短編小説
Y.Y
キツネ
キツネ
真夜中。暗い山道を、一台の車が走っていた。国産の高級車に乗っているのは、若いがきちんとした身なりの青年である。
彼はIT企業の社長で、木村という。ややワンマンだが、他人を利用してでも成功するというポリシーの下、挑戦的、打算的な戦略で会社を急成長させたやり手だ。成功のためならどんな労力も惜しまず生きてきた彼にとって、仕事とその成功が人生の全てと言ってもよかった。
今、車を走らせているのも、取引先の社長が持つ別荘でのパーティーに出席するためだった。別荘はビル街から離れた田舎にあり、車で行くには山を越えなければならない。当初は新幹線で向かう予定だったが、乗るはずの車両がトラブルを起こし、再び動くまでには一日ほどかかるらしいのだ。先方に連絡を入れて待つなどという悠長なことはできなかった。木村にとって、このパーティーは重要なものだったからだ。この取引先と太いパイプができれば、彼と彼の会社には多くの金が入ってくる。時間に遅れて、取引先の機嫌を損ねてはいけない。
山あいの村は過疎化が進んでおり、夜ということもあってよりいっそう寂しい雰囲気だ。店も街灯も少なく、民家といえば山道を登る途中で見たボロボロの木造家屋くらいだった。
しかし彼は心細さを感じることもなく、ただ野心だけを燃やしていた。人がいないのをいいことに、法定速度を超えたスピードを出すほどだ。パーティーの時間に間に合うかどうか、そのことだけを考えていた。
だからだろうか。不意に草むらから飛び出した人影を、避けることができなかった。あっ、と思ってブレーキを踏んだ時にはすでに遅く、鈍い音と嫌な衝撃が運転席まで届いていた。
静寂の中、木村はしばらく、ハンドルから手を離すこともできずに呆然としていた。
しかし、いつまでもそうしてはいられない。これからどうしようか。混乱する頭を無理矢理に働かせる。逃げてしまおうか、とも考えた。そして、すぐにやめた。テレビで見たことがあるが、いくら上手く逃げても、警察は小さな車の破片や道についた跡などから轢き逃げ犯を捕まえることができるのだ。しかもこちらはわずかだがスピード違反をしている。法律に詳しいわけではないが、罪に問われるのは避けられないだろう。故意ではないにしろ人を殺してしまったら……。
そこまで考えて、彼は伏せていた顔をあげた。そうだ、まだ死んでいるとは限らない。今すぐ救急車を呼べば、助かるかもしれない。適切な処置をすれば罪も軽くなるかもしれないし、裁判でも有利になるかもしれない。あくまで打算の下だが、彼は人として正しいことをするために車のドアを開けた。ここからは、被害者を心配する誠実な人間を演じなければならないのだ。
車を降りた木村は、自分の目を疑った。ヘッドライトに照らされているのは、舗装された道路。それだけだった。轢いたはずの人影が、どこにもなかったのだ。
あの影は間違いなく人だった。はっきりと撥ねた感覚もあった。撥ねられた人が動けるわけもないし、側の草むらや林を探しても、それらしいものは見当たらなかった。崖の下に落ちたのかとも思ったが、そうであったとしても道路に血の跡ひとつ無いのはおかしい。
混乱、そして言いようのない恐怖が彼を襲った。撥ねたはずの被害者がいなくなったのだから安堵するべきなのだろうか。救急車を呼ぶべきなのだろうか。ひょっとしたら、自分の頭の方がおかしくなったのか。周りに誰もいないことに気づき、いつのまにか彼は走りだしていた。誰かに会って、自分が正気であると確かめたかったのだ。行きで見た民家には、手入れされた畑があった。住民がいるはずだ。このまま一人でいたら、本当に狂ってしまいそうだった。
息が切れ、足が重くなってきたころ。木村はついに民家を見つけた。木造家屋は今にも崩れそうだが、窓から明かりが漏れている。人がいる。彼はふらふらと戸に近づき、軽く叩いた。
中から顔を出したのは、痩せた老婆だった。小柄な上に腰が曲がっているので、背はかなり小さく見える。無造作に結んだ白い髪はボサボサで、まぶたの重そうな目は、舐めるように来訪者を見ていた。
「なにか用ですか」
老婆が言った。見た目の割にはしっかりとした喋り方だ。木村が返事に困っていると、手招きしながら言った。
「道に迷いなさったんだね。スーツ着た人なんて、ここには滅多に来ないから」
部屋の中は、外観と同じくらい簡素な作りだった。囲炉裏や畳はかなり古い。そわそわと部屋を見回す木村に、老婆はお茶を勧め、戸棚から地図を引っ張り出してきた。容姿は山姥のようだが、案外、友好的な性格のようだ。
「明るくなるまで、ここにいたらどうだね。夜はクマが出るといけない」
「クマですか」
「おや、あんた喋れたんだね」
笑ったのだろうか、老婆の口がわずかに歪んだ。
「クマはたまにだけどね、イノシシとか、あとはキツネも出るよ。気をつけなされ」
「キツネ?」
彼は、キツネが出る、という言い方に違和感を抱いた。クマやイノシシならまだしも、キツネはそれほど危険ではないような気がする。
人と話すうちに落ち着いてきたのか、さっきよりは冷静になっているようだ。もう少し老婆と話をしたら、車に戻ろう。彼はそう考えて、さらに質問をした。
「キツネも危険ですか。寄生虫がいるって聞いたことは、ありますけど」
「あんた、知らないのかい」
「なにをですか」
「キツネはね、人を化かすんだよ」
「化かすというと、昔話や怪談でよく聞く……」
「そう。山道に美女やら化け物やらが立っていて、人が驚くとすぐ消える。大きな家に雨宿りをして団子をご馳走になったと思ったら、いつの間にか家は消えている、団子はウサギの糞だった」
彼は吹き出しそうになるのを堪えながら、へえ、と返した。頭はしっかりしていても、しょせん田舎の老人だ。まだそんな迷信を信じているらしい。
「信じてないみたいだね」
「はい、まあ……だって、それはあくまで言い伝えでしょう?」
「言い伝えだって、何もないところから湧いちゃこないよ。化かされた人がいるのさ」
「その人だって、本当のことを言っているのかどうか。見間違えとか思い込みによる失敗を自分の落ち度だと認めたくなくて、そう言っただけじゃないですか」
「中にはそういう人もいるだろうね」
「そうですよ。そして残りは酒に酔ったか、そういった妄想です」
非科学的なものを信じる年寄り。彼はそれを相手に、優越感と、理論をもってしてこの迷信を打ち砕いてやろうという使命感に浸り始めていた。
しかし、老婆は少しも怯む様子を見せていなかった。囲炉裏を挟んで向かいに座り、身を乗り出して話し始める。
「そう。妄想だよ」
「えっ?」
老婆が思いがけないことを言ったので、間抜けな声を出してしまった。
「じゃあお婆さんも、キツネの仕業じゃないってことはわかってるんじゃないですか」
「そうじゃない。キツネには人を化かす力があるけど、妄想が無けりゃキツネには化かされないってことさ」
彼には老婆の言っていることがよくわからなかった。
「妄想を持っていると、化かされやすいと?」
「化かすといっても正確には、キツネは映画みたいなものを見せるわけじゃない。人間の頭の中にある妄想を、少しだけハッキリとさせてるだけなんだよ」
「妄想をハッキリと……」
「だから美女に会ったり団子を食べたり、都合の良い光景が見える。妄想は都合の良いもんだからね。化かされたときに見るもんは、人の願望を反映してるんじゃないかと思うね」
「ずいぶんキツネにお詳しいんですね」
「爺さんがキツネを研究してたんだよ。それであたしも詳しくなったのさ」
爺さん、というのは老婆の夫のことだろうか。もう他界しているのかもしれない。それにしてもこの老婆、なかなか説得力のあることを言う。研究者の妻だからか、キツネの話になると妙に饒舌になった。
しかし彼も負けじと、老婆に反論をしかけた。
「じゃあ、山道で化け物を見た話はどう説明するんですか」
「それも妄想が見えたんだよ。暗いところを一人で歩いて心細くて、なにか出るんじゃないか、って気になったんだろうね。そこをキツネに付け込まれて、悪戯されたってわけだ。そんな化かされ方するのは、臆病な奴だろうけどね」
彼は何も言えなかった。老婆の言うことが理に適っていたからでも、一人が心細くなってここまで走って来たことを思い出したからでもあった。
「キツネはそうやって、人を化かしていたんですね」
「信じる気になったみたいだね」
「しっかりした研究がされているなら……」
木村は大きな欠伸をした。長い時間休憩なしで運転をしていたから、疲れが出たのだろう。腕時計を車に忘れたので正確な時刻はわからないが、外が少し明るくなっている。朝日が登ってきたようだ。
「そろそろお暇します」
老婆が引き留めたが、彼はここを去ることにした。クマやイノシシが出たとしても、倒れそうな家よりは車の方が安全だ。お礼を言って、来た道を引き返す。
ゆっくりと歩くうち、彼は思った。ひょっとしたら、あの事故はキツネに化かされて見た幻覚だったのかもしれない。
いつの間にか老婆の話を信じていることに気づき、彼は苦笑した。しかし、そう考えればあの不気味な現象にも説明がつく。夜の山道を走る不安から、無意識に事故を起こす想像をしていたのだろう。そこにつけ込まれて、人を撥ねたような気にされられただけだったのだ。だから道路には、なんの証拠も残っていなかった。
しばらく歩くと、緩やかな坂の上に、見慣れた国産の高級車があった。後ろからだと、車の周りだけぼんやりと光って見える。エンジンもヘッドライトもつけっぱなしで来てしまったようだ。彼は頭を掻きながら、ドアを開けようと車の前方に回った。
その時、ヘッドライトに照らされた道路に、何かが見えた。クマかと思い身構えたが、それはクマでもイノシシでもない、倒れた人間だった。男性のようだが、肌は青白く手足はだらりと垂れて、周りのアスファルトは赤く濡れている。一目で死んでいるとわかった。
キツネが見せた幻覚は、事故のほうではなかったのだ。つまり人を撥ねたのは現実で、幻覚はその後の……。木村はその場にへたり込み、絶叫した。
老婆の言った通りだった。人を化かすキツネは、都合の良い光景を見せるのだ。
短編小説 Y.Y @yotaro-kasumi
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