第3話 オカリナ
青空の気配。
午後のまったりとした時間が流れていく。
運動不足の私は久しぶりに散歩へ出かける事にした。家の近くには川が流れていてちょうどいい散歩コースになっている。
道なりに歩いて行けば横断歩道もなく安心して長い距離を歩けるのだ。
昔はよくジョギングをして汗を流していたものだ。
私はサングラスをし、帽子を目深に被り白杖を握りしめた。
外の空気に触れると脳ミソがクリアになっていくのをじんわりと感じる。
川沿いまでは100メートル近くあるが、魔法の絨毯、改め、黄色のボコボコが私の命綱となって導いてくれる。ボコボコを足の裏で感じると、日本人でよかったとつくづく思うのだ。日本くらいではないだろうか、街中至る所にボコボコが散りばめられているのは。
横断歩道では鳥のさえずりが安全を教えてくれる。
至れり尽せりだ。
私は白杖を左右にリズムよく動かしている時、ふと、昔を思い出した。
そう、私がまだ健常者だった頃、ハイヒールを履いた彼女と歩いていると彼女が黄色のボコボコに躓いて転びかけたのだ。そんなところを歩いていた彼女も彼女だが、私は「何だよ、こんなもん」と、彼女をかばって黄色を非難した。その頃の私は黄色を障害物にしか思っていなかった。
若かったというか、無知だったというか。
回想してたら、あっという間に川の匂い。
私は現在に焦点を合わせてまた歩き始めた。
沖田さなえだ。
身長は?体重は?髪の長さはどの位なのだろうか?
今までどんな仕事をしてきたのだろうか?
収入は足りているのだろうか?
彼氏は?
せっかっく青空の元散歩をしに来たというのに、返って頭がモヤモヤしてしまう。
追い払おうとするも、彼女はすっかり居座ってしまって動かない。
チクショウ
イライラと同時に歩幅が広くなっていった。
10分程経ち、思いのほか早く疲れ、汗をかき、のどが渇いたので家に帰る事にした。
知らず知らず歳を取っていた。
体力がなくなっている事に気付かされ、妙に心細くなった。
家に着き、帽子を脱ぎ、サングラスを外し、ソファーに座ると、安堵感からか、オカリナを吹いた。
このオカリナは私が視覚障害認定を受けた年に佐久間氏から貰った誕生日プレゼントだ。
この何とも言えない切ない音色が私の心と共鳴して、当時はよく吹いていた。
切なさは心地よさに変わり、少しだけ前向きになれた。
今もこうしてオカリナの音色に癒されている。
また前向きになれるだろう。
そう、
動物界ではハンディキャップがありながら生きていることが評価され、モテるらしいのだ。
ならば、私は大層なハンディキャップを抱えている事になるわけで大層モテるに違いない。
ただ、ここは惜しくも人間界、弱者に成り下がる。
とは言え、ここでふて腐れていても意味がない。
前を見て、地に足をつけ生きていかなくてはならない。
有難いことに、私は昔から自立心が備わっていた。
両親の離婚がそうさせたのだろう。
両親は私が5歳の時に離婚。
このマンションは母親が養育費なしの条件でもらって別れたそうだ。
母は二つの仕事を掛け持ちしながら家計を支えていた。
よって、私の面倒は祖母の仕事であった。
母を恋しく思う気持ちをおくびにも出さない、妙に聞き分けのいい子供だった。
初めて佐久間氏に会ったのは、そのマンションの近くの公園だった。祖母はベンチに座り私は砂場でよく穴を掘っていた。佐久間氏も祖母に連れられてきていて、老人二人は仲良くなり、私達子供も仲良くなった。
何故私は『佐久間氏』と呼ぶのかというと、一種のあだ名なのだ。子供だった佐久間氏は大人が名字に氏をつけて呼び合っているのを何処かで耳にしたらしく、かっこよく思ったのだろう、ある日私に「今日からさくちゃんじゃなくて佐久間氏と呼んで欲しい!」と真剣な目をして言ってきた事があった。
それ以来、私は佐久間氏と呼んでいるのだ。
私達は同じ小学校、中学校へ通い、高校からは別の学校になった。たまに連絡を取り合い、友達関係は絶やさない努力をお互い意識していた。
ある冬、私が大学3年の頃、祖母の具合が悪くなって佐久間氏の両親が経営する病院に入院する事になった。毎週末お見舞いへ行くようになってから、また佐久間氏との関係が復活し、前より仲良くなっていった。
佐久間氏にもハンディキャップがある。
軽い学習障害だ。
主に読み字障害があるらしい。
「め」と「ぬ」、「ろ」と「る」のように2つの文字の違いがわからなかったり、目が悪いわけではないのに文字が歪んで見えたり、文字自体が二重に見えたりするらしい。
脳の情報処理の仕方が一般人と異なるのだ。
医者にさせたかった教育熱心の佐久間氏の両親は障害に気付いて絶望した。
とは言え、軽い症状ゆえ、特殊訓練を受け、無事に大学にも行き立派な社会人となった。
親の期待に応える事はできなかったが、グレもせず家族思いの優しい人間に育った。
今は経営側の裏方に周って仕事をしている。
そういえば佐久間氏に貸したアダルトDVD、まだ返してもらってないな。
聴覚に特化した作品となっていて、毎度お世話になっている。
それにしてもいつからSEXしていないんだ?
SEXしたい〜
気付いたらいつの間にか私の右手にはストロング酎ハイが握られていて、目が据わっていた。
あれよあれよとしている間に1日は終わりかけてきた。もう後は寝るだけ。
あぁ
彼女の匂いが恋しい。
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