56 「元」トップアイドルのほうが「現」トップアイドルより可愛い件


 しばらく歩いたところで、いっちゃんがぎゅっと俺の腕にしがみついてきた。膝がプルプルしている。怖かったのだろう。


 肩を優しく叩くと、甘えるように柔らかい体をすり寄せてきた。


 触れ合った肌から、じんわりと甘い熱が伝わる。


 誰かさんの言い草じゃないけど、この体で女の子は確かに無理があるな……。


「和にぃの“合気”ひさしぶりに見た。古宮道場にいた頃より、すごくなってるね。プロの格闘家にも通用しちゃうんだ」

「いろいろあったからな」


 別に望みもしないのに。


 プールでパーカーも気軽に脱げないような体験を、肉体に刻まれたのだ。


 あのブタとその一族に。


「もうセンパイたち来ちゃうね。水着、見てもらいたかったのになぁ」

「さっき、見せてもらったよ」


 それが、あの意味のない小競り合いの唯一の成果だ。


「爽やかな水色で、いっちゃんのイメージにぴったりだった。似合ってる」

「あ、あんな形で見られても嬉しくないよぉ!」


 顔を真っ赤にしたいっちゃんが指で俺の脇腹をつつく。痛い痛い。さっきの攻撃なんかより、こっちのほうがよほど強烈だ。


 と、その時――。


 ひとりの女の子が、俺たちの前に立ち塞がった。


 桃色の長い髪の少女だ。


 歳はたぶん、俺と変わらない。


 ベースボールキャップをかぶっているが、そのかぶりかたが、陰キャの俺には魔法にしか見えないくらいイケてる。


 腰の位置が高い。


 すらりとして、かつ、嫋やかな体。


 女性らしいふくらみにも恵まれている。


 つまり抜群のスタイルということなのだが――。


 おかしなことに、彼女はTシャツにミニスカート姿だった。


 ここはプールである。


 俺やいっちゃんのように、水着の上から何か羽織っている人は大勢いるが、服のままというのは珍しい。


「どこ行くのよ」


 天使のような容姿とは真逆の、不機嫌な声を彼女は発した。


 目深にかぶった帽子の下にある瞳が、ジロリと俺をにらみつけている。


「配信してない時に清原三男ぶっ倒してどうすんのよ。あんた企画の参加者じゃないの?」

「企画?」


 俺といっちゃんは顔を見合わせた。


「悪いけど、心当たりがない」

「あっそ。挑戦者ってわけじゃないんだ。なら――」


 彼女は勢いよく顔を近づけてきた。


 帽子が落ちて、長い髪がふわりと広がる。

 

 桃色の髪から、その色にふさわしい、瑞々しい白桃のような甘い匂いが香る。


 彼女は、そのまま思い切り背伸びして、右手を高く振り上げた。



 ――ぱしん!


 

 鮮やかな音がした。


 近くで見ていたいっちゃんが、呆気にとられて動けないほど――見事なビンタだった。


「ひとの仕事の邪魔すんな! 馬鹿!」


 そう言い捨てて、彼女は足音も荒く去って行った。


「うわー、すごいモミジ」


 ビンタされた左頬を見て、いっちゃんがこわごわと言った。


「大丈夫? 和にぃ」

「大丈夫じゃないな。クラクラする」


 ビンタの威力もさることながら。


 あんな可愛い顔を近づけられて、クラクラしない男はいないだろう。


「もしかしてあのヒト、桃原ちとせじゃないのかな」

「桃原?」


 その名前に、なんとなく聞き覚えがあった。


「和にぃ知らない? おととしくらい紅白にも出てたんだけど」

「ああ――そうだ、アイドルだよな」


 芸能界に疎い俺でも知ってるくらいだから、大メジャーってことになる。


「一時期ドラマやバラエティでよく見かけたよね。テレビで見ない日はないくらい」

「過去形なのか?」


 いっちゃんは苦笑した。


「今は、ほら、瑠亜さんがいるから」

「あれがいると、何かまずいのか?」

「アイドルって競争が激しいからね。一人が頂点に立てば、もう一人は……」

「そういうことか」


 ブタさんが人気急上昇アイドルとして注目され始めたのは、去年のことだ。


 誰かが上に立てば、誰かが下になる。


 ブタという太陽が昇ったので、桃原ちとせという星は、地平線に沈んでしまったのか。


 あんな超のつく美少女が、もったいない。


 他のアイドルに人気が出たからって、彼女の価値が下がったわけじゃないだろうに。


 どうも芸能界ってところはよくわからないな。


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