69 不器用なふたり、ひとつに


 ガラスのドーム越しに見える夕空は、どこまでも透き通っていた。


 プリンセス・プールの閉園時間はすでにすぎている。


 俺が倒した百人のアウトローの後片付けはどうなるのかと思っていたら、どこからともなくやってきた黒服たちがせっせと運び出していった。高屋敷家の「おそうじ部隊」だ。清原兄弟とその関係たちを、テキパキと連行していった。ブタさんの差し金だろう。さすがブタさんは綺麗好き――いや、単に証拠隠滅っていうだけか。


 甘音ちゃんたちには、先に帰ってもらった。


 残ってやらなくてはならないことが、俺にはあるからだ。


「ももちー先輩」


 プールサイドに佇む小さな背中に声をかけた。


 俺が貸したパーカーを、まだ羽織ってくれている。


 彼女はゆっくりと振り返った。


 肩まで垂らした桃色の髪が、風のなかでさらさらと舞った。


 プールの水面に、二つ影を映して、彼女と向かい合う。


「あんたまだ残ってたの? あの可愛い子たちは?」

「先に帰ってもらいました」

「あの中の誰かと付き合ってるんじゃないの?」

「今のところは、あいにく」


 ふうん、と彼女は言った。口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。


「パーカー借りっぱなしだね。ごめん。洗濯して返すから」

「いいですよ。返さなくて」

「……それは、困るじゃん……」


 彼女はもごもごと口ごもった。困るって、なんだろう?


「先輩は、これからどうするんですか?」

「どうするって?」

「もう、清原兄弟とコラボはできないでしょう?」

「そうね。ちょっともう、ナイかな」


 彼女は苦笑した。泣き笑いのようにも見える表情だった。


「馬鹿だったよ、あたし」

「えっ?」

「今日、子供たちと遊んでてさ、思い出したの。自分がアイドルを目指した理由」

「売店の前で出くわした時ですよね。子供たちと遊んでる先輩は、すごく楽しそうに見えました」

「――やっぱ、そう?」


 彼女は白い歯を見せた。


「まだ小学生の頃だけど、近所の子供たちと仲良くてさ。よく、歌手ごっこ的なことしてたんだ。あたしの歌やダンス、上手いって子供たちが褒めてくれて。盛り上がってくれて。それが嬉しくて嬉しくて、子役女優からアイドルになろうって決めたんだ」

「子供好きが、先にあったわけなんですね」

「うん。子供たちを笑顔にするようなアイドルを目指してたのに、どうしてあたし、あんなチンピラたちと付き合ってたんだろう。トップだとか一番だとか、そんなの別に目指してたわけじゃないのにさ。失った人気を取り戻そうと焦って、あんな……」


 また苦笑しようとして、彼女は失敗した。


 こみ上げるものを押さえ込むように、口を閉じてうつむいた。


 しばらく二人でプールの水面を見つめていた。


「誰もいないプールって、寂しいですよね」

「……だね」

「だから、また人を呼ぼうっていうのは、自然なことだと思います。先輩が悪いわけじゃありません」


 ありがとう、と小さく聞こえた。


「あんたには、全部見られちゃったわね」

「さあ、何のことだか」

「ふふ、優しいね。でも、今は見られて良かったって思う。傷をずっと隠してるのって、辛いからさ」

「わかりますよ。俺も同じだったから」


 それは、苦い記憶である。


「中学校に入って、最初の体育の授業の時です。着替えの時、同じクラスの連中にドン引きされたんですよ。『なんだその傷』『体じゅう傷だらけだ』って」

「……うん」

「子供の時からちょっと特殊な環境にいたので、体の傷がちょっとずつ増えていったんです。中学の時にはもう、今とほとんど変わらない体になっていました。引きますよね。あきらかに普通じゃない」


 淡々と話しながら、俺は不思議に思っていた。


 なぜ、こんなことを俺は話しているのだろう?


「だけどね、先輩。当時の俺は、自分が『普通』だと思いたかったんです。『普通』に溶け込もうとしてたんです。当然、無理でした。友達なんてできなかった。俺が話しかけても、みんな逃げていくんですよ。幼なじみが、そんな俺に言うんです。呪いをかけるみたいに。『アンタは普通なんかじゃない』『普通に生きられるなんて思うな』って」

「……ひどいヤツだね」

「ええ。ブタ野郎です」


 きっぱりと言った。


「あたしも、似たようなもんだよ」


 彼女はパーカーのおなかのところを軽くめくってみせた。


 右脇腹のあたりに、大きな手術痕があった。


「これが、あたしが水着になれなかった――ううん、ならなかった理由」

「ならなかった?」

「グラビアなんていくら修整でごまかせるから、傷があっても関係ないって割り切る方法もあったと思う。だけど、嫌だった。すごく嫌だったの。この傷をなかったことにするのが。そのくせ、傷をファンの前に晒す勇気もない。どっちつかずの意気地なし。それが、あたし。桃原ちとせ」


 パーカーをめくりあげている指が震えている。


 俺はじっとその傷を見つめた。


 しばらく、見つめていた。


「…………綺麗だ」


 えっ、と彼女は言った。


「綺麗って、この傷が?」

「はい。とても美しいです。こんな綺麗な傷は見たことがない」

「……あんた……何言っちゃってるわけ? まさか慰めのつもり? マジ、怒るよ」


 俺は首を振った。


「この傷は、誰かをかばって出来た傷ですよね?」


 彼女は不意を突かれた表情になった。


「俺、わかるんです。傷痕を見れば、その傷がどういう状況でついたものなのか、おおよその見当はつく。先輩の傷は、右脇腹から腰部にかけての裂傷。少し青みがかってることから『外傷性刺青』と呼ばれるものに見えます。横合いから何か巨大な武器、たとえば『なまくらな大剣』なんかで斬りつけられるとこういう傷ができかもしれませんが、日常生活でそんなことは起きっこない。普通に起こりうることで第一に考えられるのは――交通事故ですよね」


 先輩の頬が強ばった。


「しかし、交通事故にしては、傷の付き方がおかしい。車が横から突っ込んできたとしても、脇腹に切り傷がつくとは考えにくい。かなり無理な体勢、普通ならありえない体勢で、クルマと接触したんじゃないですか?」

「……」

「だとしたら、理由として最有力なのはひとつです。『誰かをかばおうとして、クルマと接触した』。それも多分、先輩の腕に抱えられるくらいの誰か――つまり、子供を助けようとして、その傷はできた。違いますか?」


 先輩はきっと俺をにらみつけた。


「ぜんぜん違う。不正解。ていうか、それ全部あんたの想像じゃん。妄想じゃん」


 俺は、自分のシャツをめくって後ろを向いた。


 背中の右下、腰骨の少し上あたりに、先輩の傷とよく似た裂傷痕がある。


「この俺の傷は、似たような状況で、幼なじみをかばってできたものです」

「……」

「かばわされた、といった方が正確ですがね。でも、先輩はそうじゃない。きっと、自分の意志で、子供を助けに飛び出したんでしょう? 傷痕に迷いがまるで見えない。だから言ったんです。『綺麗だ』って」

「…………ちがう」


 ちがう、と彼女は繰り返した。


 ちがう。ちがう。


 やがて、その声に涙が混じった。


「お隣の子が、轢かれそうになったの」

「……」

「とっさだった。気づいたら体が勝手に動いてた。なんにも考えてなかった。まだアイドルデビュー前の話。自分が子役女優だとか、アイドル目指してるとか、そういうの、いっさい考えないで、飛び出してた」

「優しいですね」

「優しくなんかないわよっ!」


 桃色の髪が振り乱された。


「あたし、助けたこと、後で死ぬほど後悔した。何度も何度も。その子を憎みさえしたんだよ。それっきり会ってさえいない。こんな傷痕が残るなら、助けるんじゃなかった。何度も何度もそう思ったんだから!」


 肩で息をする呼吸音が、誰もいないプールにしばらく響いていた。


「やっぱり、先輩は優しいです」


 俺は言った。


「子供を助けたこと自体が優しいんじゃない。その思い悩む姿、それでも前を向こうとするその生き方が――限りなく優しい」


 火がついたように激しかった彼女のまなざしが、ふっと勢いをうしなった。


 吊り上がっていた眉が、とろん、と落ちていた。


 どちらからともなく、俺たちは距離を縮めていた。


 互いの傷がある場所を探り合うように、互いの腰を抱いていた。


「ね、あたし、ずるい子かな? 自分の不幸をダシにして、あんたと……」

「いいじゃないですか。俺もつけこんでますから。可愛い先輩を落とすために」

「……ばか」


 憎まれ口を叩こうとする唇を、ゆっくりと塞いだ。


 顔の角度を何度も変えながら、静かに、長く、そうしていた。


 そのあいだじゅう、俺はずっと彼女の傷痕を指でなぞっていた。彼女の唇からは甘い吐息が漏れた。漏れた先から、すべて、俺の唇で盗み取った。


 先輩も、なぞり返してきた。


 可愛らしく盛られた爪で、優しく、撫でるように、俺の傷に触れてくれた。母親が子供の頭を撫でるような触れ方だった。「今まで、よく頑張ってきたね」。そんな風に言われているようで、胸がいっぱいになった。


 プールの水面に映る影は、今、ひとつだった。





 こうして、俺と桃原ちとせは、傷をなめ合う関係になった。


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