。無闇に関わらないほうがいい気がする。その女の人は見るからにパジャマ姿だった。暗くても柄からしてキャラクターものだ。僕の知識が正しければシナモロールくんだ。ホームレス系女子なのかもしれない。見なかったことにしておくべきのように思える。

 でも、と僕は思う。見なかったことにしておくべき、無闇に関わらないほうがいい――そんな人を見て、関わった旅行と、そうしなかった旅行。どちらのほうが、経験として豊かだろうか?

 きっと後者だ。見ようによっては面白い展開なのだから、ここは関与したほうがいい。最低限、財布と命には気をつけつつ。

「もしもし!」と僕は女性の顔に声を掛けた。「そんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」

 返事はなかった。すやすやと眠るばかりだった。長い黒髪に公園の砂がまとわりついていて、なんとなく、あーあ、と思った。あーあ。

 砂が付着しているのは髪だけではなかった。頬や唇や眉毛も申し訳程度に砂粒を掬っていた。今日はほぼ無風の日だからどこかから運ばれてきた砂ではないだろう。一度寝返りをうったあとなのだろうか? 僕が思うより長い間眠っているのかもしれない。

 彼女の砂のついた頬を軽く、全く力を入れずにはたきながら、僕はもう一度、もしもし、と声を掛けた。すると、彼女は控えめに、しかし動物的な唸り声をあげた。もうひと押しと再び頬をはたきながら、これって痴漢扱いされる可能性あるかな? とか考えてしまい、背筋が寒くなった。それから僕は彼女の頬をはたくのをやめた。

「起きてください。ここは公園ですよ」

「……みず」と、今度は人間的な声を出した。

「水?」

「頭が、痛いよ。水を、ちょうだいよ」

「わかりました。起きて待っててください」

 そう言って僕は販売機のほうに歩いた。自分の水筒をあげる気はなかった。自動販売機の一番安い水を買って、ベンチに向かう。また寝ていたらかったるいなと思いながら到着すると、どうやらちょうどベンチから這い出ている最中のようだった。ミネラルウォーターが手渡されると、彼女はそれをラッパ飲みし始めた。

 みるみるうちに減っていくペットボトルの水かさを眺めながら、やっぱり自分の水筒を貸さなくてよかったと思った。

「ありがとう」と女性はペットボトルを遠くのくずかごに放り投げながら言った。乾いた音が鳴った。「なんでうち、公園にいるの」

「それ、僕も気になっています」

「たしか、家で呑んでたと思うんだけど。なんで砂だらけになってんの。かけたりした?」

「いえ。たぶん、ベンチの下で寝てるときに寝返りをうったのでは?」

「ああー……寝返り、うつからなあ。うち」女性は自分に呆れているようなテンションで砂まみれのズボンを見つめた。「まあいっか」

 それから自己紹介合戦。彼女は山間(やまあい)さんという名前らしくて、つい最近、夫に出ていかれてしまったらしい。寂しさを飲酒で誤魔化す日々を送っている。そして今日も夕方から呑んでいたのだが、今回は多めに呑んでしまったせいで、途中から深い酩酊状態になってしまったのだという。

「気づいたらパジャマのままで公園まで歩いて寝ちゃったのかねえ。ゾンビが生前を再現するみたいだ」

「どういうことですか?」

「結婚してた頃、夜にパジャマ同士で散歩するっていうのやってたから。パジャマパーティならぬパジャマデート、とかいって。楽しかったな、あれ」

 たしかに楽しそうだなあ、と思う。そして、それは夫婦でやるから楽しげな行動に感じられるのであって、山間さんが今こうして独りでパジャマを着て公園にいる姿は、僕には楽しそうだとは思えなかった。そういうバックグラウンドを知ると、むしろよりいっそう痛々しい姿に見えた。

「君は? 石見くんは、どうして独りでここにいるの」

「僕は、ゴールデンウィークを使って旅をしているんです。歩き疲れたのでここに」

「そう。ご足労ですこと」

 それで会話が途切れる。そういえば今は何時だろう。腕時計を確認すると、どうやらもう二十三時五十八分らしい――と思ったところで、五十九分になった。

「へえ。もうこんな時間なんだ」と山間さんは腕時計を覗き込んで言う。

「実はあと一分で誕生日なんですよ」

「マジ? 何歳?」

「十八歳になります」

「へー。すごいね。ねえ、あれやっていい? あれ」

「あれってなんですか」

「なんか、ブザービートみたいなやつ。一生記憶に残るやつ」

「ええ?」何をする気なのだろう? わからない……けれど、少なくとも普通のことではなさそうだ。つまり、もしかしたら唯一無二の経験になるかもしれない。それは唯一無二の厚みにも繋がる。拒否はしない方向で行こう。「まあ、いいですけど」

「ありがと」

 ほどなくして零時零分零秒に切り替わる。

 僕はその瞬間にキスをされる。

 迷いなく唇を奪われたせいで、少しの間、何をされたのかすら理解できなかった――理解できたとき、僕は思った。

 この人、おかしい。

 怖い。

 面白い。

「十八歳になった瞬間の男子高校生の唇奪った女って地球上に何人いるんだろうね」

「……きっと、少数派だと思いますよ」

「そっか。お誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」

 それから、僕は山間さんの住むマンションに泊まることになる。

「荷物はほぼそのままだけど、出ていった夫の寝室が空いているから使っていいよ」

 と言われ、少し安心する。同じ部屋に眠ることになったら次はどんな面白いことをされるのかわかったものじゃない……というのは男子の妄想のなかにしかない展開なのだろうけれど。

 知らない浴槽に浸かる。このペースじゃあ恋川県に着くのは明日の夕方くらいになりそうだ、ということに思い至る。でもいい。それよりも得難い経験がここにはある。


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