58 裏の世界の住人と、そのまた陰にいた俺

 というわけで、隣のプールに移動した俺たちである。


 ここは水深が浅いせいもあって、小さなお子さんを連れたファミリーが多い。ナンパ野郎が多かったメインプールとはあきらかに客層が違う。なんだ、早くこっちに来れば良かった。


「とはいえ、ここじゃ泳ぐって感じじゃないわね。浅すぎて」

「まーまー。いいじゃないですか。水遊びできればそれで!」


 ぼやく涼華会長の隣で、彩加がビーチボールを抱えている。


「会長サンって、アタマ超いいじゃないですか。運動はどうなんですか?」

「当然。この私に死角はないわ」

 

 サラッと銀髪をかきあげる様が麗しい、帝開学園生徒会長。


 身にまとう黒いビキニは、北欧ハーフという彼女の肌の白さをはっきりと際立たせるだけでなく、その豊満な肢体も強く印象づける。布の端から裾野が覗ける豊かなふくらみ、切れ上がった小股に微妙に食い込むその魅惑の黒が、男心をくすぐらずにはおかない。若いお父さんの視線を引き寄せてしまい、お母さんに頬をつねられお子さんに笑われるという事案があちこちで発生していた。


「言いましたねー? んじゃ、いきますよー! ほいっ」


 彩加がビーチボールをトスした。運動神経の良さを感じさせる軽快な動きである。さすがダンス部特待生。

 

 対する涼華会長。


 普段の涼やかな所作とかけ離れたへっぴり腰で、ふわふわ飛ぶビーチボールをどったばったと追っかけていく。誰がどう見ても運動ができない人のそれなのだが、俺も甘音ちゃんもいっちゃんも「まさかあの会長が」というイメージがあるため、呆然と見守ってしまった。


「んぎゅ」


 可愛らしい声とともに、コケた。


 盛大な水しぶきをあげてスライディングした銀色の頭に、ぽーん、とビーチボールが当たり、透明なドームの空に打ち上がる。


「あ、あー、その……えっと、なんか、ゴメンナサイ……」


 気まずそうに彩加が言った。


 仕掛けた彼女も、ここまで会長が運動音痴とは思わなかったのだろう。


「今のは練習」


 濡れた髪をぎゅっと手で絞り、会長は立ち上がった。内心どうか知らないが、まったく動揺を見せないのは流石の一言だ。


 あのう、といっちゃんが控えめに手を挙げる。


「涼華先輩、もしかして泳げないんじゃ?」

「大丈夫よ。私に限らず、人体は水に浮くようにできているから」

「いえ、浮くとか浮かないとかじゃなくて、その、クロールとか平泳ぎとか」

「それは私に次の五輪を目指せということ?」

「……ごり……」


 これはもう、間違いないようだ。

 

「今日はどうして、わざわざ苦手なプールに誘ってくれたんですか?」

「別に苦手じゃないわ。泳げないわけでもないけれど……」


 もごもご言い訳しつつ、会長は渋々と語り出した。


「あなたたち一年生や中等部の子は知らないかもしれないけど、帝開生はカップルになったらこの『プリンセスプール』でデートするのが定番なのよ」

「そういえばダンス部の先輩が言ってたかも。最初のデートでここに来たら、そのカップルは長続きするみたいな」


 彩加が言った。


 なるほど、ジンクスとか験担ぎみたいなことか。


「意外ですね」

「何が?」

「会長って、そういうの信じないタイプかと思ってました」


 何事も合理的に考える名うての起業家らしくない思考だった。「そんなのナンセンスでしょう」と言いそうに思う。


「もちろん、私は信じてないわよ」

「じゃあ、どうして?」

「それは、だって……」


 恥ずかしそうに目をそらして、会長は言った。


「だって、和真君の目標は、普通の高校生活を送ることなんでしょう? だから……」


 俺だけでなく、甘音ちゃんたちもきょとん、とした。


 その発言の意味がわかるにつれて、全員の口元にゆるい微笑が浮かび上がった。


「会長さん、優しいですね」

「和真せんぱいのためだったんだ。さすが先輩」

「ゴメンナサイ! ウチ、自分のことばっかり考えてた」


 甘音ちゃんたちが褒めそやすと、会長はますます頬を赤くした。


「ありがとうございます会長。そのジンクス、本物にしましょう」

「……女の子四人で来ておいて、もうジンクスも何もない気もするけど」


 甘音ちゃんと彩加が笑って言った。


「いいじゃないですか。開き直って楽しみましょう!」

「にぎやかなほうが楽しいって考え方もありますし!」


 いっちゃんがどこからかビート板を持ってきた。


「はい! これなら会長さんも泳げるでしょう?」

「や、やめて頂戴、恥ずかしい!」


 真っ赤になって両手を振る先輩が、愛おしくてしかたがない。


 本当に今日、ここに来られて良かったな……。


 と、その時である。



「いたぜ兄貴! 白いパーカーの陰キャっぽいのがよ!」



 家族連ればかりのプールにそぐわない、乱暴な怒鳴り声が響いた。


 ゴリラみたいな大男が俺をにらみつけながら歩いてくる。


 金髪のサイドを短く刈り込み、トップはツンツンに立たせている。ここまでなら深夜のド○キだが、「弱肉強食」と書かれたTシャツからエッジの立った筋肉がはみ出している様は本格的なトレーニングジムに行かないとお目にかかれない。


「おいテメエ。そこの陰キャ」

「俺ですか?」

「そうだよ。お前が合気使いか? アア?」


 胸ぐらをつかんで、日焼けした顔を近づけてくる。


「なんのことですか?」

「しらばっくれんな。さっき、弟の手首キメてくれたらしいじゃねえか。これから撮影あんのに、どうしてくれるんだよ。オウ?」


 ああ、思い出した。


 いっちゃんにちょっかいを出してきたパンチパーマの仲間か。


 清原兄弟とかいう、格闘家ヨウチューバー。


「……なんか、オーラねえな。マジでお前なのか?」


 弱そうな俺を見て、ゴリラは拍子抜けしたようだ。


「なあ兄貴! どうする? こいつとりあえずシメるか?」


 後ろから歩いてきたのは、ゴリラよりさらに頭ひとつ大きな男だった。


 上半身が裸で、下は黒のショートパンツを身につけている。


 全身の至るところに、タトゥーを入れている。


 顔の右半分が青白い蛇のような模様に覆われ、パンパンに肉の詰まった腕、太い幹のような脚にも、びっしりと墨が入っている。


 野ざらしの巨岩に無数の蛇が絡みついている、そんな印象の不気味な男だった。


 膨大なタトゥーもさることながら、面構えが明らかに違う。


 アウトロー。


 ただひとことで表すなら、そういうことになる。


 他人を怖がらせ、恐れられることを職業にしている人種だ。


 この面構えとヨウチューバーという肩書きはまったくそぐわないが、今はそういう時代なのだろう。裏の世界、自分の知らない世界を覗いてみたいという欲求は、誰にでもある。このタトゥーだらけのビジュアルインパクトは、そういう時代によく合っているのかもしれない。


 もっとも――。


 みんなが「見たい」と思うのはせいぜい「裏」までで、俺がいた世界――つまり「裏の裏」、さらにその「陰」までを覗くのは、きっと、求められていないだろうけれど。


 タトゥー長男は、ゴリラ次男に近づくなり、その頬を平手打ちした。


 ゴッ、と骨に響くようなすごい音がした。


 後ろにいる甘音ちゃんが「ひっ」と声を漏らすくらい。


「やめろ。人違いだったらどうする」

「……悪ぃ」


 ゴリラは一発でおとなしくなり、俺から手を放した。


 大物オーラを盛大に放ちながら、長男が前に進み出る。


「弟が悪いことをしたね。いろいろ予定が狂ったせいで、気が立っているんだ」


 口調は丁寧だ。


 だが、蛇のように細い目から放たれる視線は、ぬらぬらとしている


「末の弟が、さっき合気を使う男に手首をキメられたらしくてね。たいしたケガじゃないが、念のため病院に行かせた。格闘家にとって拳は大事な商売道具だから」


 そのわりに、雑な扱いをしていたな。


 本当に大事な道具なら、ナンパのためになんか使うはずはないんだが。


 俺の反応が鈍いの見て、タトゥー男は苦笑した。


「自己紹介してなかったな。俺は清原超星(きよはらすたー)。こっちは、弟の楽月(らっきー)だ」

「格闘家ヨウチューバーの人たちですよね」

「知ってるのか。嬉しいな」


 と言いつつ、当然のような顔をしている。


「末の弟の真陽(さにー)を倒したパーカーの男に、心当たりがないかな」

「…………」

「実戦で合気を使って、総合の選手を負かすなんて相当な使い手だから、ぜひ動画に出てもらおうと思ったんだ」

「知りませんね」


 とぼけることにした。


 横目でいっちゃんを見ると、顔が見えないようにウインドブレーカーのフードをかぶってうつむいている。余計怪しまれそうな気もするが、それが精一杯の手立てだろう。


「じゃあちょっと確認させてもらおうか」

「どうやって?」

「面通しするのさ。――おい。ちとせ」


 タトゥー長男が背後を振り返ると、そこには桃髪の美少女が立っていた。


 さっきの子だ。


 桃原ちとせ。


 俺でも知ってる有名なアイドルなのに、なんでこんなアウトローと一緒にいるんだ?


「うわっ、ももちーじゃんっ。マジ? ほんもの?」


 迫力に飲まれてずっと沈黙していた彩加が歓声をあげた。


「うち、大ファンなの。どうしよう! あ、握手して欲しい~!」

「頼んでみたらどうだ?」

「だ、だめっしょ! プライベート邪魔したら!」


 彩加がここまで言うなんて、本当にすごいアイドルなんだな。


 その桃原ちとせの肩に、清原長男は馴れ馴れしく手を置いた。彩加が「うげ」とつぶやき、険しい目つきでにらむ。怖い。推しを汚されたギャル怖い。


「ちとせ。真陽に仕掛けた男っていうのは、この彼か?」

「――」


 いっちゃんが息を呑むのが伝わってきた。


 その肩が震えている。


 俺はいっちゃんの背中を優しく叩いた。


 いっちゃんは横目で俺を見て、かすかに頷いた。


 そして――。


 桃原ちとせは、不機嫌そうな顔で言った。


「違う。こいつじゃない」

「……そうか」

「こんなひょろいヤツじゃないよ。もっと体大きかったし。女も一人しか連れてなかった」


 長男は頷いた。


「悪かった。やはり人違いのようだ」

「はい」

「君はずいぶんモテるんだな。可愛い女の子をたくさん連れて」


 すると、次男のほうが突然大声をあげた。


「あれ!? そこにいんの『あまにゃん』じゃね? 声優の」


 びくんっ、と甘音ちゃんが体を強ばらせた。


「あ……あー、えーと、は、はいぃ……」

「うわー、マジ? 俺大ファンなんだよ! 握手しよ握手!」


 ほとんど一方的に手を握られ、ぶんぶん、細い手を振り回される。


 さっきの彩加とはまるで違う、遠慮もデリカシーもない振る舞いである。


 握手が終わっても、次男は甘音ちゃんの手を放さなかった。


「なあ、あっちで冷たいもんでも飲まね? 店貸し切ってあっから」

「え、あの、その、今日はプライベートなので」

「いいじゃん! てかなんでこんな陰キャと一緒にいんの? アニメ出てるからってオタク相手にする必要ないだろ? なあ?」


 次男の視線が舐めるように動く。


 今日の甘音ちゃんはピンクのワンピース水着だ。フリルがたくさんついていて可愛らしい反面、ちょっと子供っぽくも見えるけど、小柄な体格に不釣り合いなボリュームのメロンは、とても子供の木に成る果実じゃない。


 唾を飲み込む音がした。


 次男の声に凶暴なものが生まれた。


「いいから、来い」

「痛っ……」


 ――ふむ。


 お互い芸能人同士ということで、俺にはわからない機微があるのかもしれない――と思って静観していたが、どうやらこの男はただの野良犬らしい。


 次男の手を払って、甘音ちゃんの肩を引き寄せた。


 勢いあまって倒れ込んだ甘音ちゃんを胸で抱き留める。安心したような吐息が俺のシャツを濡らした。


「やめてくれませんか。この子は俺の連れなんです」

「……へっ?」


 次男はきょとんとした表情をそのゴリラ顔に浮かべた。とぼけてるのではなく、本当に「意味が分からない」って顔だ。俺みたいなのが人気急上昇中の声優と一緒にいるのが理解できないのだろう。


「なあ陰キャくん。あまにゃんの前だからってかっこつけるなよ。死ぬぞ?」

「ただ遊びに来てるだけです。絡むのやめてくれませんか」

「お前じゃあまにゃんと釣り合わねえっつってんだよ。それとも、俺とここで闘(や)るか?」


 これだけ騒げば当然のことだが、いつの間にか周りには人だかりができていた。


「やめろ楽月(らっきー)。撮影前だぞ」


 観衆の目を意識したのか、長男は声を張り上げた。


 次男も声を張り上げる。


「いいじゃねえかよ兄貴。こいつも俺らの『大会』に出てもらおうぜ?」

「……そうだな」


 長男は何やら考え込んだ。考え込むふりをしながら、視線は彩加をジロリと見つめている。蛇のような視線。彩加が怯えたように俺の袖をつかむ。今日の彼女はまぶしい白ビキニ。おちゃらけたキャラと真逆のすらりとしたストイックな体つきを見事に際立たせる。特に豊かに張り出したヒップからかっこいい脚へのラインを、長男はタトゥーでも彫り込むみたいな目つきで見つめている。大物ぶってるくせに、ギャル好きのようだ。


「陰キャ代表ってことで、いいかも知れないな。なあ君、出てみないか?」

「大会って、なんの?」

「『黒に染まれ』」

「はあ。染め物屋さんの大会?」


 集まった野次馬からどっと笑いが漏れた。


 苦笑しながら長男が言った。


「総再生数一億回超えてるんだが、君は日本に住んでないのかな。素人を集めた格闘技の大会だよ。不良や街のケンカ自慢みたいなアウトローたちでトーナメントをやるんだ。優勝者は俺たち兄弟に挑戦できる。勝ったら百万円」

「へえ」

「今回に限り特別スポンサーがついて、一千万だ」


 野次馬たちから歓声が起きる。


 たぶんこれ、サクラも混じってるな。


 遅まきながら気づいた。今日、このプールは、この連中のイベントのために用意された舞台なのだ。事実上の貸し切り、連中の演出意図に沿って動くギャラリーが多数配置されているのだろう。


 このままだと、そのわけのわからん大会で黒に染まる流れになりそうだが……。


「ちょっと待ってよ」


 ずっと不機嫌な顔で沈黙していた桃原ちとせが言った。「も、ももちーがしゃべった~!」なんて、隣で彩加が悶絶している。そりゃしゃべるだろ。


「こんなひょろいの出しても、取れ高ないでしょ。清原サン」

「不満か? ちとせ」

「不良にも見えないし強そうにも見えないし、こんなヤツ出したら再生数落ちるよ。動画にはあたしも出るんだから、やめて欲しいんですけど」


 薄笑いを浮かべた次男が、聞こえよがしに言った。


「いつまでトップアイドル気取りだよ。落ち目のくせに」


 彼女は言い返さなかった。ただ、ぐっと奥歯を噛みしめるのが、横から見ていてわかった。


 と、その時である。




「やっほ~♪ カズぅぅぅぅ~~~!!」




 脳天気な声がプールに響き渡った。


 野次馬たちがどよめき、清原兄弟ははっと目を見開き、桃原ちとせは顔をうつむかせ、甘音ちゃんたちは「うわっ」とつぶやき、そして俺は額に指をあててため息をついた。



 出たよ。



 ブタさん。

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