65【ももちー先輩視点】アイドルという試練・後編


 ちとせは、何を言われたのか、わからなかった。


「脱げって……はい? 水着になれと?」


 長男はせせら笑った。


「水着如きで今更、刺激になるわけないだろう。全裸だよ。上も下も、全部脱げ」

「は、はぃぃ?」


 長男の顔を見返した。


 顔は笑っているが、その目は笑っていない。


「そ、そんなの、ヨウチューブの規約にひっかかりますよ? アカウントBANされるに決まってるじゃないですか」

「そうだ。炎上する。それが話題になる。新しい客を呼び込むことができるだろう?」

「……いやいや、おかしいですって。冗談ですよね?」

「本気だが?」


 じわりと、背中に汗が滲む。


 気がつけば、スタッフがみんないなくなっていた。


 空気を読んでテントから出て行ったのだ。


 それは、清原兄弟が女性ファンと会う時の、暗黙の行動だった。


「あの桃原ちとせのフルヌード。……いや、それだけじゃ撮れ高がない。スパチャがウン百万突破するたびに脱いでいくとか? ……駄目だな。デキの悪いAVだ」


 長男はぶつぶつとつぶやいている。


「そうだ。大会の参加者全員、百人の男たちと絡むっていうのはどうだ? アウトロー百人と、元トップアイドル美少女の絡み。刺激的だと思わないか? すごい『撮れ高』だ」


 膝ががくがく震えそうになるのを、ちとせは必死に堪えていた。


 なけなしの勇気をかき集めて、毅然として言う。


「あたし、そういう売り方はしてませんから。事務所にもちゃんと話してます。もし強引にそういうことさせるなら、この場で社長に電話して――」


 つかつかと長男が歩み寄ってきた。


 その手に、スタッフが用意した打ち上げ用の缶ビールが握られている。


「キャッ!」


 缶ビールの中身を顔にかけられた。


 炭酸の弾ける音と、ひりつく皮膚の感じ、そして唇を濡らすアルコールの苦みと熱が、ちとせの頭をくらくらさせた。


「これで未成年飲酒だな? ちとせ」


 長男の口調が変わっている。


 完全に「反社会勢力」のそれだった。


「で? 誰に電話するって?」

「……っ!」

「落ちぶれたお前と、人気絶頂の俺。どっちの言い分を社長は信じるかな? なぁ? 試してみろよ――」


 2リットルのペットボトルより太い腕が伸びてきて、ちとせのTシャツを力任せに引きちぎった。


 コットンのシャツが薄紙のように引き裂かれ、ピンクの下着が露わになる。


「ほう……」


 少しも無駄なところのない、見事な肢体だった。


 ずっとずっと、子供の頃から、アイドルであるために磨き抜いてきた。柔らかな曲線とストイックなくびれ。決して、下衆な男に捧げるためのものではない。だが、持ち主の想いとは裏腹に、それは下衆を引き寄せてしまう。


 長男が舌なめずりをした。


「百人の前に、俺と絡むか」

「イヤッ!」


 真っ白な肌をいやらしい視線でねめつけていた長男の視線が、その時、ある一点で止まった。


 ちとせは隠そうとしたが、間に合わなかった。


「お前、その傷……」


 白くて滑らかな脇腹。


 そこから腰にかけて、皮膚がひきつれたような大きな傷跡――手術痕があった。


 かなり、目立つ。


 たとえば水着になれば、それは、誰の目にもわかってしまうに違いなかった。


「なるほどな」


 長男は唇の端を吊り上げた。


「お前が干された理由は、水着グラビアを断ったって話だったが、なるほど、その傷を見られたくなかったワケか」

「……ち、ちがうの、これは……」

「確かに派手な傷痕だな。なるほどなるほど、桃原ちとせは元から〝キズモノ〟だったわけだ。なら、今から俺がキズつけたところで、何も問題はないよな――」


 丸太のような腰がのしかかってきた。


 ちとせは涙を流していた。涙を流しながら、精一杯、手足を動かした。やめてよ。お願いだから。やめてよ。大声を出そうとするのに、喉に何かが詰まったように、出るのは弱々しい嗚咽だけだった。


 恐怖のあまり、目をつむった。


 閉じた瞼をこじ開けるように、さらに涙が溢れ出した。


 ――ごめんなさい。


 ちとせの頭に浮かんだのは、謝罪だった。


 ファンに対して。


 あるいは、ここで終わる自分の夢に対しての――。



 その時だ。



 ズンっと大きな音がして、のしかかっていた重みが急に軽くなった。


 粘土のような匂いが鼻をつく。


 手に何かついている。


 それは、緑色の粘液だった。


 一時期、ヨウチューバー界隈で流行した「スライム風呂」の素材である。


 ――なんでこんなものが、ここに?


 起き上がったちとせが見たものは、スライムまみれになった清原次男と、その次男の巨体に押しつぶされた長男という、滑稽きわまりない光景だった。


「へ? へ? へっ??」


 何度も瞬きするちとせの肩が、ぽんと叩かれて――。




「すいません、ももちー先輩。急にお邪魔して」




 申し訳なさそうに、彼は頭をかいていた。


 鈴木和真。


 どう見ても冴えない、目立たない、いわゆる陰キャな彼――。


「合意ではなさそうだったので、とりあえず助けたんですけど。余計なことでしたか?」


 言葉が出てこなかった。


 ちとせは夢中で首を横に振った。


「そうですか。なら、良かった――」


 彼が微笑んだその時、清原長男が起き上がった。


「貴様、何故ここに……。どうやって楽月(らっきー)を倒した!?」

「別に。そいつが自分で用意したスライムプールで泳いでもらっただけさ」


 事もなげに言うと、彼は自分が着ていたパーカーを脱いだ。


 見えてしまったその裸の肉体に――ちとせは思わず息を呑む。


 傷だらけだ。


 小さな切り傷、擦過傷などはもちろん、刃物で刺されたり斬られたりしたような傷も多く見える。さらに恐ろしいことに、小さな丸い蜘蛛の巣のように見える無数の痕……これはまさか、弾痕ではないだろうか?


 高校一年生が、いったいどんな人生を送ってきたらこうなるのか。


 この肉体に比べたら、自分の傷なんて――。


「あまり見られたくはなかったんですけど、その、先輩の肌は魅力的すぎて、目に毒なので」


 視線を逸らしながら彼は言って、上半身裸のちとせにパーカーを羽織らせた。


 全力で走ってきてくれたのだろう。


 パーカーからふわりと漂う、彼の汗の匂いに、ちとせの頬と涙腺が熱くなった。


「――かっこいいなあ。陰キャくん」


 弟の体をゴミのように押しのけて、長男が立ち上がる。


 落ち着きを取り戻し、不敵な笑みを浮かべて彼をにらみつけた。


「動画の計画変更。『陰キャくん、百人にボコられてコンクリート詰め、哀れ東京湾に沈む』――なんてネタはどうだ? 人が殺されるところなんて、最高の撮れ高だろう?」

「それより、もっといいネタがあるぞ」


 彼は淡々と言い返した。


「『不良のカリスマ、トップアイドルももちー先輩に泣きながら土下座』だ。いつも偉そうにしている偉くないやつが、雑魚に相応しい末路をたどる。最高の撮れ高だろう?」

「……貴様……」


 タトゥーまみれの顔が怒りで赤く膨れ上がる。


「ももちー先輩、下がっててください」


 傷だらけの背中でちとせを守りながら、彼は言った。


「先輩のために、最高の撮れ高、お見せします」

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